…8 流紋
三日三晩、紫野はひたすら風を紡ぎ続けた。もちろん俺もそこに居た。集会所の奥の間でほぼ二人っきり。床は素木張りの上に布を敷いてあるだけだから、居心地がいいとは言えない。
頃合いをみてお膳(……て言っても恐ろしくシンプルな、粗末な食事だ)が出された。俺は食べ盛りだからもちろんがっついたけど、紫野は喉があまり通らないみたいだった。日を追うごとに衰弱しているのが分かる。何度かの休憩の時、それまで無口だった紫野がようやく口を開いた。
「すまない那由他、水を」
さすがに心配になってた俺は、縁側から外に出ると急いで水を汲みに行った。あの泉の冷たい水を。
縁側に桶を置き、元の部屋に入ろうとして俺は思わず息を止めた。……紫野が上半身裸だったからだ。
脱いでる、っていうのに最初は雷が落ちるくらいの(オーバーか)衝撃をくらった。でも次の瞬間、もっと信じられなかった。
紫野の背中には、おびただしい程の流紋が浮かび上がっていたんだ。繰り返す渦とうねり。白い肌に青く滲む痣。まるで蛇が何匹も肌の内側に巣食ってるみたいに。
ぶるっと身震いをする。似ていた。あの時見た風神の頬の刺青に。
「これ——」
俺はじっと見入りながら、言われる通り布に含ませた水をかける。
「気持ち悪いだろ?」
紫野は俯いたまま、ぽつりと言う。
「この流紋は……語らうと現れる。風が私の中にいる……証……」
声が途切れ、小さく呻いた。紫野の呼吸が荒くなる。
「痛いのか!?」
いつのまにか、俺は紫野の背中に手を置いて、さすっていた。苦しい時はいつもお袋がこうしてくれたから思わずそうしたのかもしれない。紫野が深く息をする。少し利き目があったみたいだ。
「仕方ねーな」
また水をかけて、さする。紫野が動けるようになるまでそうしていた。
「済まない」
俺の前でためらいもなく肌をさらす。紫野にとって俺は完全に子供だった。五つも違うから仕方ない。でも俺は違和感を覚えてた。初めて女の肌に触れた。いや、目の前に女がいると、触れて初めてそう認識したんだ。
「変な痣。ぐるぐるでさ」
「私もそう思う」
紫野は苦笑しているみたいだった。初めて紫野が笑うのを見た。やがて紫野は深呼吸すると、静かにこう言った。
「いずれ、キミにも現れる。舞手は風を宿して舞うから……」
翌日、夜明けとともに紫野は仕事を終えた。紡いだ糸を分け、里人総出で千久楽の周りに張り巡らす。それは実際、千久楽全体を環状に囲む境の森の、幹一本一本に糸を結んでいくことだった。気の遠くなるような作業だよな。それでも少ない時間で済むのは、小さなコミュニティならではの団結だ。
その作業も大詰めの頃、かすかに足元が揺れた気がした。
なんてことない。よくある小さな地震と思った。気づかない奴もいたくらいだ。でも、それは大きな間違いだと、後に知ることになる——
糸を結んだねぎらいで、里人は子供から大人までほとんど集会所に集まっていた。今回の騒動をまだ不可解に感じながらの集会だった。宮司が何か言うのを皆待っている。そういう空気の中、たまりかねて聞いたのは漆工の親方だ。
「宮司、一体これはどういう訳だ? 特別な神事てのは分かるども……」
昔ながらの漆塗りを守る、相当頑固な親父。紫野が舞う時に付ける面の仕上げも親方が請け負う。いつだったか俺らが遊んでて、外に並べてあった器や面を蹴飛ばしたら、すごい剣幕で追いかけてきた。まさしく鬼の形相。転がってた面よりも怖い。その夜夢に出てきたくらいだ。
それはさておき、普段ぶっきらぼうで口を開かないだけに、その問いかけは余計重みを増した。
沈黙が降りる。宮司が口を開こうとしたその時。隣の部屋でついていた古いテレビからけたたましい警報音が鳴った。皆がやがやとテレビの前に押し寄せる。肝心の画面は砂嵐でよく見えない。姿の見えないアナウンサーが雑音混じりに告げたのは……
要するに〝世界の終わり〟だった。