…7 糸車
同じ世界に生きてても、違うものを見ることがある。誰も振り向かないのに、俺は……見てしまった。風の向こうに、美しい炎の中に、この世とは思えない地獄を。
火を灯したばかりに、見なくていいものを見た。それは妻を追って黄泉の国に来た男の話だったか。年を追うごとに薄れてはきたけど、夏が終わり、彼岸花を見ると、未だにあの恐ろしい風景が頭にちらつくことがある。
こんなガキの話に、紫野は真剣に耳を傾けた。紫野の顔がどんどん強ばっていくのが分かる。一通り聞くと、何か考え込むように宙の一点を見つめていたが、やがてすっと立って言った。
手伝って欲しい、と。
いきなり夏の奉納祭は中止になった。まして当日にドタキャン。こんなの前代未聞、異常事態だ。あんなに大切にしている祭を……だけど様子が変だった。片付けるどころか、大人達は何やら忙しそうに準備を始める。
太陽が傾き始めていた。光の色が赤みを帯びてくる。刺繍があしらわれた祭の衣装とは違って、紫野の衣は素の麻地の簡素なものだった。俺も着替えさせられた。もちろん稚児舞のジャラジャラした衣装じゃなく、紫野とお揃いみたいな感じで。
「なあ、これから何を始めるんだ?」
「那由他は黙って見ていてくれればいい」
……へ?
「え、じゃあ、なんで俺がいなくちゃ……」
「いれば分かる」
「……」
話してみて改めて思う。紫野は常に淡々とした物腰だ。見た目に負けず、心も涼しいのか。これがクールビュウティってやつか?衣装だって、紫野が着ればまるで雪女をほうふつとさせる。
女のくせに紫野は男手を努めていた。背もそこそこあるし、舞庭の上では立派な兄やに見えた。でもそれを明らかに払拭するのが、面を取った後の色白でキレイな顔立ちだった。
紫野の前には低い木机があり、その上に木製の車輪のついた道具があった。
「何だ?それ……」
「糸車だ。綿から糸を紡ぎ出す。……珍しい?」
紫野はちらっと俺を見上げる。珍しいも何も……一体これを使ってどうするのか。綿はおろか、手元には材料一つ見当たらない。しかもこの糸車、ものすごくボロい。回した途端に壊れそうで、到底使い物になるとは思えない。
神事といっても神楽も舞もなく、紫野はただその場に座り込んだ。
後ろに突っ立って見ている俺の耳に、やがて音が聞こえてきた。波のように絶え間なく、打ち寄せては消える。小さく震える喉から流れる、儚く、遠い調べ。
この唄……
聞き覚えがある、この言葉。意味はほとんど分からない。けど……いつだったか名倉の爺さんが歌ってた挽唄、宮司が祭の始めと終わりに歌う呼び唄、送り唄の言葉。あの、古い古い言葉だ。
〝風と語らうための言葉〟……まさか、紫野が歌えるなんて。俺は完全に度肝を抜かれ、半ば尊敬の眼差しで前に座るソリストを見つめていた。
信じらんねー……
周囲から風が集まってくるのが分かる。紫野の周りを旋回し、艶のある短い黒髪がさわさわとなびいている。
風は次第にふわふわと半透明の雲みたくなってその華奢な手元に吸い込まれていく。紫野は楽器でも奏でるようにリズミカルな手つきで左手の錘に糸を絡め、右手で車輪を回しながら依りをかけている。一定の動作が見ていても不思議と心地いい。
キー…カラカラ……キ…ーカラカラ……
ああ、そうか。紫野は風を紡いでいるんだ、と思った。そして紫野が歌うのは風を紡ぐための唄。
〝風の糸で衣を織って着れば、あまりの軽さに空も飛べる〟
そんなお伽話を思い出したのは、目の前の光景があまりに幻想的だったからか。確かに糸は空気のように軽く、錘に巻いていないとフワフワ飛んでいっちまいそうだ。