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愛と装いを混ぜ込んで

 本屋で参考書を買った帰り道、アイツに遭遇した。最悪だ。

 女の人を連れていた。私より背が低い。そのくせ意外と胸があり、まるでCMの人みたいな綺麗な髪をしている。

 誰だろうこの人。

 アイツが口を動かした。「よう」って言ってる。

 なんだよ、「よう」って。そんなこと家で一度も言ったことないじゃない。

 私が無視して歩いていると、アイツと女の人も後をついてきた。

 どうしてついてくるの?

 そりゃアイツと私は同じ家に住んでいるんだから仕方ないかもしれないけれど……どうして女の人までついてくるの? もしかして家に連れ込むつもり? 勘弁してよ!

「ねえかなでくん、知り合い?」

 意外と、見た目よりは図々しい女の人の声が聞こえてきた。

「ええ、妹?!」

 エミリーの歌声に、悲鳴のような甲高い声が差し込んでくる。

「奏くん妹がいるなんて聞いてないよ!」

「どうして言わないの?」

「私はリーダーなのよ。メンバーのことはちゃんと把握しておかなきゃ!」

 うるさい。うるさいうるさい。

 どうしてこのヘッドホンはあの人の声をキャンセリングしてくれないの? アイツの声はシャットアウトするくせに――

 私は駆け出した。逃げているみたいで嫌だったけど、それ以上あの場所にいたくなかった。

 結局アイツはあの人を家に連れ込むことはなかった。どうやらそういう関係ではないみたい。毎日でもないみたいだし。

 次にふたりを見かけたとき――警戒していたから鉢合わせする前に道を避けたのだが、女の人が肩にギターケースを担いでいることに気がついた。あの人がバンドのリーダーなんだ。アイツ、高校に入ってからしばらくして軽音楽部に入ったって聞いていたから。この目で見るまで本当に活動しているのかどうか信じられなかったけど……女の人と一緒に、バンド組んでいるんだ。ふーん、別にどうでもいい。けど、不潔って気がする。ふつう男子と組むんじゃないの? 本当にアイツは何を考えているのかよく分からない。


「ねえ楓」

「なに?」

「うわ、機嫌悪い」

 翠が両手を顔の前でぎゅっとして、怖がるふりをする。

「別に機嫌悪くない」

「ウソ、氷の女王様みたいな目をしているよ」

「氷の女王様なんて見たことないくせに」

 私がそう吐き捨てると、翠はやれやれというポーズをする。

「また弟くんのこと考えていたの?」

「考えてない!」

「ウソ。だって楓が機嫌悪くなるのって、いつも弟くんのことばかりじゃない」

「別に機嫌は悪くないし、アイツのことだって考えてない」

 私は翠の顔から目を逸らしそう言うと、わざと音を鳴らして席から立ち上がった。

「どこに行くの?」

「移動教室。だから呼びに来たんでしょ?」

 午後は二時間連続でパソコンの授業だったのだ。

 教室を出て、翠と並んで廊下を歩く。

 道行く道を人が避けていった。そんなに私は怖い顔をしているだろうか。

 階段を降りて、中庭に沿ったところで四人目の男子が道を譲ってきて、

「もう、楓。いい加減にしとかないと誰も相手してくれなくなるよ?」

「え?」

 ドキリとして顔を横に向けると、翠が眉をへの字にしていた。

「せっかく可愛い顔しているのにさあ……男子たち誰も怖がって楓に近づかないじゃない」

「なんだ、そんなことか」

 本当にそんなことだった。

 だけど翠はその反応に不満なようで、

「『なんだ、そんなことか』じゃないでしょ! 私たちもう高校二年生なんだよ?」

 しかも秋! と翠は付け加える。

「今どき中学生どころか小学生で付き合っているのも当たり前なんだから! どんどん周りに乗り遅れちゃうよ?」

「別に乗り遅れても……」

「何言っているのさ! そのうちに花の高校生時代は過ぎていき、大学生、社会人……終いには三十路に四十路になって一生独身で過ごすことになるんだよ? いいの? それで!」

「いや、それはさすがに嫌だけど……」

 さすがに私でも一生独り身で過ごすつもりはない。何がさすがなのか分からないけれど。けど将来「これ!」という人に出会えたとしたら、私は躊躇なく添い遂げるつもりだ。そんな人現れるかどうか知らないし、恥ずかしいから絶対に口にしないけど。

「じゃあもっとこっちからアクション起こさないと! 楓は有名人なんだよ? 陸上界のホープなんだよ? みんなが話しかけやすいように下に降りてあげないと」

「うるさいなあ。そういう翠だって彼氏とかいないんでしょ」

「たしかに今はいないけど! 楓と違って恋愛経験ゼロじゃないから!」

「えっ……」

 私は言葉を失った。

「み、翠、付き合ったことあるの……?」

「おお、意外そうだなあ楓さん!」

 翠はトレードマークのポニーテールを揺らして、まるで舞台役者のように大袈裟に言った。

「お仲間だと思っていたでしょ? 残念でしたー!」

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 思わず縋り付くように言ってしまった。

「ウソでしょ? だって翠、今までそんなこと一度も言ったことないじゃない」

「聞いてこなかったからね」

「聞いてこなかったからって……」

 あっけらかんと言う翠に唖然とする。

「だって楓ってそういう話好きじゃなかったでしょ? だから言い出しにくかったんだよ」

 うっ、と唸りそうになった。たしかに私が翠の立場なら言い出しにくかったかも……

 けど、けど、

「それなら今だって言わなくていいのに……」

「楓さんの頑なさに、翠は少し心配になってきたわけですよ」

 翠が教科書と筆記具を抱え直して、

「楓もそろそろ弟くん離れしなきゃなあと思っていたわけです」

「なんでそこでアイツが出てくるのよ……」

 結局そこに行き着くのか、と私は溜息をついた。

「だって楓、男の子といえばいつも弟くんのことばっかり」

「それは、嫌いだからよ」

 言って気分が悪くなる言葉だった。

 嫌い、嫌い。自分に嫌いな人がいるというだけで小さな人間のような気がしてくる。

「けど嫌よ嫌よも好きのうちっていうよ?」

 翠にかかればどんな感情も良い方向に向いてしまうらしい。

 話にならない、という風に私は空いているほうの手を振った。

「そんなことあるわけないじゃん。それにさ翠、勘違いしているけど、私の言う嫌いは無関心の嫌いだから。別にアイツが何してようがどうでもいいの。気に障ることをしてこなければね」

「気に障ることって、例えばどんなこと?」

「例えばアイツさ、この前……」

 ハッとする。

「翠!」

「いや、今のは私悪くないと思うんだけど……」

「うるさいうるさい。もうアイツの話なんて金輪際口にしないで」

 私はそう吐き捨てて足早にパソコン室へ急ぐと、背後から翠の溜息が聞こえた。

 もう知らない、翠の横顔だって見ない。

「ねえ、楓ちゃんの弟って青葉高校に通っているんだよね?」

 しかし私が翠から離れても、アイツの話題は私から離れてくれなかった。どうしてアイツは今日に限ってこんなにも人気なのか。

「あのね、実はお願いがあって……」

 パソコン室に入ってすぐ、私に話しかけてきたメガネの女の子・仁科さんは何故かモジモジしていた。いつもモジモジしているけど、そのモジモジに不穏さを感じてしまうのは何故だろうか。

 ああ、もう。

「ムリムリ。楓、弟くんのこと嫌いらしいよー?」

「別に嫌いじゃない!」

 言ったことに気づいて口を塞いだのだが時すでに遅しで――目の前には驚いて体をビクつかせる仁科さんと、「やっぱり」と今にも言いたげな翠の表情。

 顔をモニターのほうに向けてから、

「別に嫌いじゃないけど、好きでもないっていうか……あえて言うなら無関心……」

 ポツリと呟いたけど、モニタに映っている自分の顔が情けなくて。

 どことなく気まずい空気になったなあと思っていると、仁科さんが慌てて頭を下げてきた。

「ごめんなさい! 私、そんな複雑だとは思ってなくて……」

「いや、別に複雑でも何でもないの。ただ無関心というだけで」

「でも……」

「本当に何でもないから、ね? ちょっと最近話してないだけだから。思春期にはよくあるじゃない、ほら」

 何だか必死に言い訳してしまっているけど、私は仁科さんが苦手だ。決して嫌いというわけじゃないんだけど、彼女は何でもかんでも真剣に取り過ぎるところがある。もう少し翠みたく無神経になってくれてもいいのに……

「じゃあ弟くんとの仲は悪いわけじゃないんだ」

 そして無神経の権化たる翠が口を差し込んでくる。

「翠うるさい」

「じゃあ仁科さん、言ってみたら?」

 え? と仁科さんが翠のほうを見る。

「だって仁科さん、楓にお願いしたいことがあったんでしょ? 弟くん関係のことで」

 余計なことを、と翠をひと睨みするが意に介さず。

 でも、と怯んでいる仁科さんを「本当にそれでいいの?」「ここで逃すと次はないんだよ?」とあの手この手で籠絡していく。頑張れ仁科さん、と私は祈っていたけれど、どうやらそれは違う方向へ向いてしまったようで、

「楓ちゃん!」と力強く私に向けて声を発したのだった。

「なに?」

「青葉高校って来週文化祭あるでしょ?」

「えっと……うん」

 たしかお母さんがそんなことを言っていた気がする。

「だからその、弟くんに頼んでチケットを貰えないかなあ、なんて……」

「ええっ」

 なんだそれは。まさか私がそんなことを頼まれるなんて青天の霹靂だ。しかも仁科さんまで影響を受けて「弟くん」なんて言ってるし。

「おおーっ」と歓声を上げる翠。おい、全てお前のせいだぞ。

「で、楓さんの返答はどうなのですか?」

「どうって……」

「翠的にこれはナイスアイデアだと思うのですよ。青葉高校の文化祭といえば昔から大々的にやることで有名! だけど一昨年からチケット制になっちゃったから遊びに行けなかったんだよねー。だけど楓さんにはその青葉高校に通う弟くんがいた! そうだ! 弟くんに頼めば文化祭に行けるじゃないか!」

 すらすらと言葉を並べる翠。絶対に知ってただろ。

「文化祭行きたいね、仁科さん」

「うん、行きたい……」

 仁科さんも乗せられて、何だかそういうモードになっちゃってるし。

「ああ、もう!」

 私は全てがどうでも良くなった。


「文化祭、チケット四枚」

「いるの?」

「当たり前じゃん」

「明日渡すよ」

 そう返されたとき、もう明日なんて来るな、と私は思った。

 どうしてこんな思いをしなきゃならないんだろう。私のほうが上なのに、上なのに。

 明日もアイツと会話しなきゃいけないなんてバツが悪いにもほどがある。

 だから私は家の中でずっとヘッドホンを付けてやった。エミリーの曲を流して。

 エミリーの曲はポップで、パンクだ。

 私は現代音楽には常にポップ性がなければならないと考えている。大衆に受け入れられるポップさと、激しさが一体でなければ――

「楓、食べるときぐらいヘッドホン外したらどうなの?」

「今ちょうど良いところなの!」

 さすがに日本の食卓とパンクが合わないこは私にも分かっていたけど……だけどこの時間が、家の中で最も長くアイツと過ごす時間なのだ。このときばかりは気を抜くわけにはいかない。

 そうして食事を終えお風呂に入った後は、部屋に引きこもりアイツと相対せずに過ごせているけど――本来の目的を果たせていないことは私も分かっている。いいんだ、アイツのほうが頭を使えば。私はそんな言い訳をしつつ、机に伏せながら目を閉じて、ヘッドホンから流れてくる音に耳を傾ける。曲はセカンドアルバムの中頃に突入していた。エミリーは日本人の歌手と違って、バラードが多いほうじゃないけれど……いま流れている曲はエミリーらしくないと批判されたけど、反面多くの人にも絶賛された曲だ。私は後者の側に立っている。たしかにエミリーは擦れているけど、それは綺麗さの現れなんだって。今にも壊れてしまいそうなぐらい綺麗だから、擦れるしかなかったんだって私は思っている。歌詞は英語だけど一度調べたことがあって、遠く離れてしまった人を想う曲だ。だからエミリーらしくないって批判されているけど……たまには自分らしさを捨てたくなるときだってあるはずなんだよ。

 私も囁くように口を開こうとして――

 肩に手が置かれたのはそのときだった。

 私は慌ててヘッドホンを外して振り返る。

 アイツが、立っていた。

「触らないでよ!」

 言ってみたけどアイツは困ったような顔をするだけで、私は目を逸らして前を向いた。そして再びヘッドホンを被ろうとして、

「チケット」

 ハッとして振り返ると、片手でチケットを四枚差し出していた。

「用があるならメールしなさいよ!」

 チケットをぶん取りながらそう言うと、

「いや、したけど」

「え?」

 返ってきた言葉に唖然として、ヘッドホンのプラグが繋がっている先に視線を移す。スマホの通知画面に、アイツの名前が表示されていた。

「もう、うるさいうるさい!」

 ヘッドホンから流れてくるエミリーの歌すら煩わしくなり、スマホからプラグを引き抜く。音楽の再生が止まってひどく静かだ。アイツも私も動かず、時間が止まったみたいになって、

「もう用は済んだでしょ。出ていってよ」

「ああ」

 アイツがそう返事して、ドアを開ける音が聞こえて――閉まった。

 震えが止まらなかった。中学のころ大会に出場して、体中が自分のものじゃなくなったようなときに似ていた。あのときはどうしたって――

 震えを止めるために、深呼吸を一回、二回……

「なあ」

 アイツの声が聞こえて、息が詰まりそうになる。

「まだいたの?」

 思わず振り向いて、アイツと目が合った。水晶玉みたいな瞳をしていた。覗くと私の顔が映って、小さな頃はずっと、ずっとその瞳を覗いていたのだった。お人形みたいで、双子なのに私とは似ても似つかない。

 私は負けるのが嫌で、その瞳を呪いをかけるぐらいにじっと睨んでやった。アイツが先に目を逸らしたので勝ったと思った。

「文化祭さ、あの翠って子と行くの?」

「アンタ翠のこと好きなの?」と言ってやる。

「いや、別に」とアイツは言って、「楓の友達、その子以外知らないから」

「……翠に仁科さん、それに隣のクラスの沢口さんっていう子。その三人と行くの」

「そっか」

 アイツはポツリとそう呟いて――奏とまともに話したのは随分久しぶりだった。アイツの口から私の名前を聞いたのも。普段はあれだけいがみ合っているのに不思議だった。もしかしたら私が感じていることは大したことないのかもしれないと思い、

「あのさ」

「……なに?」

 アイツの言葉に耳を傾けてしまった。

「俺、文化祭でライブやるんだけど」

 それを聞いた瞬間、私の中で熱が引いていくのが分かった。周りの景色の何もかもが熱を失って、考えていることが全部馬鹿らしいと思えるような。

「それって、あの女の人とするんでしょ?」

「女の人? ……ああ、うん」

 アイツは少し考えたけど、どうやら思い当たったようで、

「行かない」と私は言った。

「私がどうしてアンタのライブになんか行かなきゃいけないの?」

 何も考えなくたって、そんな言葉が口から出ていく。

「私はアンタのことも嫌いだし、あの人のことも嫌いなの」

 声を出すたびにアイツの顔を見れなくなり、視線を下げてしまう。

「早く出ていってよ」

 私は机のほうに向くと、ヘッドホンを被りスマホにプラグを差し込んだ。通知画面にアイツの名前が残っていたけど無視して――ミュージックプレイヤーを開いて再生を押せば、エミリーの曲が流れてくる。さっきの途中だったけど、巻き戻す気にはならず。机に伏せて目を閉じると、私は完全に外部から遮断された。さっきみたいにアイツに肩とか叩かれればどうしようもないけれど、今度は叩いてくることはなかった。エミリーの歌声は、そのうち私を違う世界に誘ってくれる。


 ―*―*―*―


「ちゃんと私のこと応援してね、奏!」

「分かってるよ、楓」

 奏はそう言って私の肩をポンポンと叩いたけど、全然分かっていない。

 だって今の私は、緊張で体が崩れてしまいそうなくらい不安なのだ! 湯豆腐で豆腐がぐずぐずになった感じって言えば分かるかな……すんでのところで形を保っているというか、豆腐が無理やり人の形をしているみたい。自分でも何を言っているのか意味が分からないよ!

「大丈夫だって。まだ時間あるでしょ? いつもみたいに音楽聞いておけば?」

「うん……」

 オリンピックのマラソンで金メダルを取った選手がさ、ウォーミングアップ中にずっと音楽を聴いていたらしいよ。楓だって走る前に音楽を聴けば、少しは緊張しなくなるんじゃないかな。

 奏がある日そんなことを言って、それを聞いたお父さんが誕生日にヘッドホンを買ってきた。こんな高いのじゃなくても、普通のイヤホンで良かったのに……だけど実際に使ってみると、イヤホンとは雲泥の差だった。イヤホンは耳の中で音を鳴らしているように感じるけど、お父さんが買ってきたヘッドホンは、まるで近くで本当に演奏しているみたい。高音は伸びがあって低音は広がりがあって、ずっと付けていると音楽の世界に吸い込まれそうになるのだけど――このヘッドホンには一つ欠点があった。奏の声が聴こえなくなるのだ。ノイズキャンセリング機能搭載だけど、危ないから人の声は聞こえるようになっているはずなのに……

「奏。手を握って、お願い」

「分かったよ」

 苦笑しつつ奏は私の手を握る。奏の手は私の手よりも大きく、少しだけだけど男の人の手をしていた。前はそんなことなかったはずなのに……目は私は少しキツくて、奏は吸い込まれそうな水晶玉の瞳をしている。その他にも頬の膨らみだとかところどころ違うところがあって、けれど同じ格好をしていれば、私たちは完全な双子だと思われていた。

 今はどうなんだろう。

 奏の横顔を覗いていると、気がついたのか奏が微笑んできて――恥ずかしくなった私は目を逸らして、ヘッドホンから流れてくる音楽に耳を傾けた。エミリーの曲だ。エミリーは今年デビューした歌手だけど、ファーストアルバムがいきなり世界で一千万枚売れた。ファッションは不良みたいだったけど独特で、日本でも真似する人が続出したぐらいだ。カッコよくて私も憧れていたけど……何よりも惹かれたのは歌声だった。とても透き通って、泣きたくなりそうな声をしている。何もない崖で海に向かって一人で歌っているみたいに。その声を聴いていると私は一人だけの世界に突入していってしまうけど、今は奏がいた。声は聴こえず、目を閉じているから姿だって見えないけれど。手が繋がっている。私が少し力を込めると、ギュッと握り返してくれる。そうしていると、エミリーが崖で歌っている背後で、私たちふたりだけが体育座りしてずっと耳を傾けているみたいだった。日が沈んで、日が昇って、水面に光が反射して、また日が沈んで……

 ポンポン、と繋いでいる手を叩かれた。

「時間だよ」


 競技場に出てみると、やっぱり別世界みたいだった。そんなに席が埋まっているわけじゃないのに、周囲をぐるっと囲んでいる二階の観客席が反り返ってきて、押し潰されてしまいそうな圧迫感がある。

 私は昨日、この圧迫感に負けて上手く力が出せなかったのだ。タイムはボロボロ、決勝に残れたのが奇跡なくらいだった。それでも、中学一年生で決勝に残れたのは凄いことらしいのだけど……

 奏の姿を探していると、観客席の一番前でお父さんお母さんと三人でいた。今日は家族全員で応援に来てくれているのだ。手を振ってくれているけど、さっきまで隣にいたとは思えないぐらい、その姿が小さく見える。ひとりなんだって思う。どれだけ奏がそばにいても、私はひとりで走らなきゃいけないんだ。

 場内アナウンスが聞こえる。ひとりひとり選手を紹介していく。これがテレビで放送されるなんて嘘みたいだ。私の番になる。声を上げて「はい!」なんて言ってしまう。隣の人に笑われた。最悪だ。もう走りたくない。

「楓、頑張れー!」

 声が聞こえた。私がそちらのほうを振り向くと、相変わらず奏が手を振っている。一生懸命というより、微笑むような感じで。

 私は覚悟を決めた。

 銃声が鳴り、スタートした。

 私は一番前に出た。長距離走はペース配分が重要だけど、私は自分のペースで走りたい。後続との差がぐんぐん開いていく。振り返らなくても分かる。

 走っているあいだ、私はいろんなことを考えた。

 奏のことだ。

 奏は私より全然勉強できて、運動神経も良くて、足だって奏のほうが速かった。髪だって柔らかいし、同じ格好をすると奏のほうが女の子っぽかったし、いつだって奏は私の前を行っていた。私はむかし歌手を夢見ていたことがあったけれど、奏のほうが歌が上手だったし。

 だけど中学校入学時に体力測定があり、そのときの長距離走で先生に「すごい記録だ!」と褒められて……先生は陸上部の顧問で、そのまま勧められる形で陸上部に入ったのだ。最初は苦しかったけど記録はぐんぐん伸びて、いつの間にか長距離走で奏に勝てるようになった。初めて勝ったときのことは今でも覚えている。はしゃぎにはしゃいで、こんなに嬉しいことがあるのかっていうくらいはしゃぎ回ったのだから。

 いま奏はきっと、私のことを見ていた。私はずっとずっと、奏が活躍する姿を見ているだけだったのに。作文コンクールで奏が賞を取ったときだって、先生に褒められているときだって、私はただ見ているだけで、なんで奏だけこんなにも出来るんだろうって。奏の半分でも私に才能をくれれば、きっと、きっと嫉妬することなんてなかったはずなのに。

 だけど私にだって才能があったんだ。この大会に勝って、勝って、全国大会に勝ち進むんだ。ちゃんと結果を残したら、そうしたら初めて奏と向き合える気がする。隣に立てる気がする。

 私は走った。無我夢中だった。調子が良い。まるで風に乗っているみたいに体が前に運ばれていく。空気の中を泳いでいるみたいに。誰も追いつけない!

「やった!」

 結局一度も抜かれることなくゴールに辿り着き、勝ったんだと思った。振り返ると他の人たちは遥か後方にいた。もしかしてレースはまだ続いている? なんて思ったけど、みんなが拍手する音が聞こえて、係員の人に誘導されて、やっぱり勝ったんだって。

「すごいぞ深山みやま!」

 何か事件が起きたみたいに先生が駆け寄ってきて、

「見ろ! 信じられない記録だ!」

 見つめた先の掲示板に表示されていたタイムは、びっくりして腰が抜けちゃいそうなくらいすごい記録だった。

「これだと全国制覇も夢じゃない!」

 先生の夢みたいな言葉に私は圧倒されて、だけど周りの人もみんな驚いているから、決して嘘じゃないんだって思って。

 私にもちゃんと才能はあったんだ。奏にも負けないぐらい、すごい才能が……

 私は本当に腰が抜けた。なんだか涙がボロボロ出てきて、周りに人がいるにもかかわらずわんわんと泣いてしまった。

「おいおい、泣くにはまだ早いだろ。この後には全国大会が控えているんだぞ」

「だって先生……」

 奏に、お父さんとお母さんの姿が見えた。観客席から降りてきてくれたみたいだ。

「こんな勝ち方いままで見たことないぞ! すごいじゃないか楓!」

「あんなに速いのならどうして緊張したりするのよ……」

 ふたりとも、お母さんは微妙な褒め方だけど、私が勝ったことを喜んでくれているみたいだった。こんなこと初めてだ。

 あとは奏が、私のことを褒めてくれたら……

「奏!」

 思わず私はその名前を呼んだ。お父さんとお母さんが空気を読んで前を開けてくれて、奏の顔が見えて。

 奏は、笑っていなかった。

 表面上は笑っているけど、無理やりそうしている、みたいな表情。

 奏は私の活躍を喜んではくれていなかった。

 そのとき私の中で何かが壊れたのだ。


 ―*―*―*―


 ――嫌な夢を見た。

 二度と思い出したくない。それなのに、お風呂のタイルの間にこびりついているカビみたいに、いつまでも忘れさせてくれない。

 本当に嫌な夢だった。

 昨日よりももっとアイツに会いたくなくなった私は、朝早く外に走りに出掛けた。休日で朝練がない日でもちゃんと毎日走っているけれど、それよりももっと早く。書き置きを残しておいたから、みんな心配しないはずだ。

 私が家から持ってきたものといえば、スマホとヘッドホンだけ。出来る限り身軽でいたかった。エミリーの歌を聴いて走っているときだけは何も考えずにいられる気がする。

 ずっと走っていると、いつの間にか朝日が昇っていた。最近は日の出が遅くなり、すっかり秋だという感じがする。早朝にジョギングを始めてからは、それを目に見えて感じることができる。

 毎日ジョギングしているとどうしてもコースが決まってしまうけれど、いつもとは違う道を行くのが好きだった。普段とは違う街並みが見られれば、興味を惹かれて普段よりも速く走ることができる気がする。だから今日は思いっきり違う道を進んでやろうと思った。出来る限り遠く、遠くへ――

(さすがに遠くに来すぎちゃったかな……)

 スマホの地図アプリで位置を確かめて思った。これだと家に帰るまでに一時間近くかかる。一時間くらい走るのは平気だけど、ここまで休まず二時間くらい走っていた。ダラダラ走るのは良くないのに。それに水分だって全然取っていない。

 少しぼうっとしてきたので近くの公園のベンチに座ると、どっと疲れが出てきた。休まないほうが良かったかもしれない。エミリーの歌はとっくの昔に二週目に突入している。立ち上がる気がせずベンチに体を預けていると、

「楓ちゃん?」

 その声が誰だか思い出せていれば、きっと知らないふりをしていただろうけど。

 私はほとんど何も考えず顔を上げてしまった。


「いや、あの、本当に結構です」

「そんなこと言って。倒れられたほうが逆に迷惑なんだよ? ささっ、飲んじゃって」

「でも……」

 私に声をかけたのはあの人だった。

 アイツと一緒に歩いていた女の人。浅海あさみ和音かずねさんというらしい。

「奏くんや楓ちゃんと苗字が正反対なんだよね。面白いでしょ?」

 そんな風にして私の思考を先回りして言ってきたこの人は、私が何故こんなところにいるのかと聞いてきた。家からずっと走ってきたのだというと素直に驚いて――そこから水分はちゃんと取っているのかとかそんな話になって、無理やり飲み物を奢られるハメになったのだ。

「ほらほら、早く早く。こうなると私はしつこいわよ? 飲むまでここを一歩たりとも離れさせないんだから」

 寄越されたスポーツドリンクに仕方なく口付けると、体中に水分が一気に浸透した気がした。思っていた以上に体は水分を渇望していたらしい。

「ありがとうございます。あの、どうやってお礼したらいいか」

「別にいいよ? 私が勝手に奢っただけだし」

「でも……」

「楓ちゃんって、思っていたより礼儀正しい子なんだね」

「え?」

 思いがけない言葉に声を上げる。

「だって楓ちゃんって、もっと怖い人みたいな気がしたの。そしたら結構、こうやって話してくれるんだなあって」

 あなたは思っていたよりフレンドリー過ぎるけどね、と私は思った。

 落ち着いてそうな人という第一印象はとっくの昔に崩れていたけれど、いまの浅海さんは髪を後ろで括りポニーテールになっていて、幾分スポーティな感じだ。弾けるような笑顔で、性格通り明るい人という感じがある。

「どうしても気になるって言うのなら、奏くん経由でお金を返してくれればいいよ?」

「なっ……!」

 思わぬ言葉にあんぐりしていると、浅海さんは「あははっ」と笑った。

 やっぱりこの人は嫌いだ。

「あの、ありがとうございました。これで失礼します」と言って立ち去ろうとすると、

「ごめんごめん、待って。お礼の話」

 そう言って私のことを引き留めて、

「少しお話しよう? 私あなたと話したいと思っていたの」

 私が思っていたこととは真逆のことを言った。

 釈然としない気分のまま私は再びベンチに腰を下ろす。

「奏くんに聞いたんだけど、奏くんと楓ちゃんは双子なんだよね?」

「そうですけど……」

 そう答えると、浅海さんは私の顔をじっと見つめてきた。眉毛が整っていて睫毛も長く、本当に綺麗な顔をしていて思わずたじろいでしまう。

「たしかに似ているわね」

「え?」

「うん、これは確かに双子だなあって感じ」

「どの辺りがですか?」

 私は素で聞いた。

「リアクション」と浅海さんは言って、

「困るとすぐ瞼を閉じ加減にして目を逸らすんだ。そういうところそっくり」

 私はハッとして浅海さんから顔を背ける。

 アイツの癖だ。

 言われるまではっきり意識したことなかったけど、たしかに――

「結構ちゃんと観察できているでしょ? 奏くんのこと」

 ぼとん、と心の泉に重たくて大きいものが落ちた気がした。再び目を向けると浅海さんは笑っていた。

「浅海さんはどうしてアイツを勧誘したんですか?」

「……さすが楓ちゃん、勘が良いね」

「え?」

 意味が分からず疑問符を口にすると、

「そうだよ。私が奏くんを勧誘したんだ」

 浅海さんは背筋を伸ばして遠くを見つめる。それを見て私の心の泉に、また何か重いものがぼとんと落ちた気がした。

 何だろう、この人。

「ある日中庭を歩いているとね、鼻歌を歌っている奏くんとすれ違ったの」

 浅海さんが言った。

「ついつい口をついて出ちゃったという感じでね。けどそれがすごくサマになっている気がしたから、『それなんて歌?』って声をかけてみたの。だけど奏くんは全然教えてくれなくて。押し問答しているうちに、『もう鼻歌のことなんてどうでもいいわ、ウチに来なさい!』って奏くんを誘ったの」

 この人が新しい言葉を喋るうちに、私の内に黒い何かがどんどん落ちていく。ぼとん、ぼとん、ってひっきりなしに音が鳴って。

「けどやっぱり、あの歌が何だったか気になるわ。また今度聞いてみようかしら」

「浅海さんは今年で高校卒業ですよね」

 とにかくこの人の言動を止めたいと思って、私はそんなことを口にした。

「私と奏はいま、二年生だから。アイツとは部活動でやっているんですよね。高校を卒業しても続けていくんですか?」

 正面を向いて話す私の前に雀が降りて来て、トントントン、と軽やかなステップを踏んだ。

 私とは関係なしに世界は回るみたいだ。

「続けていくよ。たとえ奏くんがいなくても」

 私はその言葉に思わず引きつけられる。

「奏くんとは関係なしに、音楽関係の仕事に就くのは私の夢だから」

 遠く過去を見ていると思っていた瞳は、未来も見ていたようだった。

「私ね、高校卒業したら音大に行くの」

 浅海さんが両手を頬に当てながら語る。

「推薦が一枠だけあってね? 受けてみたら受かっちゃった」

 そのときのことを思い出したのか悪戯っぽく笑って、

「だからね、再チャレンジしてみるんだ」

「再チャレンジ?」

 その言葉も気になるけれど、もっと気になったのは別のことで。

「それって、バンドに関係あるんですか?」

「ん?」

「いや、あの、どう言ったらいいか分からないんですけど、大学でやる音楽って私たちが普段聴いているものとは違う気がして。クラシックとか、そっちのほうになるのかなあって……」

「うん、そっち方面だよ」

 あっけらかんと浅海さんは言った。

「私中学生まではずっとそっち方面の音楽ばかりやっていてね。またやろうかなって」

「そんな、じゃあ奏とは全然関係ないじゃないですか!」

 意味が分からなかった。

 私は睨むように浅海さんを見つめたけど、浅海さんは微笑みの表情を崩さなかった。

「……ギターしかやったことない奴が音楽を語るな」

「え?」

 浅海さんの口調がとつぜん変わったので、私は戸惑った。

 何それ、誰の言葉?

「全然有名でもなんでもないネットの書き込みなんだけどね」

 浅海さんは苦笑を浮かべながら口にして、

「ギターしかやったことない奴なんか見識が狭いから、音楽を語る資格なんてないんだって。極論だと思ったけど、一理あるなあって思ったの。だってテレビの音楽番組を見ても、ボーカルと、ギターと、ベースと、ドラム。だけどそれだけじゃないよね? キーボードはもちろん、ピアノやヴァイオリンだって入れるし、オーケストラを雇ったりして。典型的なバンドサウンドって少ないじゃない。たまにそれを嫌って、『俺たちはバンドサウンドで行くんだー』ていう人たちもいるけれど。けどそれって、他の音もあるってことを知った上でやって意味があると思うんだ。私はリーダーだからね。もっといろんな音楽に触れなきゃいけない。そして曲を作ってね、奏くんに歌詞をつけてもらう……って、奏くんがいなかったらって話をしてたんだっけ? まあ奏くんがいなくても……けど、勿体無いなあ。奏くんみたいな歌詞を付けてくれる人ってなかなかいないんだもの。とても幻想的でね。奏くんが歌うか歌わないかでは曲が段違いで……」

 何故だろう。

 もっと嫌な人だったら良かった。

 もっと、もっと、奏のことを利用するだけの人であってくれれば。

 だって、奏のことを好きだってことがこんなにも伝わってきたら、どうすればいいのか……

「楓ちゃんは、奏くんのことが嫌いなんだよね?」

 ぼとん、とまた大きな音がした。

「多分そうなんだろうって奏くんが言ってたから」

 ぼとん、ぼとん、と心が支えられなくなりそうで。

「そうですよ」と私は言った。

「私はアイツが嫌いです。だって、小さいから。つまらないことを気にしたりするから。疲れるんです。アイツといると」

「奏くんは嫌いじゃないって」

 浅海さんの言葉が、私の心を串刺しにしていく。

「多分嫉妬したから嫌われたんだろうって言ってたの」

「アイツはあなたになら、どんなことでも話すんですね」

 私はこの人を睨んで、睨んで、

「聞いてみたら意外と話してくれるよ、奏くんは」

 私はこの人が、わざとこんなことを言っているんだろうと思った。

 傷つけるために……?

 なぜ傷つくのか。

「奏くんに言われたでしょ? ライブに来て欲しいって」

 言われてない。

 そんな悪態も口から出てこなくて。

「私からもお願いするわ。来て、絶対。あなたが知る深山奏と私のバンドの奏くんは、きっと違うと思うから」

「浅海さん、あなたは一体何がしたいんですか?」

 初めて浅海さんの顔から笑みが失われて、「分からないよ」と言った。

「だけどあなたみたいな傍にいる人に奏くんが認めてもらえないなんて、私は許せないから」



 ――青葉高校文化祭当日。

「わあー……」

「ねえ楓。本当にこの文化祭、チケット制なの……?」

「そんなの私に聞かれたって分かるわけないでしょ」

 そう答えたものの、翠の疑問はもっともだ。

 青葉高校は正面玄関から人で溢れていた。これで本当にチケット制なのか。チケット制じゃなかったとしたら一体どんなことになっていたというのか。

「とりあえず皆さん、はぐれないように手を繋いで行動しましょう」

「え、それはちょっと……」

「さあさあ、早く手を繋ぐのです」

 何故か動じていない絶対敬語の沢口さんに半ば無理やり手を繋がされて、私は重い気持ちを抱えたまま文化祭に参加することになってしまった。

「文化祭といったら食欲の秋、食べ物でしょ」

 そんな翠の食い意地に促されるがままに屋台を回って、四人が同時に声を上げる。

「美味しい!」

「このイカ焼き美味しいですねえ……」

「こっちの唐揚げもすごくカリカリしてる!」

「焼きそばって当たり外れ大きいんだけど、これはなかなか……」

 これがウチの学校の近くにあったら間違いなく毎日買いに行くよ。安いし。

 みんな夢中になって食べているが、仁科さんの食べっぷりが物凄い。恐ろしい勢いで食べ物がなくなっていく。

 仁科さんってこんなキャラだっけ?

 まあいいか。繋がっていた手も離れたことだし。

「お腹いっぱいになったし、遊べるところを回って見ようよ」

「賛成です!」

 そしていろんなところを回ってみたけれど、なかなか楽しかった。

 翠は相変わらず屋台のゲームを極めているのかどんどん景品を取っていったけど、仁科さんは私の予想通りに数々の失敗を見せてくれる。沢口さんは分析とかしだして、最もらしいことを言うけれどそれが全然成果に反映されなかったりするし。

 私は私で、まあいろいろやった。うん、いろいろ。私をお化け屋敷に蹴り込みやがった翠だけは絶対に許せない。いつか仕返しする。

「あれ、深山楓さん?」

「えっ……あ」

 名前を呼ばれたので思わず立ち止まると、私と同じくらいショートカットの女の子が立っていた。

 あれは……

「光井早矢はや?」

「そう! 覚えていてくれたんだね」

 こちらに駆け寄ってきて嬉しそうに手を握った。

 光井早矢。

 中学三年の全国大会で一緒のレースを走った子で、闘争心剥き出しでなかなか手を焼かされた。

「忘れないよ。すごく印象的だったし」

「あはは。そう言ってもらえると嬉しいよ」

 ある意味嫌味な言い方でもあったのだが、光井さんはそんなこと関係なく善意でさっぱり受け取ってくれる。なかなか気持ちの良い子だ。

「ちょっと楓、その子知り合い? 話についていけないんだけど」

「翠、この子は……」

 そして私は三人を光井さんに紹介する。

「ああ、楓が言ってたのってこの子だったんだ! レース中ずっとくっつき回られたって」

「ちょっ、ちょっと翠……」

「あはははは! よっぽと印象的だったようだね」

 翠の余計な言葉にヒヤリとする。

 光井さんは全然気にしてないようだけど……実は気にしているとかないよね?

「そういえば光井さんは何故ここにいるの?」

 私は無理やり話題を変えることにする。

「何を言っているのさ。この制服を見てみなよ」

「え?」

 言われて光井さんの全身にあらためて目を向けると……これは青葉高校の制服?

「光井さんって青葉高校の生徒なの?」

「そうだよ。随分意外そうだね」

 だって青葉高校の陸上部はそんなに……

 言おうかどうかまごついていると、遠くから青葉高校の人が光井さんに声をかけてきて、

「早矢ちゃん、何しているの?」

「竹内さん、旧友と話していたんだよ」

 敵と書いて友と呼びそうなニュアンスで光井さんが言った。

「早矢ちゃんのお友達? 初めまして、私は竹内唯と言います」

 沢口さんとはまた違った感じで行儀良く言われたので、私も思わず「初めまして、深山楓です」と馬鹿正直に自己紹介してしまった。

「深山……」

 何かに思い当たったように竹内さんは私の顔をじっと見つめて、

「もしかして奏くんの双子の妹さんですか?!」

 いきなり身を乗り出してそんなことを言ってきた。

「……へえ、たしかに苗字が同じだ。深山さん、そうなの?」

 言われて成る程という風に光井さんが言って、

「違うよ」と無表情で私は言った。

「アイツが弟だから」

「えっ、でも……」

「ちょっ、ちょっと楓! お邪魔しました!」

 とつぜん翠に連れられて、人のいない場所に連れていかれる。

「もう、何やっているの楓!」

 怒られた。

「だって……」

「まったく。弟くんのことになるとすぐに冷静さを失うんだから」

 本当に、アイツのことになるとなんでカッとなってしまうんだろう。さっきのはふたりとも悪意があったわけじゃないのに。

 しばらくして、仁科さんと沢口さんがこちらに向かって走ってくる。たどり着いて、すごい息の乱れようだ。

「か、楓ちゃん……翠ちゃん……」

「急に走り出すからびっくりしました……」

「あはは、ごめんごめん」

 翠は簡単に場を取り繕って、だけどふたりは何か言いたげで、

「あの、楓ちゃん……」

「聞きたいことがあるのですが……」

「……なに?」

 このときの私の心は意外と平静で。

 ふたりは深呼吸して息を整えてから、覚悟を決めたように私に向かって言った。

「楓ちゃん、あなたの弟くんは……」

「今日文化祭のライブでトリを務めるバンドの奏くんと……」

「同一人物ですか!」

「うん、そうだよ」

 ハモってきたふたりにあっさり答えた。

 ふたりの体がぶるりと震え、わあーっと歓声を上げる。

「し、知りませんでした……」

「まさか弟くんが奏くんなんて……」

 もはや仁科さんにとってアイツの名前は弟くんになっていたのか。

 しかしふたりまで、アイツはそんなにも有名なのか?

「ねえ、ふたりとも。奏くんってそんなに有名なの?」

「当たり前じゃないですか!」

 翠の言葉に、当然のように沢口さんが言った。

「去年の文化祭のライブ、ひとりで観客の心を全部鷲掴みにしちゃったんですよ? 真ん中ぐらいに登場したので後のバンドは鳴かず飛ばずで大変だったって聞きました。だから今回はトリなんです! どれだけ観衆を魅了しても問題ないように!」

 想像以上の内容に私は閉口する。

 兵器かよアイツは。

 さすがの翠も「すごいね……」と言葉を失っているようだ。

「というかふたりとも、ようやく合点がいきました」

「へ?」

 翠と私が同時に素っ頓狂な声を上げる。

「なぜふたりともそんなに冷静だったのかという意味ですよ。このチケットを受け取ったときに」

 沢口さんはスカートのポケットからチケットを取り出すと、「ここ見てください」と端っこを指差した。

「アルファベットと番号が書いてあるでしょう」

「書いてるけど……」

「え、これってもしかして」

「そのもしかしてですよ!」

 何かに思い当たったかのような翠に、沢口さんがビシッと指差しながら言う。

「このアルファベットと番号は、ライブのときの座席位置を指定しているんですよ!」

「ええ?っ!」

 こくりと沢口さんの隣で頷く仁科さんを見たが、まだ全然理解が追いついてこない

「い、いや、文化祭のライブにふつう座席指定とかある?」

「ないでしょ……」

「ふたりともまたまた何を言っているんですか」

 そろそろ追いついてきてくださいよと言いたげに、沢口さんが頭に手をやる。

「ただでさえ観客同士の位置取りを巡って問題が起きたことがあるのに、そこに奏くんが参加するとどうなりますか?」

「どうなりますか、って……」

「とんでもないことになるに決まってるじゃないですか!」

 沢口さんはそう言い放ち、

「血を血で洗う争いが起きますよ! そうならないように今回のライブでは位置を最初から決めることになっているんです。抽選がありましてね……もしかしたらライブを見れないかもしれないんですよ? こんな残酷なことってあります?」

 うんうんと再び隣で頷く仁科さんを見つつ、ようやく理解が追いつく。

 つまりこのチケットは……

「最初から座席指定がついた、超プレミアムチケットってことね?」

 私の意思を汲んだ翠の言葉に、「そのとおりなのです!」と沢口さんが答えた。

「しかもこの位置、一番前ですよ。正面じゃないですけど……こんな良い位置を本人から貰えるなんて、もう感謝、感激……」

 瞳を潤ませてトリップする沢口さんを見て、ようやく謎が解けたのだった。

 チケットを渡したとき、仁科さんがガタガタと震えて椅子から滑り落ちたこと。

 てんで話したことのない沢口さんが私のクラスまでやってきて、土下座しかねない勢いで私に数多の感謝の言葉を送ったこと。

 ふたりともよっぽと文化祭行きたいんだなーとか、沢口さんに至っては言葉だけでなく頭まで少しおかしいのかとか思ってしまったけれど。

 全て合点がいった。

 一体アイツのどこにそんな魅了があるのかということを除いて。

「楓、ライブ行くの……?」

 別世界にトリップしているふたりに聞こえないように翠が言ってきて、

「当然じゃない」と私は言った。

「一体どれほどのものなのか見てやるの。私はそのために来たんだから」


 ライブが始まった。といってもまだアイツの番ではないけれど。

 チケットは本当に、某テーマパークのプレミアムチケット並みにプレミアなものだった。群衆が渦巻くなか、素知らぬ振りして特等席までたどり着ける。

 ライブは講堂で行われるのだけど、下から見下ろす壇上は恐ろしく広く感じた。何より近い。手を伸ばしたら届いてしまいそうで……

 休憩を挟んで二時間半で十組演奏するのだけど、後ろにいけばいくほど演奏時間が長くなるようで、奏が所属するトリのバンドに至っては五曲も演奏するらしい。しかも今回は冒険的で、全部オリジナルだとのこと。

 正直私は、一組目のバンドから度肝を抜かれていた。

「この人たち、メチャクチャ演奏うまいんじゃない……?」

「うん……」

 ノリノリの沢口さんと仁科さんに置いていかれて、私は翠と話していたけれど。

 私たちの学校の文化祭でも学生がバンドで演奏することはあるのに、それとは全くレベルが違っていた。本気で音楽やってますという感じ。ファンだってしっかりついているようだし……

「やっぱりプロの人たちってこれより上手いの?」

 休憩時間になって、後半への体力回復に努める仁科さんは置いといて、沢口さんに話しかける。

「そうですねー。まあ上手い下手というよりも、そのバンドだけが持っている特別な何かがないといけないですね」

「特別な……何か?」

「そうです。これだけはどのバンドにも負けないっていう特別な何か」

 それってやっぱり。

「奏くんは、そういう意味では特別です。といっても生の奏くんは今日が初めてなんですけどね……本当に楽しみです」

 沢口さんの言葉を聞いて、私はなんだか怖くなった。

 とんでもない決定的な何かを叩きつけられそうな感じ。

 逃げるわけにはいかないけど。

 そして後半戦が始まった。

「ここから出てくるバンドは、いつプロデビューしてもおかしくないですよ」

 その言葉のとおり、登場してくるバンドのレベルがぐんと上がった。

 上手いだけじゃなく、特別な何かを持っている――

 とくに六組目のバンドなんか、ガールズバンドなんだけどロックにしっかり歌い上げて、もしテレビに出てきたらファンになりそうなくらいだった。

「きた、ね」

「はい」

 翠の言葉に、仁科さんか沢口さんのどちらかが小さく返事して――

 きた。

 明らかに場の空気が変わった。

 まだアイツは袖のほうにいるのに。

 浅海さんがギターを抱えながら登場して、少し手を振っただけで何人もの男の人の声が聞こえる。やっぱりあの人も人気あるんじゃないかと思って。

 ベースの人が登場して、ドラムの人が登場して。

 どちらも男の人だった。

 ベースの人は不良っぽい。ドラムの人は寡黙そうで、だけどどちらにも声援が飛んでいる。

 なんだ、アイツだけじゃないんじゃないって思って。

 だけど最後にアイツが登場して、

 ――物凄い歓声だった。

 背後から歓声がせり上がってくる。背中がむず痒くて、ここから飛び出したくなるような。

 なんだよ、これ。

 全然レベルが違うじゃないか。

 誰だよあれ。

 私はいま目にしているのがアイツだとは信じられなかった。

 髪型が違うし、格好だって黒のタンクトップでキメているし。そりゃ顔はあいつだけど、あんな自信満々な顔見たことなくて。

 混乱したまま一曲目が始まってしまった。

 アップテンポな曲。

 アイツがシャウトして、観衆から悲鳴が上がる。

 浅海さんが初っ端からテクを見せつけて、アイツが観客を煽って――

 いきなりベースの人と絡んだ。

 思い切り顔を近づけて歌って、アイツが何かやるたびに歓声が上がって。

 何だよこれ。

 どれだけ煽る気だよ。

 どうしてみんな歌えるんだよ。

 オリジナルだろ。

 怖い。

 怖くなった。

 底なし沼にはまったように、暗闇に堕ちてゆく。

 仁科さんが消えて、沢口さんが消えて、私と同じように言葉を失っている翠も消えて、ベースの人が消えた。ドラムの人も。ポニーテールを振っていた浅海さんも消えて――

 アイツだけしか見えない。

 どんどん沈み込んでいく視界の中で、アイツの姿だけしかもう捉えることができない。

 何でこっちを見ないんだよ。

 一曲目が終わってアイツがMCで語りかけているのに、こちらには一度も振り向こうとしなかった。何か、バンドの紹介をして、指差して歓声が上がって。

 私は今にも消えてしまいそうなのに。

 こっちを、見ろよ。

 お前がチケットを渡したんだから、どこにいるかぐらいわかるだろ。

 だけどアイツは頑なに、いつまでも私のことを見ないで――

 見た。

 アイツが完全にこちらを見た。

 いつものアイツの目だ。水晶玉みたいな。

 なんだ、変わらないじゃないか。

 私はその瞳を睨む。

 睨んで、睨んで、世界が一つになって。

 アイツはこちらに向けて微笑んだ。

 それどころか近づいて、私の顔に――

「――!」

 キャアアアアーッ、という悲鳴のような歓声に一瞬体が浮かんで、それから真っ逆さまに堕ちていく。

 どこまでも。


「すごかったですね……」

 放心状態のような沢口さんの声が聞こえた。

「私、しばらく立てないかも……」

 そんな息も絶え絶えな仁科さんの声が聞こえて。

「正直、私も同じかも……」

 翠までそんなことを言うなんて、とても珍しい。

「生の奏くん、凄すぎました」

「何なのあれ、別次元すぎるんだけど」

「この前あるバンドの前座を務めたらしいんですけど、そこでも全員骨抜きにしちゃったって」

「いや、そりゃなるでしょ。これはなるでしょ」

 ふたりの会話が耳に入ってきて、そうかもしれないと思う。

「ねえ楓、投げキッスぶつけられていたけれど大……」

 こちらを振り向いた翠が絶句する。

 そりゃそうだった。

 全然大丈夫じゃなかったのだ。

 私は泣いていた。

 涙腺が壊れてしまったみたいに、涙が止まらなかった。

 アイツは、あの人は、とんでもないことをしてくれた。

 私のプライドをぶち壊しにして……

「楓……?」

 私は涙を拭うと、走って講堂を飛び出した。

 誰かにぶつかったけど、そんなの関係なく遠くへ。

 走っている途中にエミリーの曲を聴こうとしたけれど、ヘッドホンを持ってきていなかった。

 ずっとアイツの声が、歌が聴こえる。耳から離れない。

 全速力で走っていると胸が痛くなって、仕方ないから足を止めると涙が溢れた。走っているときは空気の抵抗で抑えられていた分が、立ち止まったとき一気に溢れ出たのだ。

 それ以上一歩も動けなかった。

 視界が溶けてしまいそうなくらい、何も見えない。(完)

「お題:一目惚れ」で書きました。

これを一目惚れというか知らんけど・・・・・・


これまで書いた小説のなかで多分最長です。

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