Honey、honey 3 <完>
「ハムさん……ハムさん、ハムさん、ハムさん」
私はハムサンドが嫌いだ。
ハムは嫌いじゃない。
パンも嫌いじゃない。
でも、合体したら嫌だから不思議だ。
「テンネ、連呼するな」
テンネはやたらに“ハムさん”と口にするようになった。
……先が、あることを知っているらからだろうか?
別れが、終わりが、近いことを分かっていたからだろうか?
「ハムさん……ハムさん、見てください。手、こんなに……しわしわになっちゃいましたね……ねぇ、ハムさん……」
テンネを『趣味』にしてから数十回目のその冬は、雪が例年より多かった。
テンネの背丈を超える雪が地を被い、大気は凍えて朝日に煌めいていた。
「なにを言う。手だけではない、顔も皺だらけだぞ? 鏡がいるようなら、持ってくるが?」
「ふふっ……要りません。自分でも、分かってますから……それに、最近は細かいものが見えにくくて……」
「老眼だな。皺も老眼も人間ならば当然の老化現象だろう。それは病ではないのだから気にするな」
「そう……ですね」
ここに……ヨト王の治めるリベルチャンに来たのは、昨年の春だった。
リベルチャンは湯治が盛んな国で、老いたテンネによかれと思い移ってきたのだが……テンネは到着早々、湯に浸かる前に体調を崩した。
「人間のお前は短期間で成長し、老いたな。変化があって、見ていて飽きないが。竜にはこのような皺ができないので、非常に興味深い」
「ふふ…………見ていて飽きない、ですか? なら、ずっと見てくれてるってことですよね? ふふふっ………それなら、しわしわになれて嬉しい……ゴホッ…ゴホホホッ…で、す」
テンネは、この数年で以前よりゆっくりと喋るようになった。
声も少し低くなったし、よく咳き込むようになった。
「テンネ、私は竜としては飽きっぽい性質だ。今までも、趣味を何度も変えてきた」
人間より大きな私の身体に合わせて造られたこの部屋は広く、天井が高く……私が翼を広げられるほどだった。
私はその部屋の中央に毛で織られた厚みのある絨毯を敷き、身を置いていた。
「飽きっぽい……ですか? そんなこと、ないですよ? ……ゴホッ…ゴホホホッ………だって、こんなに長い間……あたしを『趣味』にしてくれたじゃない……ですか」
身を丸め、尾を巻き。
腹の部分に、隙間を作り。
そこに羽毛のつまった枕、暖かな毛布と……老いたテンネをしまった。
「そうだな。蜂蜜はずっと好物だったし、テンネにもまだ飽きていないな」
求婚者達がテンネを美しいと賞賛するたび、初めての人間飼育がうまくいったのだと感じ、得意になっていたが。
もう数十年間、求婚者は現れていない。
老いたテンネには求婚する者も、美しさを賛美する者もいなくなった。
「過去も、現在も、未来も」
今、私の腹で横たわるテンネは。
「来年も再来年も、その先も。好物は蜂蜜だろう。そして、趣味はテンネのままだろうな」
拾ったあの時のように、いや、それ異常に痩せて縮んでいた。
「テンネ。歩けるようになったら、また蜂蜜を食いに行こう」
「……はい、はい…………ゴホッ…ゴホホホッ…はい、ハムさん」
私が望めば。
この国の全ての蜂蜜が、王の命によりここに集められるだろう。
だが、違う。
それでは、それは違うのだ。
「共に行こう。テンネ」
「は……い、ハムさ……ん」
どう違うのか、言葉に出来ないもどかしさが私の胃の中で捩じれ、澱んだ。
「……ハムさん、ハムさん……ハムさ……ハムさ、ん……」
私の腹をテンネの寝台にして、どれくらいの時が過ぎたのだろう?
赤かったテンネの瞳は。
雲のように白く、色が変わっていた。
変りゆく様を間近で観察できて、私は満足していたのだが……。
「? テンネ、見えぬのか?」
伸ばされた手が、私を探してゆるゆると左右に動く。
その動きは、腕に目に見えぬ重石をつけているかのように緩慢であり。
「見えぬのだな?」
曲がったまま戻らぬ指が、小刻みに振るえていた。
東国の貝のように澄んだ色をしていた爪は、艶を無くし筋が目立っていた。
「……ハムさ、ん……ど、こ?」
「では、舌先でこうして触れていてやる。そうすれば、傍にいるのが分かるだろう?」
「あり……が、……ハ……ムさ、ん……ハムさ、ん」
硬い皮膚に覆われた私の手で触れたら、脆くなったテンネが崩れてしまいそうだったので舌を使った。
舌先を額に触れさせていると、安心したのかテンネの震えは徐々に治まっていった。
医学書には書いていなかったが、これは弱った人間には有効な行為だったのだろう。
「テンネ。寝てばかりでつまらぬだろう?」
「……い、いえ…」
「歌を歌ってやる」
人間は、子供に歌を歌ってやるのだと聞いたことがある。
テンネは私の子ではないし、もう子供でもないが。
「……ハムさ、ん、ハ……ハ、ム、さっ……」
「もう喋るな。咽喉を傷める」
私は、歌うことにした。
「以前、歌を集めていたことがあってな。長期間歌い続ける自信があるぞ?」
そして、私は歌った。
鼻から思いっきり大気を取り込み、歌った。
歌ったのは、実は初めてだった。
過去、歌を集めたが歌ったことは無かった。
歌う気で集めたわけではなく。
歌わせたモノを耳で聞き、記憶に記録しただけだったのだから……。
音痴かどうか、歌を聞いたテンネに教えて欲しかったが。
無理だった。
集めた歌は膨大なもので、私は何ヶ月も歌い続けられたのに。
「まだ、一曲目の途中だというのに」
歌い終わる前に。
「まぁ、これはこれでしかたがないな」
テンネは、死んだ。
「うまく飼育できていたので、100年前後まで生きるかと思ったのだが」
100年、もたなかった。
「……さて。腐る前に埋めるか」
私の『趣味』は、終わった。
飽きる前に、終わった。
私はテンネの死骸を毛布で巻き、これまで同様に掴んで飛び立った。
この国の西にある森に向かった。
「……ここにするか」
初夏になると白い花をつける木にの側に下り、その根本を足の爪を使って掘った。
手を使ったほうが効率が良いと分かっていたが、私の手はテンネを持つのに使っていたので足を使った。
テンネを冷たい雪に覆われた地に置くという考えは、私の中には無かった。
その理由は……分からなかった。
「テンネ。この木に、お前は食われるんだ」
掘った穴に、毛布から取り出したテンネを寝かせ。
手早く土をかけ、その表面を尾を使って平らにならした。
「テンネ。お前の身は腐り分解され、この木の幹となり、葉となり、枝となり、花になる」
この木が花咲くと、多数の蜜蜂が集まってくるのを私は知っている。
だから、選んだ。
「この花は、蜜蜂達に好かれているんだぞ?」
済んだ黄金の蜜の味が、舌によみがえる。
テンネと味わった記憶が、私の舌を甘く慰撫したが。
私の身体は内側から力が抜け、地に眠るテンネの上に覆いかぶさるように倒れこんだ。
思い起こせば、テンネが体調を崩してから死ぬまでの間、私は蜂蜜どころか水の一滴も口にしていなかった。
「……腹が空いたな」
テンネの飼育に必要だった衣食住を得る為に、人間の『世界』にいた。
竜である私には、それらは不要。
水さえ飲めば、貴竜である私は生きることができる。
一歩も動かずとも、雪を食べ、雨水を飲めば良い。
ゆえに、私はここでこのまま時を過ごすことにした。
蜜蜂達の羽音が、にぎやかに初夏の陽を掻き混ぜていた。
私は首を掲げ、白い花を見上げた。
「満開、だな」
視界に、青い空が入った。
自然と、翼が広がる。
だが、飛び立とうとは思わなかった。
「……なぜだ? 腹が空いてるからか? 水しか摂取してなかったので、力が出ないのか?」
自問自答しつつ首を曲げ、視線を下げた。
すると、ある変化に気づく。
何かが地面にぽつぽつと落ち、吸い込まれていた。
何かが落ちた場所は、土が色を濃くしていた。
「あぁ、そうか」
唐突に、理解した。
「あぁ、そうだったのか」
気づかなかった。
「私はテンネを失ったことが」
気づけなかった。
「とても」
私は。
---竜って、なんで人間を食べるんですか? 人間って、そんなにおいしいんですか?
「とても」
---蜂蜜? あたしも好きです! 甘いの大好きです!
私は。
「とても」
悲しかった、のだ。
「テ……ンネ! テンネッ、テンネッ!! テンネェエエエエエエエエッ!!!!」
やっと。
私は、理解し。
「……私は、お前にっ」
埋めたテンネを、掘り起こし。
白い髪も、赤い目も、肉も失った骸を拾い集め、合わせた両の手の内側に収めた。
「愛されて、いたんだなっ……」
---ハムさん、ありがとうございます!
「……途中だったろう? テンネ」
感謝すべきは。
私のほうだった。
「続きを歌ってやろう」
最初は、あの時の子守唄の続きを歌おう。
---はい! ハムさん! 腹巻もしてきますね! すぐ戻りますから、待っててくださいね!
あぁ、声が聞こえる。
私の名を呼ぶ、テンネの声が。
「……待ってるに決まっているだろう? お前は私の最後の『趣味』だ。置いていくわけがない」
---はい、ハムさん!
途中だった子守唄を歌ったら。
「テンネが戻ってくるまで、私はここで歌っている」
その次は。
「私はずっと、ここにいる」
愛しい者に捧げる歌を歌おう。