剣の道
俺にとって剣道とはストレスの発散のようなものであった。練習であっても試合であっても無条件で相手を叩くことができる。もっとも自分も叩かれるのだが。
中学の頃から剣道を始め、現在高校でも続けている。中学の頃は顧問の先生にまっすぐな剣道をやれとよく言われたが、まっすぐな剣道など出来た試しがない。真を貫き美しい剣道。そんな物が出来たら試合でもう少し勝ち進むことが出来る。大会に出るといろんな剣道の先生の話を聞くことが出来るが、その中でよく耳にすることは「剣道には性格が現れてくる」という話である。根がまじめな人間は基本に忠実な剣道、ひねくれた人間は小細工を色々仕掛けてくる剣道、おおざっぱな人間は力押しの剣道。確かに剣道がありその種類は十人十色なのだろう。
勿論俺の剣道も性格が色濃く出ているのだろう。相手が嫌がるところをつき、冷静さを失って隙が出たところをつく。それが俺の剣道である。何となく俺の性格もわかることだろう。ひねくれものでめんどくさがり屋で相手が嫌がる姿を見て喜ぶ。部の練習にも顔を出さない日があったり、時代が時代なら即刻打ち首とか言われるのだと思う。
剣道を始めてから二年ほどでこのような剣道を身につけた俺はつい最近までこのスタイルを貫いていた。高校の部活内でやる練習試合では勝つ度に先生に苦笑いを浮かべられ、大会でも勝つ度に中学時代の顧問の先生にあきれた顔をされた。部員からもあまりいい顔はされず、別にそれでいいと思っていた。勝てば官軍、負ければ賊軍。勝こそのこそ意味があり勝つためなら手を選ばない。いくらいい動きをしたところで負ければ評価はされず、暗い地の底に永遠に居続けるだけである。
そんな剣道を続けているある頃、とある出来事がおきた。とある地区大会の団体戦一回戦であった。俺は副将、つまり四番目である。先鋒、次鋒、中堅の三人が勝ち勝ち越し三勝。最早俺が居るチームの勝利が決まっていた。勝とうが負けようがチームの運命は変わらない。顧問の先生からは「楽な気持ちで行ってこい」と言われて試合に臨んだ。もちろん試合に出るからには勝つ、そのつもりであった。
だが、試合が始まると同時に何かが変わった。団体戦が始まる前、対戦校の集団が見える範囲に居たので何となく眺めていた。垂れに名前が書かれているのですぐに対戦相手が誰かわかり、見たところ好青年という言葉が似合いそうな優男であった。
そう、好青年。そう、優男。そう評価していたはずの男が目の前に立っているはずだ。それなのに目の前に立っている者から違う雰囲気を感じられた。静かであることには変わりない。しかし、静かである中に熱い闘志の塊のような物を感じた。ゆえに一瞬ひるんだ。そしてそこに相手がすかさず面を打ってくる。とても美しくとても真っ直ぐな打ちである。思わず見とれてしまうほどの美しさ。対峙しているからこそわかる何かがあった。相手の攻撃に反応して竹刀を動かす。間に合うわけがない。
相手の竹刀が当たり、一本をとられる。試合上の外にはほかの部員や観客が居るはずなのに何も見えない、何も聞こえない。あるのは相手と審判が相手側に一本が入ったことを表す赤い旗のみ。その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
結局のところ試合には勝つことが出来た。一本をとられた後、すぐさま取り返し、とどめの胴。試合が終わった後皆からは最初に気を抜きすぎだと笑われたが、そんなこと、どおだって良かった、試合では勝った。チームでも勝った。だが、剣道では負けた。そのもやもやとした気持ちを引きずったまま二回戦へと臨み、前にいた三人があっさりと負けそこで終了。副将の俺と大将の部長は勝ち、ほかの三人が申し訳なさそうにしていたが、やはりそんなことはどおでも良かった。相手の剣道に惚れ、そして負けた。その俺にとってのたった一つの事実だけが心は疎か、体にまで重くのし掛かっていた。
その日からであろう。俺は対戦したときに感じた何かを知るために練習をするようになった。練習試合でも今までのような挑発だらけの剣道ではなく、相手の動きを見て動く剣道を目指すようになった。本当は自分の見惚れたあの剣道を目指したかったが--やはり一度身に付いた癖は抜けないと言うのか--実行した瞬間自分にあわず虫酸が走るのを感じた。まじめに練習したせいであろうか、部活でも自然と人に話しかけられるようになった。「剣道とは剣の理法と修練による人間形成の道である」。剣道を通して心身を鍛えることで人間自体も変わっていく。中学の頃の顧問の先生に言われたことだが今になってわかった気がする。
今までの剣道は勝つためだけの剣道であり、誇れるような剣道ではなかった。だが次にあの剣道と再び巡り会うまでに、あの時感じた何かを見つけ戦いたい。今度こそ自分の誇れる剣道で。俺が見つけた自分の剣の道で。