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病院

「・・・い。・・・い。」

遠くから誰かの声が聞こえる。きっと自分を呼んでいる。

 あたりを見回すと一面が真っ暗だった。真っ暗な水の中に時折白色の物体がゆらゆらと動いている。まるでオタマジャクシのようにゆらゆらと動いてはだんだんと数が増えていった。最初は2匹、ついで4匹。とうとう10匹くらいはいたかもしれない。白の物体の中央に黒の半点がある。その斑点が時折左右に動いている。

(奇妙な魚もいるものだ)

林田の視界には今、この謎のオタマジャクシしかいない。 

「・・・い。・・・さん。・・・さん」

なんとなく自分が呼ばれているような気がした。これは夢だと思った。早く目覚めなければと体を揺らす。しかし、揺らしているはずの体は身動き一つとれていない様子で黒の視界も変わらない。

(手!手はどうだ)

手をバタバタと打ち付けてみよう。そうしていれば目が覚めるかもしれない。一生懸命、手に向かって信号を送る。しかし、何かに遮断されて手も動かない。

 そうしているうちに尿意を催した。トイレに行きたい。トイレ、トイレ、トイレと叫ぶ。しかし、この声も何かに邪魔されて届かない。

 しばらくすると、遠くの方で誰かがしゃべっている。

「しましょうか・・・」

「そうですね・・・」

声が止むと何かが取られるようになった。自分の下腹部の衣服を誰かが取り去ったのだ。

「はい、いいですよ」

その声に従うままに林田の力は抜けて行った。

(ああ、自分は今放尿したんだ)

力が完全に抜けると林田の画面が明るくなった。上からオタマジャクシが4匹見つめている。オタマジャクシだと思った瞬間、また画面が暗くなり白いオタマジャクシが現れた。

 林田の脳裏には美津子と孝太郎の顔が浮かんだ。多分、今のは私の家族だ。

 画面が白くなった。白さが輝きを増してまぶしさえと変わる。まず目に入ったのは電球から発せられる明るすぎる光だった。そして次に4匹のオタマジャクシが飛び込んだ。

「父さん、大丈夫かい?」

「あなた、わかりますか?」

声に耳を傾けてすぐに美津子と孝太郎だと分かった。

「お医者様を呼ばなくちゃ」

美津子は別途に近づくとナースコールのボタンを押した。看護師の声がかすかに聞こえた。そしてすぐに女性の看護師二人が現れた。一人は点滴の操作をし、もう一人は林田に顔を近づけると、

「聞こえますか、林田さん」

林田は首をゆっくり縦に振った。

「自分のお名前言えますか?」

林田は小さな声で、

「はやしだりかおです」

「右手を握ってみてください」

林田は右手に力を込めてみた。あまり力むことはできなかった。しかし看護師は安心した様子で、

「後でドクターが来ますからもう少し待っていてくださいね」

と言うと病室から出て行った。

 林田はゆっくり自分のしたことを考えてみた。遡ってみるとどこまでも過去の出来事が脳裏に沸いて出てくる。喫煙室での長瀬の言葉、犬を轢いたこと、車に乗れなくなったこと。それから・・・息子のスクーター。

 ほとんど身動きが取れない状態で、林田は孝太郎を探した。孝太郎は林田の顔を優しい笑顔で見ていた。

「父さんな。父さんな。お前のスクーター・・・」

孝太郎は林田の言わんとすることを分かっていた。

「大丈夫だよ。なんともないよ。それより無事でよかった」

林田の頬が少しだけゆるんだ。緩むと皺で覆われた眼から涙の川が頬をゆっくり流れてベットのシーツを濡らした。

「雨の中どこへ行ったかと思えばリュックにあんなものを。あんなもののために孝太郎のバイク壊したんですか」

美津子は椅子に座るとあきれた表情でみかんの皮をむいた。

「警察の人にどれだけ謝ったと思っているんです。ご近所に知れたら私はどうしたらいいのやら」

みかんを口に入れながら言いたいことを病人にぶちまけると病室を離れて行ってしまった。

「父さんはまだまだ若いんだね」

孝太郎は腹を抑えて口をつぐんだ。

 林田も自分がどうして県を越えてまでして成人雑誌を買ったのかわからない。ただ、孝太郎からスクーターを借りてから自分は少しずつ新しい道を模索していたような気がする。それは仕事のためじゃない。生き方自体を問うものだった。

 スクーターに乗っているときは楽しかった。風を感じながらちょっとそこまでいくのがよかった。孝太郎に連れられてまだ知らない世界があるということを知らされたような気がした。



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