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スクーター


林田が会社を休みだしてから一週間が経った。その間書斎からほとんど出なかった。妻の美津子はあきれて口もあまりきいてくれなかった。

書斎に散らばったノートの山から何冊か取り出して眺めてみる。昔成功した番組の草稿が書かれていた。この頃は気力が充満していた。作る番組が毎回高視聴率を取る。一時期テレビ雑誌からもインタビューを受けた。

「要はひらめき。そして行けるという勇気。だいたい7、8割くらいの公算で行けると踏めばやる」

と書いてある。そういえば、そんなことを言った記憶がある。インタビューの続きを読むと、

「ま、残りの2割はリスクですね。しかしそんなことは気にしない。気にしていたらやってられない」

自分でもなんでこんな強気な発言をしてしまったんだろうと恥ずかしくなった。この雑誌が出てから1年もたたないうちに2割のリスクを負う羽目になった。行けると思った番組が見事に失敗したのだ。それからは再挑戦の連続で、

「今度こそ、今度こそ!」

と言っている間に局から終止符を打たれた。

(今の自分はただの老いぼれだ。誰にこんな顔を見せられるものか)

林田の気力は徐々に衰退していた。食欲もあまりなく、書斎で一人で食事をとった。妻には、新しい番組の原稿書きをするから書斎に置いておいてくれと頼んだ。

 休みの日になると、まず自慢のプリメインアンプとCDプレーヤーでクラシックを聴くのが常であった。特にウィリアムカペルの奏でるピアノが林田のお気に入りだった。カペルは31歳で不幸にも飛行機事故で亡くなった、有名なピアニストだ。かのホロヴィッツはカペルが亡くなった時、これで自分が一番になれると言ったとも言われている。その真偽はともかくも、カペルの音は半世紀を超え、音質の劣化というハンデがあっても林田の心に安らぎと活力を与えてくれるものだった。

 林田は別の雑誌のインタビューでもカペルを絶賛していた。

「たしかにホロヴィッツは文句なしのアーティストです。彼のピアノ協奏曲3番はすばらしい。ラフマニノフもホロヴィッツを称賛している。しかし、私はカペルを推します。カペルの強い打鍵が私の心を打つのです。そしてその打鍵とともに新しいアイディアも生まれる」

 しかし今の彼にはカペルの曲は響かなかった。大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲をかけると却って心臓のあたりが突き刺さったような感じがして、自責の念に駆られる。

(あんなこと言わなければよかった)

一週間の間にこの言葉が何度となく林田の脳裏をかきむしったことか。今では音楽をかけることが苦痛でたまらない。

 外を眺めてみると、庭で誰かがバイクをいじっている。よく見ると息子の孝太郎だった。

 孝太郎は大学を出て今年社会人となった。林田は昼出勤で帰りも遅い時がある。それ以前に、仕事のことしか頭になかったから息子の顔もろくに見ていなかった。階下に降りリビングの窓から孝太郎を見た。親として金を出した以外は何もしてやらなかった。今になって面と向かって息子になんと話しかけよう。

「やあ、父さん」

孝太郎は笑顔で林田を見た。幸いにも自分の倅は悪い方向にはいかなかった。そう思うとほっとした。

「父さん、いい天気だね。ところで会社を休んでいるらしいけど体調でも悪いの?」

林田は窓際に座って足を投げ出すと、

「うん、いろいろあってな。ちょっと休憩だ」

と言った。年上の男としての意地が息子の前では邪魔をした。本当はどうしていいかわからないほど落ち込んでいるのに。

 孝太郎はバイクのボディを念入りに磨いている。時折、鼻歌を歌いながら、ところどころ黒くなっている、ぼろぼろの布でワックスを塗った。

 そういえば、以前美津子がぼやいていた。孝太郎がバイクが欲しいと言っていると。もう何年も前の話だ。その時は適当に、買ってやればいいと言った。美津子は呆れた。

「どうしてそう生返事なんでしょ。自分の息子ですよ。もし事故でも起こしたらどうするおつもり?」

林田はそんなことより番組のほうが大事だった。一度失敗した後だったので再起にかけている最中だった。倅のバイクうんぬんにかまっている暇などない。

「私はバイクを買うことに反対ですよ。あんな大きなもの、値段だって相当するんです。わかっているんですか?」

「ならバイトをすればいいだろう。自分で買わせればいい。そうすればこちらの知ったことではない」

「ま、自分の息子がどうなってもいいと言うのね」

美津子はテーブルを強くたたくと台所へ引っ込んでしまった。

 それからのことは何も知らない。息子がバイクを買ったのも今日まで知らなかった。

「バイク買ったんだだな」

林田は孝太郎に精一杯優しく語りかけた。

「やだな、お父さん。僕は確かに中型の免許取ったけど、高校生の時に買ったのはスクーターだよ。これは別物」

「じゃあ、この大きなバイクはどうしたんだ」

「友人と一緒に作ったんだ。友達の家がバイク屋でさ、そこに通い詰めてやっとできたわけ。このバイクももう3年目だよ」

孝太郎は自分で一人前になったと思った。自分は何もしていない。孝太郎の力で大学も就職も、そして趣味までしっかりしている。自分のような父親にも明るい笑顔を見せてくれる。この日になって、初めて安らぎの感情を取り戻した気がした。

「なあ、孝太郎。さっき言っていたスクーターは捨ててしまったのかい?」

林田が訪ねると、孝太郎は大きく笑った。

「お父さん、本当に大丈夫?スクーターならガレージに置いてあるでしょう。それに、バイクもカバーをかけて置いてあるよ」

「スクーターは乗らないのかい?」

「あれはあれで乗るの。チョイノリっていうやつ」

「ちょいのり?」

「ちょっとしたところへ行くときに使うんだよ。後は駅に行くときとかね。駐輪場に置けるのは原付だけだから」

そう言うと孝太郎はスクーターを出してきて、

「ほら、こっちもカッコいいでしょう」

と見せびらかした。黒光りした小さなボディにはJokerと書いてある。

「父さん、乗ってみる?」

息子の突然の問いに、

「父さんがか」

と驚いたが、漆黒のスクーターを乗り回してみたくなった。

 孝太郎はスクーターを押すとスタンドを立ててシート部分の鍵穴に鍵を入れた。シートが開けられると黒の半キャップとゴーグルが入れてあった。孝太郎はキャップを取り出すと父親の頭に被せた。林田はいささか緊張していたが、息子は手慣れた手つきでキャップを調整している。

「苦しくないかい?」

孝太郎が問いかけた。

「ああ、大丈夫だよ」

林田はシートにまたがってみた。少年時代は自転車であちこち行った。あの時の目線が思い出される。しかし、よく見てみるとまだ知らぬ異次元の世界のようだった。

「左ブレーキを固定して、エンジンをかけてみて」

孝太郎の言うとおりにやってみる。初めてだからぎこちないが、それ以上に漫然とした不安がこみ上げてきた。うまくいくだろうか、ころばないだろうかと思うと汗がにじみ出てくる。

「大丈夫だよ。僕の言うとおりにしていればいい」

孝太郎はバイクから数歩離れると、

「左ブレーキを解除して。ゆっくりアクセルを回してみて」

言われたとおりに左ブレーキのフックを解除し、アクセルを回してみた。ごぉぉん、ごぉぉんとアクセルの音が強まっていき車輪が少しずつ動いた。

「さあ、父さん、両足をステップに乗せて!あとは自転車と同じだからさ」

林田は最初は怖くて少し動くたびにブレーキをかけていた。しかし、だんだんとコツをつかんで100メートルほど走れるようになった。Uターンしてもう一度アクセルを回す。左足をステップに乗せて孝太郎のいるところへ戻ってくる。林田はブレーキをかけると大笑いした。

「どうしたの?」

孝太郎が不思議そうに顔を見た。

「楽しいんだよ。楽しくて、おもしろくて」

「それはよかった。また乗りたいときに乗るといいよ」

「ありがとう」

林田はバイクにまたがったままうつむいていた。今顔を上げたら、老いぼれの涙を見せることになる。自分は倅に何もしなかったのにこうして優しく接してくれることが嬉しかった。しかしそれ以上に、自分の愛車に乗せてくれたことが嬉しかったのだ。

「父さん、そろそろ家に入ろうよ」

孝太郎の声は快活で優しかった。林田は眼鏡を自分の服で拭くと、

「ああ、今いくよ」

と顔を上げた。林田の目にはほんの少しの涙としわくちゃの顔が笑顔を作っていた。



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