喫煙室
富士テレビの喫煙室で林田里香夫はたばこを天井のダクトに吹き付けていた。このところ、自分が制作する番組はどれもこれも長続きしなかった。昔は視聴率を稼ぐためなら何でもしたことから『視聴率のリカちゃん』と揶揄されたこともある。某おもちゃメーカの人形と名前が似ていることに腹が立ったこともあったが、それは凡人のやっかみだと林田は思っていた。しかし、今でも『視聴率のリカちゃん』と呼ばれることはあっても、それは本人の目の前ではなく陰でコソコソと、そして数字が取れないという意味で使われていた。
喫煙室の前を、取り巻きが何人か付き添った初老の男が足を止めた。取り巻きに手を振って、「あぁ、ちょっと一服してからいくよ」と言っている。男は喫煙室に入ると、ポンと林田の肩を叩いた。
「最近ご無沙汰ですね、林田さん」
俳優で歌手の長瀬幸太郎だった。長瀬は肩書きは俳優兼歌手だが、テレビの情報番組やバラエティの顔として認知されていた。そうさせたのは長瀬よりいくつか年上の林田である。林田は長瀬の間の取り方や,テンポの良さが妙に気に入って、当時鳴かず飛ばずの長瀬を情報番組の司会に抜擢した。長瀬はテレビで小気味よく、そして辛辣に世相を批判したり茶化した。最初は抗議の電話もあったが、お茶の間も所詮は人の子、道徳よりも本音が勝った。視聴率は伸び始め、長瀬の人気もうなぎ上りになった。
「最近あれですな、林田さん。番組のほうも落ち着きがありませんね」
長瀬はかつての恩人にむかってクスっと笑いながら煙草をふかした。
「こっちだっていろいろ作は練っているさ」
最近コンサートを開いた長瀬は、そこでもご自慢のトークを振りかざして人気があった。年下の長瀬が自分を追い抜いた。林田は煙で充満した部屋の中でニタニタ笑っている長瀬をまともに見ることができなかった。できないだけに歯切れも悪い。
「まあ、あれですよ。一生懸命やってもダメなものはダメ。年貢の納め時ですかね、林田さんも」
この言葉にはカチンときた。
(誰のおかげでここまでこれたんだ、お前の才能を見出したのはいったい誰だ!言ってみろ)
林田は胸を抑えながら怒髪天を突いた。
昨年の冬、心筋梗塞で倒れた。それからというもの内ポケットにはニトログリセリンが常駐されている。
だんだんと脂汗がにじみ出てくる。それから目の前の男をなんとかしてギャフンと言わせたい。頭の中でどうどうめぐりする中で、
(こいつには後ろめたい姿は見せられない)
と感じた。林田は後ろを振り向くと急いで内ポケットをまさぐった。なんとかしてニトログリセリンを取り出すと、水も使わず飲み込んだ。少ない唾液でニトログリセリンを飲み込むとゴクリと喉が鳴った。
それからしばらく深呼吸をしてもう一度長瀬のほうを向いた。ほんの数秒のことのようにに思われたが、
「林田さん、いい年なんですから。どうです、もう引退したら。業績も残したし未練もないでしょう」
長瀬は林田の後ろめたい行為をしっかり見ていた。心筋梗塞で倒れて闘病中というのも実は知っている。長瀬だけではない。林田と関係したほとんどの人間が林田が弱っていることを知っていた。
「視聴率のリカちゃんももうおしまいさ」
「だから、今じゃリカちゃんと関わるとろくなことがないって話さ。視聴率が落ちるからな」
「なるほど、逆転しても視聴率のリカちゃんという名前は残るのか」
「そいうことさ」
これが富士テレビ内部のもっぱらの噂だった。
「それじゃこれで失礼しますよ。今度始まる番組ね、政治ネタなんだけど文化人と一緒になって、バッサリ世相を切るんです。ま、私だからできる話ですけどね。それじゃ、がんばってくてださい」
長瀬は灰皿にたばこをもみ消すと、
「ま、無理せんでくださいよ。お互い年なんだし」
と笑いながら出て行った。
林田はたばこをもう一本取りだし口にくわえた。
(自分はもう駄目かもしれない)
一度口に運んだたばこを箱の中に戻した。
喫煙室の換気扇がけたたましく鳴り響いている。天井を見上げると長瀬が吸ったたばこの煙を吸いきったところだった。
林田は喫煙室をでた。出たところで行くあてもなかった。ただ、今度の番組がだめだったら自分は引退するときだという気がしていた。




