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外伝短編|既読のまま閉じた夜

作者: 安剛
掲載日:2026/05/09

 夜、部屋へ戻ると、机の上の携帯が小さく光った。


 閉じたままの二つ折り携帯。

 外側の細い画面だけが、青白く一瞬だけ灯って、すぐに消える。


 靴を脱いだばかりの足裏に、床の冷たさが少し残っていた。

 部屋の電気をつけたばかりで、まだ白い明るさが壁に馴染みきっていない。


 ジャケットを椅子の背に掛ける。

 鞄を机の横へ置く。


 その途中でも、携帯の方が気になっていた。


 また光らないかと思う。


 近づいて、手に取る。


 開くと、ぱち、と小さな音がした。


 液晶の白い光が、指先の内側を照らす。


 メールが1件。


 送り主の名前を見た瞬間、喉の奥が少しだけ狭くなる。


 今日、一緒にいた相手だった。


 恋人、とはまだ言えない。

 でも、ただの友達とも少し違う気がしている。


 そういう相手から届く文は、短くても重かった。


『今日はありがと』


 それだけだった。


 絵文字はない。

 句点もない。


 なのに、その短い文の後ろに、帰り道の空気がまだ残っている気がした。


 駅前の人の流れ。

 改札の手前で一度だけ止まった足。

 じゃあまた、と言ったあとに少しだけできた間。


 たったそれだけの文なのに、何度も読みたくなる。


 私はベッドの端に座って、もう一度画面を見た。


『今日はありがと』


 小さい画面の中で、その7文字だけがきちんと置かれている。


 もう一度読む。


 読み返すたびに、文の意味が少しずつ変わる。


 社交辞令かもしれない。

 少しだけ続けたいと思ってくれたのかもしれない。

 ただ、その場の終わりをやわらかくしただけかもしれない。


 分からない。


 でも、分からないままで少し嬉しい。


 返信しよう、と思う。


 親指でボタンを押す。

 新規作成。

 本文の欄に、小さなカーソルが点滅する。


 その点滅をしばらく見てしまう。


『こちらこそ、ありがとう』


 と打つ。


 真面目すぎる気がして、消す。


『今日は楽しかった』


 と打つ。


 それも少しだけ重い気がして、また消す。


 親指の先が、丸いボタンの上で止まる。


 携帯で文を打つのは遅かった。


 同じキーを何度も押して文字を選ぶ。

 濁点をつける。

 小さい文字に変える。

 変換も、今みたいに勝手よくは出てこない。


 考えすぎると、文が長くなる前に手の方が嫌になる。


 私は一度、携帯を閉じた。


 光が細く消える。


 部屋の静けさが戻る。


 冷蔵庫の低い音。

 外を走る車の気配。

 遠くで電車が線路を擦るような音。


 その中で、自分の送っていない返事だけが少し浮いていた。


 机の横に立ったまま、ジャケットのポケットから財布を出す。


 レシートが1枚入っていた。


 待ち合わせの前に買った缶コーヒーのものだった。

 口の中を少しだけ落ち着かせたくて、コンビニで買った。


 その紙まで、今日の続きみたいに見える。


 何か別のことをしようと思って、棚の上の雑誌に手を伸ばす。

 開く前にやめる。


 テレビをつけようかと思って、リモコンを持って、やめる。


 もう一度、携帯を手に取る。


 閉じたままの外側の画面には、時刻だけが出ている。

 アンテナは3本。

 バッテリーはまだ半分以上ある。


 それを見ているだけで、完全には切れていない気がする。


 開く。


 またメールを見る。


『今日はありがと』


 その後ろにあるものを、勝手に少しだけ考える。


 もう電車に乗ったのかもしれない。

 家に着いて、家族のいる部屋にいるのかもしれない。

 着替えている途中かもしれない。

 今、返事を打とうとしてやめたのかもしれない。


 分からない。


 分からないけれど、その分からなさはまだ冷たくなかった。


 見たかどうかも分からない。

 届いたかどうかさえ、どこかで曖昧なままだ。


 でも、その曖昧さのぶんだけ、夜の中に相手の時間が残っている。


 私はもう一度、返信画面を開いた。


『今日はありがと。気をつけて帰ってね』


 まで打って、止まる。


 もう帰っているかもしれない、と思う。


 消す。


『こちらこそ。またね』


 と打ってみる。


 悪くない。

 でも、そこで終わらせすぎている気がする。


 また消す。


 結局、最初に近いところへ戻る。


『今日はありがと。楽しかった』


 それだけ打って、送る。


 画面の下に小さく「送信しました」と出る。

 その表示はすぐ消えた。


 私は開いたままの携帯を見ていた。


 返事はまだ来ない。


 来なくて当然だとも思う。


 家に着いてすぐ返せるとは限らない。

 食事中かもしれないし、風呂かもしれないし、親の前で携帯を開きづらいのかもしれない。


 そういう事情が、まだちゃんと夜の中にあった。


 “既読”というシステムはない。


 だから、読まれていないかもしれないし、

 読んだけど返事を考えているのかもしれないし、

 まだ鞄の中に入ったままなのかもしれない。


 そのどれでもありえた。


 私は携帯を閉じる。


 机に置く。


 少しして、また手に取る。


 そんなことを何度か繰り返す。


 検索しても、答えは出ない。


 今みたいに、何でもすぐには出てこない。

 誰かの恋愛相談も、脈ありの判定も、夜の不安をその場で埋めてくれるほど近くにはない。


 だから、埋めるものがあるとすれば、それは想像だった。


 相手の顔。

 今日の笑い方。

 駅で別れた時の横顔。

 言いかけてやめた感じ。


 不便だった。


 でも、その不便さの中で、気持ちはすぐには切れなかった。


 風呂に入って戻ってきても、携帯は静かなままだった。


 机の上に置いた本体が、部屋の明かりを少しだけ鈍く返している。


 タオルで髪を拭きながら、また開く。


 新着はない。


 それでも、さっき送った文を見る。


『今日はありがと。楽しかった』


 それが送信履歴にちゃんと残っている。


 たったそれだけの文なのに、送った時の迷いまで少しだけ閉じ込められている気がする。


 私はベッドに横になって、枕元に携帯を置いた。


 部屋の電気を消す。


 暗くなる。


 カーテンの隙間から、向かいの家の明かりが少しだけ見えている。

 天井の模様も、棚の輪郭も、夜の中では少しずつ曖昧になる。


 その中で、携帯だけが小さな機械としてはっきりしていた。


 いつ鳴るか分からない。

 鳴らないかもしれない。


 でも、鳴るかもしれないと思うだけで、眠気の形が少し変わる。


 しばらくして、枕元で控えめなバイブが鳴った。


 布団の上を小さく震える音。


 私はすぐに手を伸ばした。


 開く。


 液晶の白い光が、暗い部屋の中で指先だけを照らす。


『今帰ったよ』


 そのあとに、


『明日早いから寝るね』


 と続いていた。


 どちらも短い。

 会話としては、そこで途切れている。


 でも、それで足りる気がした。


 今帰ったこと。

 家に着いたこと。

 寝る前に、一度だけ返してくれたこと。


 それだけで、夜の形が少し決まる。


 私は返信欄を開いて、少しだけ考える。


『おかえり。おやすみ』


 それだけを打つ。


 送る。


 それ以上、広げようとは思わなかった。


 広げられないというより、ここで止まることにもまだ意味があった。


 携帯を閉じる。


 ぱち、と小さな音がする。


 画面の光が細く消える。


 返事は短い。

 会話も、そこで途切れている。


 それでも、閉じたあとも、まだ相手の気配だけは夜の中に残っていた。



 夜、部屋へ戻ると、最初に明るかったのは天井の灯りじゃなく、ソファの横に置いたスマホの画面だった。


 机の上ではなく、もう自然にそこへ置くようになっていた。

 鍵を置く。

 鞄を下ろす。

 上着を脱ぐ。

 その流れの途中で、一度だけ画面を見る。


 通知がいくつか並んでいた。


 業務の連絡。

 通販の発送通知。

 ニュースアプリの速報。

 SNSのおすすめ。

 動画アプリの更新。


 その中に、相手とのトークが1つだけ混ざっている。


 部屋の灯りをつける。


 白くて、むらのない光だった。

 床も、ローテーブルも、壁際の棚も、全部を同じ明るさで照らしてしまう。


 昔みたいに、部屋のどこかだけが暗く残る感じは少ない。


 スマホを手に取る。


 画面を上へ払う。

 通知がひらく。

 親指が迷わず相手の名前を押す。


 今は何でも速い。


 打つのも速い。

 送るのも速い。

 検索も速い。


 分からないことがあれば、その場で調べればいい。

 店の営業時間も、電車の遅れも、天気も、だいたいすぐに出る。


 相手が読んだかどうかまで、もう分かる。


 昔みたいに、届いたかどうかを想像しなくていい。


 それは便利だった。

 便利すぎるくらいだった。


 トーク画面の一番下に、昼間のやりとりが少しだけ残っている。


『了解』


『あとで送るね』


『ありがとう』


 短い文ばかりだった。


 関係が終わっているわけじゃない。

 近くないわけでもない。

 でも、会話が自然に育っていく感じは、前より少なくなっていた。


 私はソファに座って、少しだけ背中を沈めた。


 クッションの端が肘に当たる。

 テーブルの上には、朝飲みかけたペットボトルがまだ半分残っている。


 何か送ろうと思う。


『今日どうだった?』


 打つ。


 それくらいがちょうどいい気がした。


 重すぎない。

 冷たすぎない。

 答えが1つで済まない。


 送信。


 文はすぐ届く。


 画面の中で、吹き出しが静かに右側へ並ぶ。


 少しだけ待つ。


 待つ、というほどの時間でもない。


 数秒。


 でも、その数秒の短さの中で、もう昔とは違うと分かる。


 既読がついた。


 それだけだった。


 読まれている。


 でも、返ってこない。


 私は画面を見たまま、親指を少しだけ止める。


 昔みたいに、まだ見てないのかもしれない、とは思えない。

 圏外かもしれない、とも思えない。

 鞄の中に入れたまま、気づいていないのかもしれない、という逃げ道も薄い。


 見たことだけが確定している。


 その確定が、逆に流れを止める。


 読んだ。

 でも返らない。


 たったそれだけで、夜の空気が少し平らになる。


 私は返信欄を一度開く。


 何か打つわけでもなく、すぐ閉じる。


 トーク画面を見て、閉じる。

 ホームへ戻る。

 通知バーを下ろす。

 また上げる。


 指の動きは完全に身体に入っていた。


 次にSNSを開く。


 短い動画が流れる。

 誰かの食事。

 知らない街の夜景。

 数秒で終わる笑い話。

 広告。

 また別の動画。


 音は出していない。

 字幕だけを目で追う。


 面白いわけでも、つまらないわけでもない。

 ただ、時間が少しずつ埋まっていく。


 それでも、さっきの既読は画面のどこかに残ったままだった。


 SNSを閉じる。


 ニュースを開く。

 閉じる。

 天気を見て、閉じる。

 検索欄に指を置いて、何も入れずに戻る。


 便利さはいくらでも夜を埋めてくれる。


 埋まる。

 でも、戻るわけではない。


 キッチンへ行って、水を飲む。


 グラスに注いだ水は冷たくて、ガラスの表面に細い曇りがついた。


 流し台のステンレスに、部屋の白い光が鈍く映っている。

 冷蔵庫の低い音が、夜の奥でずっと続いている。


 戻って、またスマホを見る。


 既読のまま。


 時間だけが少し進んでいる。


 相手を責めるほどではない、と思う。


 仕事があるのかもしれない。

 別の誰かと一緒にいるのかもしれない。

 返そうと思って、そのまま別のことに流れたのかもしれない。


 事情はいくらでもある。


 今は位置も、時刻も、予定も、ある程度は想像できる。

 生活の輪郭は前より見えやすい。


 それでも、気持ちだけは読めない。


 読んでいる。

 でも、返らない。


 その形だけが、前よりずっと静かで、前より少し鋭かった。


 私はもう一度、トーク画面を開いた。


 自分の文の下に、既読の表示だけがある。


『今日どうだった?』


 それは重い文ではないはずだった。


 返事に困るほどでもない。

 面倒な問いでもない。

 会話の入口としては、たぶん軽い方だ。


 でも、軽い入口だからこそ、返ってこない時の意味も小さく曖昧に広がる。


 何かが壊れたわけじゃない。

 終わったわけでもない。

 無視された、と言い切るほどでもない。


 ただ、流れが生まれない。


 それだけだった。


 20年前は、返事が遅くても、届いていないかもしれない時間があった。


 まだ見ていないのかもしれない。

 家に着いていないのかもしれない。

 携帯を開けない事情があるのかもしれない。


 そういう曖昧さの分だけ、夜の中に相手の気配が残った。


 今は、その余白が短い。


 既読がついた時点で、届いたことだけは終わってしまう。


 そこから先へ進むかどうかは、相手の沈黙としてそのまま置かれる。


 不安の形は小さくなったようで、実はもっと静かに鋭くなっていた。


 私はスマホを持ったまま、しばらくソファにもたれていた。


 部屋は静かだった。


 エアコンの送風。

 壁の時計のかすかな音。

 浴室の換気扇。

 遠くで走る車の気配。


 その全部の上に、白い灯りが均一に落ちている。


 昔の二つ折り携帯みたいに、閉じたあとも何かが少し残る感じは薄い。


 画面は大きい。

 文字も打ちやすい。

 予測変換は勝手に続きを並べてくる。

 送るまでに迷う時間も短い。


 その分、閉じるのも早い。


 私は返信欄を一度だけ開いた。


『寝た?』


 と打ちかけて、やめる。


 消す。


 また何もない欄に戻る。


 画面を上へ払う。

 ホームに戻る。


 何かを送れば流れが戻るわけでもないことを、もう少し知っていた。


 しばらくしてから、もう一度トーク画面を開く。


 既読のまま。


 何も増えていない。


 その何も増えていない感じが、昔よりはっきり見える。


 私はスマホを伏せた。


 テーブルの上で、黒い画面が部屋の光を鈍く返す。


 相手は読んでいる。

 私も読んでいる。


 接続はある。


 でも、その夜はそこから先へ進まなかった。

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