外伝短編|既読のまま閉じた夜
夜、部屋へ戻ると、机の上の携帯が小さく光った。
閉じたままの二つ折り携帯。
外側の細い画面だけが、青白く一瞬だけ灯って、すぐに消える。
靴を脱いだばかりの足裏に、床の冷たさが少し残っていた。
部屋の電気をつけたばかりで、まだ白い明るさが壁に馴染みきっていない。
ジャケットを椅子の背に掛ける。
鞄を机の横へ置く。
その途中でも、携帯の方が気になっていた。
また光らないかと思う。
近づいて、手に取る。
開くと、ぱち、と小さな音がした。
液晶の白い光が、指先の内側を照らす。
メールが1件。
送り主の名前を見た瞬間、喉の奥が少しだけ狭くなる。
今日、一緒にいた相手だった。
恋人、とはまだ言えない。
でも、ただの友達とも少し違う気がしている。
そういう相手から届く文は、短くても重かった。
『今日はありがと』
それだけだった。
絵文字はない。
句点もない。
なのに、その短い文の後ろに、帰り道の空気がまだ残っている気がした。
駅前の人の流れ。
改札の手前で一度だけ止まった足。
じゃあまた、と言ったあとに少しだけできた間。
たったそれだけの文なのに、何度も読みたくなる。
私はベッドの端に座って、もう一度画面を見た。
『今日はありがと』
小さい画面の中で、その7文字だけがきちんと置かれている。
もう一度読む。
読み返すたびに、文の意味が少しずつ変わる。
社交辞令かもしれない。
少しだけ続けたいと思ってくれたのかもしれない。
ただ、その場の終わりをやわらかくしただけかもしれない。
分からない。
でも、分からないままで少し嬉しい。
返信しよう、と思う。
親指でボタンを押す。
新規作成。
本文の欄に、小さなカーソルが点滅する。
その点滅をしばらく見てしまう。
『こちらこそ、ありがとう』
と打つ。
真面目すぎる気がして、消す。
『今日は楽しかった』
と打つ。
それも少しだけ重い気がして、また消す。
親指の先が、丸いボタンの上で止まる。
携帯で文を打つのは遅かった。
同じキーを何度も押して文字を選ぶ。
濁点をつける。
小さい文字に変える。
変換も、今みたいに勝手よくは出てこない。
考えすぎると、文が長くなる前に手の方が嫌になる。
私は一度、携帯を閉じた。
光が細く消える。
部屋の静けさが戻る。
冷蔵庫の低い音。
外を走る車の気配。
遠くで電車が線路を擦るような音。
その中で、自分の送っていない返事だけが少し浮いていた。
机の横に立ったまま、ジャケットのポケットから財布を出す。
レシートが1枚入っていた。
待ち合わせの前に買った缶コーヒーのものだった。
口の中を少しだけ落ち着かせたくて、コンビニで買った。
その紙まで、今日の続きみたいに見える。
何か別のことをしようと思って、棚の上の雑誌に手を伸ばす。
開く前にやめる。
テレビをつけようかと思って、リモコンを持って、やめる。
もう一度、携帯を手に取る。
閉じたままの外側の画面には、時刻だけが出ている。
アンテナは3本。
バッテリーはまだ半分以上ある。
それを見ているだけで、完全には切れていない気がする。
開く。
またメールを見る。
『今日はありがと』
その後ろにあるものを、勝手に少しだけ考える。
もう電車に乗ったのかもしれない。
家に着いて、家族のいる部屋にいるのかもしれない。
着替えている途中かもしれない。
今、返事を打とうとしてやめたのかもしれない。
分からない。
分からないけれど、その分からなさはまだ冷たくなかった。
見たかどうかも分からない。
届いたかどうかさえ、どこかで曖昧なままだ。
でも、その曖昧さのぶんだけ、夜の中に相手の時間が残っている。
私はもう一度、返信画面を開いた。
『今日はありがと。気をつけて帰ってね』
まで打って、止まる。
もう帰っているかもしれない、と思う。
消す。
『こちらこそ。またね』
と打ってみる。
悪くない。
でも、そこで終わらせすぎている気がする。
また消す。
結局、最初に近いところへ戻る。
『今日はありがと。楽しかった』
それだけ打って、送る。
画面の下に小さく「送信しました」と出る。
その表示はすぐ消えた。
私は開いたままの携帯を見ていた。
返事はまだ来ない。
来なくて当然だとも思う。
家に着いてすぐ返せるとは限らない。
食事中かもしれないし、風呂かもしれないし、親の前で携帯を開きづらいのかもしれない。
そういう事情が、まだちゃんと夜の中にあった。
“既読”というシステムはない。
だから、読まれていないかもしれないし、
読んだけど返事を考えているのかもしれないし、
まだ鞄の中に入ったままなのかもしれない。
そのどれでもありえた。
私は携帯を閉じる。
机に置く。
少しして、また手に取る。
そんなことを何度か繰り返す。
検索しても、答えは出ない。
今みたいに、何でもすぐには出てこない。
誰かの恋愛相談も、脈ありの判定も、夜の不安をその場で埋めてくれるほど近くにはない。
だから、埋めるものがあるとすれば、それは想像だった。
相手の顔。
今日の笑い方。
駅で別れた時の横顔。
言いかけてやめた感じ。
不便だった。
でも、その不便さの中で、気持ちはすぐには切れなかった。
風呂に入って戻ってきても、携帯は静かなままだった。
机の上に置いた本体が、部屋の明かりを少しだけ鈍く返している。
タオルで髪を拭きながら、また開く。
新着はない。
それでも、さっき送った文を見る。
『今日はありがと。楽しかった』
それが送信履歴にちゃんと残っている。
たったそれだけの文なのに、送った時の迷いまで少しだけ閉じ込められている気がする。
私はベッドに横になって、枕元に携帯を置いた。
部屋の電気を消す。
暗くなる。
カーテンの隙間から、向かいの家の明かりが少しだけ見えている。
天井の模様も、棚の輪郭も、夜の中では少しずつ曖昧になる。
その中で、携帯だけが小さな機械としてはっきりしていた。
いつ鳴るか分からない。
鳴らないかもしれない。
でも、鳴るかもしれないと思うだけで、眠気の形が少し変わる。
しばらくして、枕元で控えめなバイブが鳴った。
布団の上を小さく震える音。
私はすぐに手を伸ばした。
開く。
液晶の白い光が、暗い部屋の中で指先だけを照らす。
『今帰ったよ』
そのあとに、
『明日早いから寝るね』
と続いていた。
どちらも短い。
会話としては、そこで途切れている。
でも、それで足りる気がした。
今帰ったこと。
家に着いたこと。
寝る前に、一度だけ返してくれたこと。
それだけで、夜の形が少し決まる。
私は返信欄を開いて、少しだけ考える。
『おかえり。おやすみ』
それだけを打つ。
送る。
それ以上、広げようとは思わなかった。
広げられないというより、ここで止まることにもまだ意味があった。
携帯を閉じる。
ぱち、と小さな音がする。
画面の光が細く消える。
返事は短い。
会話も、そこで途切れている。
それでも、閉じたあとも、まだ相手の気配だけは夜の中に残っていた。
⸻
夜、部屋へ戻ると、最初に明るかったのは天井の灯りじゃなく、ソファの横に置いたスマホの画面だった。
机の上ではなく、もう自然にそこへ置くようになっていた。
鍵を置く。
鞄を下ろす。
上着を脱ぐ。
その流れの途中で、一度だけ画面を見る。
通知がいくつか並んでいた。
業務の連絡。
通販の発送通知。
ニュースアプリの速報。
SNSのおすすめ。
動画アプリの更新。
その中に、相手とのトークが1つだけ混ざっている。
部屋の灯りをつける。
白くて、むらのない光だった。
床も、ローテーブルも、壁際の棚も、全部を同じ明るさで照らしてしまう。
昔みたいに、部屋のどこかだけが暗く残る感じは少ない。
スマホを手に取る。
画面を上へ払う。
通知がひらく。
親指が迷わず相手の名前を押す。
今は何でも速い。
打つのも速い。
送るのも速い。
検索も速い。
分からないことがあれば、その場で調べればいい。
店の営業時間も、電車の遅れも、天気も、だいたいすぐに出る。
相手が読んだかどうかまで、もう分かる。
昔みたいに、届いたかどうかを想像しなくていい。
それは便利だった。
便利すぎるくらいだった。
トーク画面の一番下に、昼間のやりとりが少しだけ残っている。
『了解』
『あとで送るね』
『ありがとう』
短い文ばかりだった。
関係が終わっているわけじゃない。
近くないわけでもない。
でも、会話が自然に育っていく感じは、前より少なくなっていた。
私はソファに座って、少しだけ背中を沈めた。
クッションの端が肘に当たる。
テーブルの上には、朝飲みかけたペットボトルがまだ半分残っている。
何か送ろうと思う。
『今日どうだった?』
打つ。
それくらいがちょうどいい気がした。
重すぎない。
冷たすぎない。
答えが1つで済まない。
送信。
文はすぐ届く。
画面の中で、吹き出しが静かに右側へ並ぶ。
少しだけ待つ。
待つ、というほどの時間でもない。
数秒。
でも、その数秒の短さの中で、もう昔とは違うと分かる。
既読がついた。
それだけだった。
読まれている。
でも、返ってこない。
私は画面を見たまま、親指を少しだけ止める。
昔みたいに、まだ見てないのかもしれない、とは思えない。
圏外かもしれない、とも思えない。
鞄の中に入れたまま、気づいていないのかもしれない、という逃げ道も薄い。
見たことだけが確定している。
その確定が、逆に流れを止める。
読んだ。
でも返らない。
たったそれだけで、夜の空気が少し平らになる。
私は返信欄を一度開く。
何か打つわけでもなく、すぐ閉じる。
トーク画面を見て、閉じる。
ホームへ戻る。
通知バーを下ろす。
また上げる。
指の動きは完全に身体に入っていた。
次にSNSを開く。
短い動画が流れる。
誰かの食事。
知らない街の夜景。
数秒で終わる笑い話。
広告。
また別の動画。
音は出していない。
字幕だけを目で追う。
面白いわけでも、つまらないわけでもない。
ただ、時間が少しずつ埋まっていく。
それでも、さっきの既読は画面のどこかに残ったままだった。
SNSを閉じる。
ニュースを開く。
閉じる。
天気を見て、閉じる。
検索欄に指を置いて、何も入れずに戻る。
便利さはいくらでも夜を埋めてくれる。
埋まる。
でも、戻るわけではない。
キッチンへ行って、水を飲む。
グラスに注いだ水は冷たくて、ガラスの表面に細い曇りがついた。
流し台のステンレスに、部屋の白い光が鈍く映っている。
冷蔵庫の低い音が、夜の奥でずっと続いている。
戻って、またスマホを見る。
既読のまま。
時間だけが少し進んでいる。
相手を責めるほどではない、と思う。
仕事があるのかもしれない。
別の誰かと一緒にいるのかもしれない。
返そうと思って、そのまま別のことに流れたのかもしれない。
事情はいくらでもある。
今は位置も、時刻も、予定も、ある程度は想像できる。
生活の輪郭は前より見えやすい。
それでも、気持ちだけは読めない。
読んでいる。
でも、返らない。
その形だけが、前よりずっと静かで、前より少し鋭かった。
私はもう一度、トーク画面を開いた。
自分の文の下に、既読の表示だけがある。
『今日どうだった?』
それは重い文ではないはずだった。
返事に困るほどでもない。
面倒な問いでもない。
会話の入口としては、たぶん軽い方だ。
でも、軽い入口だからこそ、返ってこない時の意味も小さく曖昧に広がる。
何かが壊れたわけじゃない。
終わったわけでもない。
無視された、と言い切るほどでもない。
ただ、流れが生まれない。
それだけだった。
20年前は、返事が遅くても、届いていないかもしれない時間があった。
まだ見ていないのかもしれない。
家に着いていないのかもしれない。
携帯を開けない事情があるのかもしれない。
そういう曖昧さの分だけ、夜の中に相手の気配が残った。
今は、その余白が短い。
既読がついた時点で、届いたことだけは終わってしまう。
そこから先へ進むかどうかは、相手の沈黙としてそのまま置かれる。
不安の形は小さくなったようで、実はもっと静かに鋭くなっていた。
私はスマホを持ったまま、しばらくソファにもたれていた。
部屋は静かだった。
エアコンの送風。
壁の時計のかすかな音。
浴室の換気扇。
遠くで走る車の気配。
その全部の上に、白い灯りが均一に落ちている。
昔の二つ折り携帯みたいに、閉じたあとも何かが少し残る感じは薄い。
画面は大きい。
文字も打ちやすい。
予測変換は勝手に続きを並べてくる。
送るまでに迷う時間も短い。
その分、閉じるのも早い。
私は返信欄を一度だけ開いた。
『寝た?』
と打ちかけて、やめる。
消す。
また何もない欄に戻る。
画面を上へ払う。
ホームに戻る。
何かを送れば流れが戻るわけでもないことを、もう少し知っていた。
しばらくしてから、もう一度トーク画面を開く。
既読のまま。
何も増えていない。
その何も増えていない感じが、昔よりはっきり見える。
私はスマホを伏せた。
テーブルの上で、黒い画面が部屋の光を鈍く返す。
相手は読んでいる。
私も読んでいる。
接続はある。
でも、その夜はそこから先へ進まなかった。




