全て特別でかけがえのない一冊①
その日の夜、エセルが達成感と満足感に包まれながら良い眠りについた頃。
フィカは自分の寝室で、まだ眠らずに椅子に腰掛け、ロフが淹れたハーブティーを口にしながら思考に耽っていた。
フィカの夜は遅い。
夜に煎じた方がいい薬が多いというのもあるが、本日はそれとは別に考え事をしたい気分だった。
今日の昼に見せたエセルの力――あれは、尋常の魔法ではなかった。
ダームスドルフに巣食う霊たちは、思いの強さから天界に昇れない哀れな霊たちの集まりだった。
あの日――忘れもしない三百年前のあの日。
さしたる理由もなく、ただただダームスドルフの持つ魔法の力に脅威を抱いた自分勝手な人間たちの手によって、都市は攻め滅ぼされた。
その時の悔しさ、恨みつらみ、都市を守るという強い意志。それらが魔力と合わさって、彼らを未だに縛り付けている。
もう戦うべき相手がいないことにも気が付かず、都市に侵入してくるものをただただ排除するべく戦う、肉体無き哀れな戦士。
それが霊の正体だ。
彼らをなんとかしたいという想いは、フィカの中に当然ながら存在していた。
報われない霊たちに、もう休んでいいのだと、戦う相手はいないのだと何度説得したか知れない。
霊の中には顔見知りの姿もあった。ともに過ごした仲間もいた。
だが妄執と怨念に囚われた彼らにフィカの声が届くことはなかった。
説得が不可能だと悟ったフィカは、次に避難させた書物を漁って彼らの魂を天界に導く方法を探った。それこそ、持ってきた書物の全てを読んだ。
しかしその結果わかったことはーー怨念に囚われた霊、すなわち悪霊は高威力の炎を以って滅する以外に方法がないということだった。
これは霊魂の消滅を意味する。
フィカたちダームスドルフの住民は、死後は安寧な天の世界に住み、そこで再び生まれ変わるのを待つと信じている。
しかし火魔法で焼き尽くしてしまえば天界に行くことも次に生まれ変わることも叶わない。
それは重罪を犯した犯罪者に対する刑罰だ。
他に手はないのかーーフィカは悩んだ。
あのまま悪霊となった霊魂たちを放置するという手段も取れるのだが、フィカには喫緊の使命が存在している。
魔法書の回収、および修復。
時間が経てば経つほどに魔法書に込められた魔力は減り、ただの本と変わりなくなる。
そうなると回収は難しい。それに崩壊した都市にいつまでも本を放置していては、劣化もひどくなってしまうだろう。
フィカには宮廷図書館の司書として急ぎ本を回収し、修復しなくてはならないという使命があるのだ。
フィカは都市を駆け抜け、宮廷図書館まで行くと、そこに蠢く霊たちに向かって高威力の火魔法を放った。苦渋の決断だった。
「――ごめんなさい、許して……!」
フィカだってこんなやり方はしたくなかったが、どうしようもない。
フィカの放つ炎は冥府の炎。他のものに波及せず、魂だけを焼き尽くす闇の火。
かくしてフィカは、宮廷図書館周囲の霊魂を焼き払い、この場所だけ安全を確保し、魔法書の回収に勤しんでいたのだ。
だからこそ、思う。
エセルのーーエルフ族の力は規格外だと。
あの唄は彷徨う霊魂を天界へと導く奇跡の唄。
妄執に囚われた哀れな亡霊たちの魂を救い、元の姿に戻し、その上で安寧の地に連れて行くものだった。
歌詞の内容がわからずとも、見ていればわかる。
エルフというのはみな、あのような唄を唄える種族なのだろうか?
だとしたら、ダームスドルフに住んでいた魔法使いや魔女よりもよほど強力な力を持っていることになる。
あれが人間族とは異なる、遥かに魔法に精通した種族――エルフ族のなせる技なのか。
そしてそんな凄まじい力を思い出させたのが、一介の大衆小説だったということにもフィカは驚きと動揺を隠せなかった。
初めてダームスドルフに行ったエセルがこっそりと『エクレバー冒険記』を持って帰っていたことには当然気がついていた。本人はケープの中に入れて隠しているつもりだったのだろうけど、ケープが不自然に盛り上がっていたし、家に着いて入浴後に妙に膨らんだタオルを抱え部屋に駆け込んでいたからバレバレだ。
フィカはあの本が好きではない。
一人称で描かれた軽いタッチの物語はありがちな内容で、当時あの類の小説は山のように発行されていた。
たくさん刷って、なるべく多くの人目につくよう本屋に並べられ、そして読み捨てられる。後には何も残らない、一時的な暇つぶしのための小説。
あれはそういう類の物語だ。
フィカはそうした、大量印刷され、大量消費される物語が嫌いだった。
本というのはもっと高尚で、価値あるものであるべきという考えに囚われていたのだ。
まあだからといって取り上げて捨てるほど鬼ではなかったので、好きにさせていた。エセルにはなるべく質の良い本に触れてほしいのだが、それは魔法図書館にある本で事足りるし、自分で興味を持って読むというのも大切な経験だ。
そんな軽い気持ちでいたものが、まさかこんな結果をもたらすなんて……つくづくわからないものね、と思う。
奇跡の魔法を使った後、家に帰ってからのエセルの訴えは、フィカの凝り固まった心に響くものがあった。
目を瞑り、エセルの言葉を思い出す。
「本を読むとワクワクしたりドキドキしたり、胸がぎゅーって締め付けられるように悲しい気持ちになるの。登場人物と一緒になって、わたしの気持ちも動いてる……それって、物語がとても素敵だからなることでしょ? わたし、そういう想いこそが、本がもたらしてくれる魔法なんだと思うんだ」
「ページを開くと、いろんな世界が広がる……わたしは本が大好きだから、フィカにも、どんな本でも愛してほしいの」
フィカが司書を目指した理由はなんだった?
遠い時の果てに忘れてしまった少女時代のフィカは、確かに、今のエセルのように純粋に物語を楽しんでいた。
図書館にこもって、端から本を読んで、物語の世界に没頭して……だからこそ司書になりたいと、大好きな本に触れていたいと考えて、この道を選んだはずだった。
成長していくにつれて選り好みするようになり、司書としての出世を果たしていくうちに考えはどんどん偏っていった。
宮廷図書館に置くのは、より高尚で、歴史的にも文学的にも価値のある本でなければならない。
宮廷司書としてフィカの意見に賛成する者は多く、むしろメアリーのようにあらゆる本を愛し、保管し、修復するべきだという者は少なかった。
フィカが声高に叫べば叫ぶほど、そうだという声は大きくなっていった。
きっとあのままダームスドルフが平和に繁栄していたら、発行される本はますます肥大し、宮廷図書館に置く本は選別されただろう。それこそ、フィカの望む形で。
……大切な心を置き去りにして。
エセルはテーブルに置いていた『エクレバー冒険記』を手にとって眺めた。
綺麗に修復されている。
技術的には拙さが目立つが、丁寧に、丹精込めて作業をしたことがよくわかる状態だった。
見開きは本の装丁に合う紙を選んで綺麗に貼り直され、本文は一ページ一ページきちんとよれや破れが直され、折丁ごとに重ねて綴じ直されている。
ここまで壊れてしまった本を直すのは根気のいる作業だ。
十歳にも満たないはずのエセルは、本が好きな一心で、続きを読みたい一心で直したのだろう。
誰にでもできることではない。
フィカが見向きもせず打ち捨てたままにしておいた本をエセルは拾い上げ、大切に修理した。
きっとエセルにとっては全ての本が特別でかけがえのない一冊なのだろう。
そんな事実が、人あらざる年月を生きて固定概念にまみれていたフィカの心に染み渡り、解きほぐしていく。
これからはもっと色々な本を分け隔てなく助けていきたいと、フィカの考えを百八十度変えるのに十分な出来事だった。




