エセルの新しい生活⑥
そうしてエセルは三日を過ごした。
三日間、朝起きて顔を洗い、用意してもらった瑠璃色の服に袖を通し、昼まではフィカの家の掃除を手伝う(そうは言ってもロフとロネが魔法で箒や雑巾を動かし、全部綺麗にしてしまうので、そこまでやることはなかった)。
それから料理の手伝い。これもロフとロネの指揮下で勝手に包丁が動いて材料の皮が剥け、ぐつぐつと煮込まれてしまうので、あんまりやることがない。
右往左往しながら料理が出来上がるのを眺め、その昼食をどこかから戻ってきたフィカと一緒にリビングで食べる。
それから森の中を散歩。あまり遠くには行けないけれど、ロフとロネのお供をして、薬草摘みを手伝った。
その後は午後のお茶会の時間で、フィカ、ローラスと一緒にお茶を飲み、お菓子を食べ、お喋りをする。
そんな生活をしていると、自然にエセルはお茶会の場所のすぐそばに建つ建造物に興味を引かれてしまう。
フィカもローラスもその建造物について一度も触れたことがなかった。
フィカはお茶とお菓子の話、ローラスはフィカとエセルの話をにこにこと聞いているだけだ。
それが逆にエセルの好奇心を刺激する。
だから四日目のお茶会の時、エセルは思い切って聞いてみた。
「あの……この建物って、なんですか?」
「あら、気になるの?」
「はい?」
「そう……」
フィカは赤い唇をニンマリと笑ませ、なぜだかとても楽しそうな、待ってましたと言わんばかりの顔をする。
「じゃあ、入ってみましょうか。説明するよりもその方が早いし。ってわけでローラス、行くわよ」
「……わかりました」
言われるがまま立ち上がったローラスが先導し、建物に近づく。
首が痛くなるほど見上げてようやく天辺が見えるほどの高い建物だった。
正面にある赤い扉をローラスが押すと、頑丈そうな見た目とは裏腹にいとも簡単に扉が開く。
ローラスとフィカが迷わず中に入るので、エセルも一体中に何があるんだろうとワクワクしながらついていった。
ーー入った瞬間、空気が、匂いが変わった。
外よりも一段階低い、ひんやりとした空気。
古い古い、植物と動物の皮が混じり合ったような不思議な匂い。
それらはエセルが嗅いだことのない類のものだったが、同時になぜか懐かしい感じもした。
中に入ってまず感じたのはそうした「匂い」だったが、次は「景色」が気になった。
はじめに視界に飛び込んできたのは、縦線と横線を組み合わせ、引っ掻いたような跡だった。
一体なんの意味があるのか全く分からないそれを見て、エセルは指を差す。
「あの引っ掻き傷みたいなのは、何ですか?」
「あれは文字よ」
「文字?」
聞いたことのない単語に首を傾げる。
「読めなくても無理ないわ。ここで使われているのはルーン文字。魔法都市ダームスドルフで一般的に使われていた文字よ。当然、全種族が使ってる統一言語とは違うし、ましてエルフ族の言語とは全く違うでしょうし」
言語が違うとかそういう問題ではなかった。
それ以前の、もっともっと根本的な問題だ。
「あのう…………文字って…………なんですか?」
フィカが半歩後ろを歩いていたエセルを振り返る。その顔には驚愕の表情が浮かんでいた。
「え? 何? もしかして、文字、知らないの? どういうこと? 習ってないってことかしら?」
「エルフ族は文字を持ちませんよ。口頭で全てを伝える種族なので、エセルさんが知らないのも無理はありません」
「は……はぁあああ!? ローラスあんた、何でそういう大事な情報を後出しにするわけ!?」
「後出しにしたつもりはありませんが。聞かれませんでしたので」
フィカは額に指を当て、盛大にため息をついた。
ローラスが「ですよね、エセルさん?」と問いかけてきたので、エセルもこくりと頷いた。
エルフ族に「文字」という概念はない。見たこともないし聞いたこともない。
「あのね、『文字』っていうのは、んー、言葉を書き記すための記号みたいなもんよ。大勢に一度に情報を知らせたり、遠く離れた人のところに情報を伝えたり、後世に情報を残すために生み出された知恵ね」
「……?? 喋って伝えればいいんじゃないですか?」
「それだと途中で情報が変わっちゃったりする可能性があるでしょ? 情報を変わらない状態で残しておくためには、文字化するのが望ましいのよ」
「????」
全然全く意味がわからなかった。
記憶のないエセルだったが、この「文字」というものをすんなり受け入れることができない。少なくともエセルのかつての暮らしでは、文字に触れたことはないらしい。
ローラスがおっとりと補足する。
「エルフ族は人間族と違い、人数も少ない上に長命ですからね。一人一人が長生きなので文字に記して後世に伝える必要性があまりない……口頭伝達で事足りるのでしょう」
「ローラスさんは、エルフ族に詳しいんですか?」
「少しだけ。以前、共に暮らしていたことがあったので」
「この森にエルフ族が住んでいたんですか?」
「いえ。私が旅してこの森に来る前、エルフのいる森に住んでいたんです」
「そっかぁ。そのローラスさんがいた森が、わたしの故郷だったりするかな?」
「それはないと思います。その森は……なくなってしまいましたから」
ローラスの顔が寂しそうに歪む。出会って四日、いつも穏やかな笑顔をしていたので、そんな表情を見るのは初めてだった。悪いことを聞いてしまったかな、とエセルは少し胸が痛んだ。
「エセルちゃん、文字を見たことがないってことは、本も見たことないのよね」
「本?」
「そ。……この建物内を埋め尽くしているものは全部、『本』よ」
フィカが両手を広げてうっとりとした表情で言う。
匂いと、目に飛び込んできた大きな引っ掻き傷のような跡に意識が持っていかれていて、それまで気がついていなかった。
エセルの意識が外側に広がる。
見上げると首が痛くなるほど遥か高い天井まで、四方の壁にはびっしりと棚が設られていて、そしてその棚の中に「何か」が収まっている。
「何か」は天井に設けられている大きなガラス窓の光を浴び、煌めいていた。
収まっている何かは、フィカの声に応じるかのようにするり、するりと棚を抜け出した。
大小大きさの違いはあれど、ほとんどのものが長方形をしていた。
それらはひとりでに空を飛んだ。蝶のように優雅な舞いだった。
ゆっくりゆっくりと飛ぶそれらは、エセルたちを歓迎するかのようにこちらに向かってくる。目がくらくらしそうなほど、おびただしい数だった。
ひとつがエセルの目の前まで来る。
赤茶けた堅い板のようなもののなかに、薄い、真っ白く平らなものがたくさん凝縮されて、束になっていた。これも板かなと思ったけれど、板よりも柔らかそうだった。
その板より柔らかな白いものの上に、先ほどみた引っ掻き傷のような跡、「文字」というものが細かく刻まれている。
そしてその白いページの上からするすると半透明な人型が浮かび上がってきた。