初級魔法術 ノトケル・バルブルズ著②
「ダメよ」
翌朝、朝食の席でのフィカの回答はエセルの予想に反して冷たいものだった。
にべもない一言に、エセルは手に持っていたスプーンを落としてしまい、はずみでベイクドビーンズが吹き飛んだ。飛び散った豆をロフとロネがすかさず回収して雑巾でせっせと床を拭いている。
「え……何でダメなの?」
納得ができないエセルはテーブルに身を乗り出してフィカに問いかける。フィカはそんなエセルに構わず、カリカリに焼いたベーコンを頬張っていた。
「危ないからに決まってるでしょう」
「フィカと一緒でも危ないの?」
「そりゃ、危ないわよ」
フィカはもぐもぐとベーコンを咀嚼しながら顔をしかめた。ゴクンとベーコンを飲み込むと、カップを手に取り紅茶を一口。それからエセルを、赤い瞳でまっすぐに見つめる。
エセルは怯まず、なおも言い募った。
「でもわたし、ちゃんと人間さんに変化できるようになったんだよ。エルフ族だってバレないようにするし、ちゃんとフィカの言うこと聞くし、危なくなったら魔法でなんとかするから」
「ダメよ。そういう問題じゃないの」
フィカは深刻そうな顔で首を左右に振る。
「いーい? エセルちゃんはねぇ、それはそれは、とっっっっても可愛いのよ」
思ってもいなかったフィカの発言に、エセルは目を点にした。
「か……かわいい?」
「そうよ。そこらの街娘にはあり得ない可愛さだし、貴族の娘にしたってエセルちゃんの可愛らしさを見たら裸足で逃げ出すわ。そのくらい可愛いの。そんな可愛い子を、ただでさえ目立つ美女のアタシが連れて歩いたら、どうなると思う? 確実に、目をつけられるわ」
フィカは拳を握りしめて力説する。迫真に迫っていた。
「目をつけられたらどうなるの?」
「ここらの土地を統治しているエロ領主の耳に入って、面倒なことになる」
「えろりょーしゅ、って何?」
「悪い人間ってことよ」
エセルの純粋な問いかけにフィカが答えた。
「捕まって、どっかに閉じ込められて、二度とメイホウの森に帰って来られなくなる可能性があるわ」
「魔法を使って逃げ出せばいいよ」
「問題を起こすとアタシの商売に関わるのよ。お金と物を手に入れるのには、癪だけどエロ領主の機嫌を取るのが一番なのよね。癪だけど。ヘソを曲げられて出入り禁止にされたら、また一から薬を売る客を探さなくちゃいけない。エセルちゃんだって、三食ずっとサラダだけの生活は嫌でしょ? お茶会だってできなくなるわ」
エセルは考えた。
正直エセルは三食サラダでもやっていける。肉も魚も好きじゃない。
けれどお茶会がなくなるのは嫌だった。
甘いお菓子は心を満たしてくれ、午後のやる気にもつながる。
あの時間がなくなるのはエセルにとっても痛手だ。
エセルは大人しく椅子に座り直した。飛び散ったベイクドビーンズはすっかり綺麗に片付けられ、新しいものが盛り付けられている。エセルはスプーンでそれをすくった。甘辛く煮込まれている豆は、パンのおかずにもちょうどいい。もそもそと豆を食べながら、エセルはこっくりと頷く。
「……うん、それは嫌かも」
「でしょ? だから、人間の街にはどうしても連れて行けないわ。ごめんなさいね」
エセルはちらりと上目遣いでフィカを見た。
人間の街に行くのを諦めたエセルに満足したのか、ソーセージにフォークを伸ばしている。エセルとフィカの朝食のメニューは基本的に同じだが、エセルの分には肉料理がない。
「フィカさま、紅茶のおかわりはいかがです?」
「もらうわ」
「はいです!」
空になったティーカップにロフが紅茶を注いでいる。それを見ながらエセルはなんとなく納得できない気持ちを抱えていた。
朝食を終えたエセルは、もやもやした気持ちのままメイホウの森を歩いて魔法図書館まで行く。
うつむき、地面に積もった葉っぱを踏みしめながら行くと、図書館前に見慣れた一本の木が生えていた。ローラスだ。相変わらず幹に顔を埋もれされている。
「おはよう、ローラスさん」
「おはようございます、エセルさん。今日も図書館ですか?」
「うん」
エセルが頷くとローラスは幹に埋もれた顔に少し心配そうな表情を浮かべた。
「少し棍を詰めすぎていませんか? ダームスドルフにも行ったと聞いていますし、たまには休んだ方がいいですよ」
「そうかな……でも、やりたいことがいっぱいあるの」
フィカに見つかる前に『エクレバー冒険記』を修復させたいし、風魔法ももっと上手に使いこなせるようになりたいし、『琥珀の姫と荊の騎士』も読んでしまって修復したい。ダームスドルフにもまた行きたいし、どうにかして人間族の暮らす街にも行きたい。
時間はいくらあっても足りないくらいだ。
エセルが目で訴えると、ローラスは憐れむような目で見つめ返してきた。
「フィカと、魔法書たちに感化されすぎているようですね。エセルさん、貴女はエルフ族です。まばたきほどの時間で亡びる短命な人間族とちがい悠久に近い時を生きる貴女は、本来そんなに生き急ぐ必要などないのですよ。もっとゆっくり、ひとつひとつの物事に時間をかけていいのです」
「でも……でも」
「やりたいことがたくさんあるのは結構です。ですが、焦っても良いことなどありません。ひとつに絞って、時間をかけ、時には休息を取りながら取り組むことも大事です」
「…………」
ローラスの言葉に、うつむいて考えた。
エセルが図書館に行くと、魔法書たちは歓迎してくれる。
読んで読んでとエセルの周囲に集まってくる。
エセルは夢中になって本を読んだし、書いてある内容を試したいと思うし、お世話になっている魔法書の願いを叶えたいと思う。
「急がなくてもいいのですよ」
再びローラスは言う。
ここ数日、ローラスはずっと同じ場所にいて、顔以外の全ての部位を樹に変えて佇んでいる。
毎日あくせくと動き回っているエセルとは正反対だ。
「ローラスさんは、ずーっとそこにいて、飽きないの?」
「はい。全く」
即答だった。
「冬に備え、私の周囲にリスたちが懸命に木の実を隠しているんです。私が動いてしまっては、そんな動物たちに迷惑がかかるでしょう? 小さな命が私に寄り添い、厳しい冬を乗り越えようとしている。それを眺めているだけで私の心は満たされるのです」
ローラスは穏やかに微笑んでいた。それを見ているとなんだかエセルの気持ちも落ち着いてくる。
「ローラスさんは……木なんだね」
「ええ。木なんですよ。エセルさんもたまには、木のようにどっしりと構えてみてはいかがですか?」
「う〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん」
首が肩にくっつきそうなくらいに捻ってうなるエセルにローラスは苦笑を漏らした。
「頭の片隅で、私の言ったことを覚えて置いてください」
「わかった」
頷いたエセルは、その足で魔法図書館の中へと入っていく。
そうすればすぐ、今日も魔法書たちが集まってきた。
『ごきげんよう、エセルさん。今日も本の修復からいたしますの?』
『たまには魔法の練習に一日を費やしてはどうか?』
『息抜きに別の本を読むのも良いと思うぞ』
エセルが図書館に足を踏み入れると、読者を求める本たちが次々に話しかけ、いろんなことを提案してくる。
それがエセルには嬉しくて楽しくて。
「今日も、昨日と同じ。『エクレバー冒険記』を直して、それから風魔法の練習するね」
メアリーとノトケルの喜ぶ声。まだ読んでいない本たちの落胆する声。
「なるべくはやく、全部の本を読めるようにがんばるからっ」
だからやっぱり、休む暇なんてないと思ってしまうのだ。




