初級魔法術 ノトケル・バルブルズ著①
実際のエセルには、すぐに花を探しに行く時間はない。
フィカの目を盗んでの本の修復作業を終えたら、昼食、お茶会。そして午後は魔法の練習。
エセルはどうも、何かを攻撃する魔法が苦手だった。
対象が何であれ、傷つけるという行為に心が痛む。ダームスドルフで使う火魔法も覚えるのに相当苦労したし、覚えた今でもむやみに使うことはなく、せいぜい部屋のランプを灯す時に使うくらいだ。極小の火を蝋燭に灯すだけなので、これならただの便利な魔法だった。
と言うわけで今現在習っている、風魔法――物体を切り刻む不可視の刃を生み出す魔法を行使するのは、エセルにとって苦痛そのものだ。
「ねえ、この魔法、いろんなものを傷つけちゃうからあんまり覚えたくないよ」
この声に反応したのは、『初級魔法術』の著者ノトケル・バルブルズだ。真っ黒な表紙に金箔でタイトルが箔押しされた魔法書の著者は、丸メガネをクイっと持ち上げながらエセルを見上げる。
『よいですかな、エセルさん。魔法が傷付けるのではない。使用する人間が、傷をつけるのですっ』
強い語気でノトケルは断言する。
『たとえば、エセルさんが森で迷子になり、空腹が限界になった時、木にりんごが実っていることに気がついたとするっ。一体どうすればりんごが取れる? 浮遊魔法? 飛翔魔法? 否、もっと簡単かつ魔力を節約した取り方があるっ。それが……今覚えようとしている、風魔法による刃っ。りんごのみを枝から切り落とせば、自身が飛び上がる必要もない。そういう便利な使い方が、この魔法にはあるのだっ』
「そ、そっかぁ」
ノトケルの勢いの良い説明に、エセルは思わずその場に正座して聞き入っていた。
「火魔法と同じなんだね。極々小さな火なら、蝋燭とか焚き火に火をつけて明かりになる……便利に使える」
『その通りっ。火魔法も風魔法も水魔法も、生きるために大きな役に立つっ。使い方次第で、良くも悪くもなるのだっ』
使い方次第。エセルの中でノトケルの言葉がすとんと腑に落ちる。
「わかった。わたし、がんばるよ」
よいしょと立ち上がると、エセルはもう一度風魔法を使うべく構えた。
「ただいまぁ……」
「おかえりなのです……わっ、エセルさま、一体どうしたです!?」
「髪がぐちゃぐちゃなのです!」
フィカの家に帰るとロフとロネに驚かれた。それもそのはずだ。いつも綺麗に整えてもらっている髪は乱れ、服もくしゃくしゃになっていて、普段の見る影もない。ベレー帽を被り直す木にもなれず、手で持って帰ってきている。
「風魔法の練習してたんだけど、うまくコントロールできなくて」
何度も暴風を巻き起こし、その度にエセルの周囲に集まっていた魔法書が風に煽られて図書館中に舞い飛んでいた。しまいには魔法を使うエセルの周りにはノトケル以外誰も寄り付かなくなる有様だ。魔法指南役のノトケルだけは何度吹き飛ばされようとも戻ってきて、『良くなってきているぞっ。もう一回だっ』とエセルを励ましていた。ノトケルさんは心が強いなあとエセルは心の中でひそかに賞賛の声を送っていたが、エセルの操る風魔法は一向に上達している気はしなかった。
なぜだろうか、風を操るのは他の魔法に比べてとても難しい。
『相性の問題だっ。魔法には相性というものがある。実態のない風に命令をして指向性を持たせ、風を束ねて向かう先を決めるのが難しいのだろう』と言われたのだが、確かにそうかもしれない。
常に気まぐれに吹く風をひとまとめにして命じるままに動かすのは、エセルにとって困難だった。
「ただちにお風呂に入るです」
「なのです!」
「うん、そうする……フィカは?」
「まだお戻りになっていないです」
「今日は遅くなると言っていたのです。お夕食はいらないと」
「そっか」
おそらく薬の納品関係で街に出かけているのだろう。
(わたしもはやく人間さんが暮らす街に行きたいなぁ)
変化の魔法で人間に見せかけることはできるようになった。あとは色々他に役に立つ魔法を覚えている最中。風魔法のそのうちのひとつだ。
(フィカに、聞いてみようっと)
ダームスドルフに行くのを許可してくれたのだし、案外あっさり「いいわよ」と言ってくれるかもしれない。
きっとそうにちがいない、とエセルは自分を納得させ、しわくちゃになった服を脱ぎ捨てて浴室に入っていった。




