変化の書 オウィディウス・リドゲイト著③
エセルはすーはーと大きく深呼吸をして気持ちを整え、それから両手をマールに向けた。
「【ルーンの力を示せ。エキナリウスの針を丸く変えよ】!」
カッと掌から光が迸り、マールを包み込んだ。閃光が炸裂し、マールの体が持ち上がり、ブワッと膨らんだ鋭い針のような毛が、次の瞬間には先が全て丸くなった。
「やった、成功したぁ!」
『お見事』
「!? !?!?!!?」
イメージ通りにいき喜ぶエセルと褒め称えるウィディ。
ただ一人、マールだけが自慢の毛を丸くされてしまってパニック状態だった。
マールの毛はいまや、珊瑚のように先端が丸くなっていて、なんの危険性もない。敵が来た時に身を守ってくれることも、いざという時の武器になることもなかった。ただただ可愛らしい魔法生物になってしまったマールは、その場でぐるぐると回っている。
「ごめんね、すぐに戻すから。【ルーンの力を示せ。其の変化を戻せ】!」
再びの閃光とともにマールの体が浮き、毛は元の鋭さを取り戻す。机の上に落ちたマールは数回バウンドした後、お腹からぺちゃっと潰れた。
「チィィ……」
「あの……び、びっくりさせちゃってごめんね」
「チィィ!」
マールの黒い瞳が恨めしそうにエセルを見つめる。裏切られた、と言わんばかりの目線に、エセルは「あうう」としか言えない。
見つめ合うエセルとマールの間に割って入ってきたのはウィディだった。
『魔法生物に対する慈しみ深さ、意思疎通の完璧さ、素晴らしい素質を持っている。……が、今は変化の魔法の授業中。君もいつまでもすねていないで、機嫌を直したらどうだね』
ウィディはマールに向き直った。
『たとえ失敗しても、君なら自力でどうにかできるだろう』
「え、そうなの?」
『魔法生物は普通の生き物と違う。加えて、このエキナリウスはやたらに魔力保有量が高い。この肥えた体には魔力がたっぷりと詰まっているから、どんなものに変化させようとものの数分で元の姿に戻れる』
「そ、そうなんだ……マールがそんなにすごいなんて知らなかったよ。そういえば、本喰い虫って魔力あるもんね。そんな虫をたくさん食べてるから、魔力も蓄えられてるのかなぁ」
「チチッ」
マールはなんだか得意そうに、後ろ足で立ち上がって胸を反らせている。でっぷりしたお腹に視線が吸い寄せられてしまい、エセルは人差し指でお腹をツンツンした。腹側の毛は柔らかいので、つつくと程よい弾力とともに指が毛に包み込まれてあたたかい。
「チィッ!?」
「ごめん、気持ちよさそうだったからつい触っちゃった」
「チチッ!」
『さて、そろそろ練習を再開しましょう。この分ならすぐに自分の耳も変化させられますよ。あと数回エキナリウスで練習したら、いよいよエセルさんの番です』
「うん、わかった」
エセルは気合を入れ直した。
早く人間に化けるためにも、魔法をものにしなければ。
お昼とお茶会を挟み、エセルの変化の魔法練習は続く。
夕方近くなり、マールを変化させるのも慣れ、失敗はなかったことから実際に自分で試してみることになった。
ドキドキする心を落ち着かせ、自分に向かって呪文を唱える。
「【ルーンの力を示せ。我が耳を丸く変えよ】!」
閃光とともに耳が体の内側から熱くなった。びよーんと左右に思い切り引っ張られ、それから急速に縮む。ゴム状のものを引っ張って、急に手を離したかのような感覚だ。
恐る恐る耳に触ってみると、とんがっていた部分が丸みを帯びている。
「成功した?」
『バッチリ』
ウィディが太鼓判を押してくれ、エセルはわぁぁっと喜びで胸が満たされた。
「魔法図書館に鏡あるかなぁ?」
『フィカ殿が身だしなみに使っている手鏡があるはず』
ウィディが天井を見上げると、ちょうど二冊の本がページの間に鏡を挟んで持ってきてくれていた。
「ありがとう」
エセルは手鏡を覗き込んだ。耳が、丸い。いつもの見慣れた自分のとんがり耳ではなく、フィカや魔法書の著者たちのように、丸い耳になっている。
「わぁ、本当に成功してる! なんかいつもより、聞こえも悪くなってるみたい」
いつも聞こえる、天井付近を飛ぶ本のページ同士が擦れ合う様な音が今は全く聞こえない。
ウィディは右手を胸に、左手を前へ出すと、なんだか嬉しそうに言った。
『それこそが、完璧な変化の魔法を使えている証! 耳を丸くするだけでなく、感覚器官の変化さえも可能にしているのは、エセル殿が変化の魔法の理論を完璧に理解しているからこそ。もっと研鑽を積めば、自分の姿をエキナリウスやユニコーン、果てはドラゴンに変えることも可能』
「ドラゴンに? もしかして、空を飛んだり、火を吐いたりとかも……」
『無論、可能だ』
「変化の魔法、すごい!」
『練習するかね?』
問われてエセルは空想した。自分の姿を竜に変えて大空を飛ぶのは、箒にまたがって飛ぶのとはまた違う爽快感がありそうだ。それに炎を吐けたら、寒い日でも体のなかがぽかぽかするだろう。
とても魅力的だったが、エセルはぶんぶんと頭を左右に振る。
「楽しそうだけど、他の本の魔法も練習する約束してるから、それはまた今度にするね」
『それは残念だ。エセル殿は飲み込みが早いから教え甲斐があるんだが……』
『オウィディウス殿、独占はずるいですわ』
『そうよ。エセルちゃんはみんなのものなんだから』
『僕らにも順番を譲ってくれないと』
『待ちくたびれてしまいましたよ』
やいのやいのと魔法書の作者たちがウィディに詰め寄った。
『むむ……仕方あるまい。エセル殿。また変化の魔法を覚えたくなったらいつでも声をかけてくれたまえ』
「はい、ありがとうございました」
『うむ。これからも魔法の練習に励んでくれ』
ウィディは姿を消すと、本の角でくるりと一回転し、それから宙に向かってふよふよと飛んでいった。
見送ったエセルは一息つき、机の上でくつろいでいるマールを見る。
「ふぅ……。今日はもう遅いし、わたし、帰るね」
「チィ」
お疲れ様、と一声鳴いて、重そうな体を動かして机からピョンと降りると図書館の入り口までエセルを見送ってくれた。




