ウェネーフィカの人生②
ふらふらとした足取りで図書館を出ると、そこには一人の青年が立っていた。
月桂樹のドライアドだ。
どうやらメイホウの森を統べるような存在らしく、逃げ延びた時に一度姿を表して、それきり会ったことがなかった。忘れてしまっていた。
ドライアドの青年は人間離れした儚い雰囲気の美貌を持っていた。白いローブを身に纏い、腰まで伸びた長い薄緑色のストレートの髪。頭には月桂樹の葉を編んで作った冠を被っていて、感情のない若葉色の瞳でフィカを見つめている。周囲には蝶やら鳥やらが飛んでいる。美しくはあるが、人外であることが感じられ、不気味だった。長く共に暮らした師の死と、書き残した本の内容によって感情が揺さぶられていたフィカはぶっきらぼうに問いかける。
「……何よ。何か用があるわけ?」
「森に悪さをしないかとずっと気にかけていたのですが、人間というのは慌ただしい生き物ですね。瞬きほどの間にどんどんと死んでいきますし、かと思えば生き残った貴女はしょっちゅう出かけたり、泣いたり笑ったりしています。まだ二百年かそこらしか経っていないというのに」
フィカは乾いた笑いを漏らした。
「ドライアドのアンタにとってはまだ二百年かもしれないけど、アタシたち人間からすれば二百年って途方もない時間なのよ」
「そうですか。それで、なぜ泣いているのです?」
「……アンタには関係ないことだわ」
「確かにそうですね。では」
興味を失ったらしいドライアドの青年はくるりと踵を返した。
フィカは、師を失った悲しみを紛らわせたくて、背中に向かって声をかける。
「待ちなさいよ」
「何でしょうか」
「アンタ、人間に興味ある?」
「人間族に興味はありません。彼らは森を破壊するので嫌いです」
「でも、アタシたちのことは受け入れてくれたじゃないの」
青年は肩越しにフィカを振り返った。若葉色の瞳に宿る感情の色は薄く、人間味がない。人型をとっているけれど、彼が決して人間ではあり得ないことがはっきりとわかる。
「ダームスドルフの住民は、他の人間族とは違うので」
「へえ、どう違うって?」
「この森を大切にしてくれます。人間族は我が物顔で樹木を切り、森に生きる者たちを傷つけていく……森を管理するものとして許せることではありません。ですがダームスドルフの住民は、少なくとも敬意を持って我らに接している。無駄に傷付けることはなく、必要な時にはまず森に願い出る」
確かにフィカたちダームスドルフの住民はメイホウの森を神聖視している。魔力満ちる森は魔法生物や魔法植物が溢れていて、魔法を使うフィカたちにとってとても大切な場所だ。
フィカたちは森からさまざまな恩恵を受けている。
メイホウの森の東にダームスドルフの都市があるのは、春風に乗って森の清涼な魔力が年に一度都市に届くからだし、薬を作るのに魔法植物が必要になったり魔法生物の力を借りたい時に森に行きやすいからだ。そうした時、住民はまずメイホウの森にある〈塔〉に祈りを捧げる。
青年はフィカに背中を向けたまま、今度は視線を塔へと向けた。
「この塔も、貴女方が建てたんですよね。人間は次々に生まれては土に還っていくというのに、代々森との盟約を決して忘れないのは律儀なことです」
「それが普通だったからよ。今となっては塔の役割が祈りの場から図書館に変わっちゃってるけどね」
「それでも貴女方は未だに、森を傷つけない。だから私は貴女に興味を持った」
フィカは気がついた。
この青年は、フィカを気にかけてくれているのだと。
もしかしたら生き残ったのがフィカ一人になってしまったのだと気がついたのかもしれない。
あるいは、二百五十年もの間森に暮らしているフィカたちに単純に興味を持ったのかもしれない。
いずれにせよ今のフィカにはありがたい話だった。
「今日、アタシの師が死んだの」
「もう一人いた人間族ですか?」
「そう」
口にすることで、一度引っ込んでいた涙がまた流れた。
二百五十年生きて、辛いことも苦しいこともたくさん経験した。ちょっとのことでは動じない自信があった。それでも長く共に暮らした師匠の死はフィカの心に深く傷を残して、鮮血が諾々と流れている。胸が張り裂けそうなくらい苦しかった。叫んで、叫んで、涙が枯れるまで泣いていたい。絶望に身を委ねてしまいたい。
それでも、そんなみっともない真似は絶対にしないわとフィカは己に言い聞かせ、こうしてかろうじて意識を保って立っている。
涙を流すフィカをローラスは不思議そうに見つめていた。
「……アタシは一人になっちゃったのよ」
「何か私に手伝えることはありますか」
「手伝ってくれるの? ドライアドのアンタが?」
「私は森の管理者ですので、森に生きる全てのものの味方です」
そうか、ドライアドの青年は、とっくにフィカたちのことを受け入れてくれていたのか。
フィカは人差し指と親指で涙を拭うと、赤く塗った唇を強気に吊り上げた。
「じゃあ、図書館の管理を手伝ってもらおうかしら」
「お安い御用です」
「言ったわね。後悔しないことね」
「時間はたっぷりありますので、後悔なんていたしません」
青年はふふふと柔らかく笑った。まるで春のひだまりで、小さな生き物を慈しんでいるかのような温かな笑みだった。
「アタシはウェネーフィカ・ゲルニカ。みんなフィカって呼ぶわ」
「私はローラス・ノビリスです。以後、お見知り置きを」
こうして師匠を失ったフィカはローラスという新たな仲間を得た。
ドライアドのローラスは中々独特の感性をしていたが、どうにかこうにかフィカは対応してみせた。何より話し相手がいない孤独を埋めてくれる者がいるのは助かる。
そして今は……。
フィカは長い思考の果てにメイホウの森へたどり着くと、自宅の近くに降り立った。
箒を右手に持って草を踏み締めて玄関まで歩く。
フィカが開けることなく扉は内側から勝手に開いた。
「お帰りなさいです!」
「お待ちしていたのです、フィカ様!」
近くの街で死にかけていた白フクロウと黒ネコを助けて魔力を与え使い魔にした二匹だ。
ロフとロネはたどたどしい敬語を使ってフィカのことを歓迎してくれる。
そしてもう一人……。
「フィカさん、おかえりなさい!」
金色の髪をなびかせて、サファイアブルーの瞳を輝かせ、一人の少女が玄関から飛び出してくる。
勢い余ってこけそうになっているエセルをフィカは優しく受け止めた。
「わっ……ごめんなさい!」
「エセルちゃんは元気ねえ」
フィカから離れたエセルは申し訳なさそうな表情をしていて、それが可愛らしい。
最近新たに仲間に加わったエセルはエルフ族の少女だ。
メイホウの森に突然現れた彼女は記憶がなく、どこでどう暮らしていたのかわからない。
ただ、そんなことどうだっていいじゃないのとフィカは思う。
何百年も続く変わらない暮らしにいい加減飽き飽きしていたところだ。
師はいなくなってしまったし、ドライアドのローラスは水しか飲まないのでお茶会がつまらない。
その点、エルフの、しかもまだ年端もいかない少女となれば話は別だろう。
美味しい紅茶も甘いお菓子も一緒に食べてくれるし、綺麗な服を着せる甲斐もある。
フィカの暮らしはエセルが来たことで一気に華やかになった。
やっぱり女の子がいると華があっていいわねと思う。
そんなことを考えていたのが表情に出ていたのだろう、腰に抱きつくのをやめたエセルが首を傾げた。傾いた拍子に金色の髪がサラリと揺れ、魔法の灯りを受けて煌めく。少し毛先を切って短くしたけれど、それでも腰まで伸びた髪はサラサラで綺麗だ。黒髪はきついパーマがかかっている自分の髪とはまた違う感じに美しい。
「フィカさん、ニコニコしてどうしたの?」
「エセルちゃん可愛いわねえってしみじみ思っていたの」
「ありがとうございます。フィカさんも綺麗ですよ!」
「あらあら、お上手ね」
エセルのストレートな表現はさっきのガマガエル伯爵からの褒め言葉の百倍嬉しい。
人間族は嫌いだ。
何の罪もないダームスドルフを滅ぼした連合国の連中も、ダームスドルフが滅亡するのを黙って見ていた周辺国のアホどもも、生き残ったにも関わらず未だ戻ってこないダームスドルフの子孫たちも、まとめてみんな大嫌いだ。
だから森に来たのがエルフ族のエセルで良かったと思う。
今はただ、エセルと楽しく暮らしていたい。
フィカは上機嫌で家の中に入り、玄関の扉を閉めた。
お読みいただきありがとうございます。
第一章はこれでおしまいです。
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