ウェネーフィカの人生①
ウェネーフィカ・ゲルニカ、三百二十四歳。
古代魔法都市ダームスドルフの生き残りにして魔法図書館司書。
好きなものは紅茶と焼き菓子。
嫌いなものは人間。
人間を前にしたら、擦り潰して薬用の大釜に入れてぐつぐつ煮込んでしまいたい気持ちをグッと抑えて、適当に作った薬を笑顔で売りつける。そうして大金をせしめる。
異常なほど装飾が施された豪華な部屋の一室で、ウェネーフィカは一人の男と向かい合って座っていた。長い巻き毛のかつらを被っている五十過ぎの男は、部屋に負けず劣らずの無駄に刺繍の施された上着を羽織り、きついズボンを宝石のついたベルトで無理やり留めて履き、ピカピカに磨いた靴を履いていた。
その趣味の悪さは一目瞭然だ。
同じ豪奢さでも、『変化の書』のウィディとは雲泥の差である。
ウィディはまだ若く、見目が良いということもあるが、己に似合う服飾を熟知している。過剰に飾り立てているのは否定できないが、少なくとも品はいいし、似合ってはいるのだ、似合っては。派手だけれども。
目の前の男はじっくりとフィカを眺めまわし、ニンマリと口を横に広げる。その顔はさながらガマガエルのようだった。
「今日も何と美しいのだろうか。ウェネーフィカ殿を前にしては、満開の薔薇の花も恥を知って蕾を閉じてしまうだろう」
「嫌ですわ、閣下ったらお上手なんですから」
オホホホホ、とわざとらしすぎる笑い声を上げながら、ウェネーフィカは内心で毒を吐きまくっていた。
(蕾ってまだ花が開いていない状態のことよ。蕾が閉じるなんて文章ありえないわ。それを言うなら花が閉じるでしょうよ。これだから教養のない人間は大嫌いだわ)
本音を無理やり飲み下し、フィカはにっこりにこにこと笑みを浮かべ続ける。
目の前の人物はいい金ヅルなのだ、機嫌を損ねる訳にはいかない。
「ウェネーフィカ殿の薬を飲み続けていると体の調子がとても良いのだよ。まるで二十歳は若返ったようだ」
「お引き立ていただき光栄にございますわ。こちらが今回の薬にございます。三十日分、煎じて参りました」
テーブルの上に無駄に豪奢な透かし彫りが施された木箱を置いた。相手から渡された薬箱なのだが、これ一つで庶民が一月は食いつなげるくらいの高値が付けられるような箱だ。そんなものを薬箱にして普段使いするような人間なのだから、財力の高さも窺い知れると言うものだ。
うむ、と鷹揚に頷いた男は、薬に目もくれずフィカを見つめた。
「して……以前からの話、考えてくれただろうか?」
男はテーブル越しに身を乗り出してきて、フィカの両手に触れようとした。瞳には熱っぽい色が宿っていて、明らかにフィカを口説き落とそうとしている。
フィカはごく自然な動作で両手を引っ込め、膝の上へと揃えて置き、男との距離を取る。
「申し訳ございませんが、住み込み薬師となるお話でしたら、お受けできかねますわ」
「不自由はさせない。屋敷の中で好きに過ごしていいし、ドレスでも宝飾品でも好きなものを買えばいい。外出だって自由にしていいし、君を拘束するような真似はしないと約束する」
「お気持ちはありがたく存じますが……」
フィカは長いまつ毛をそっと伏せ、苦渋の表情を浮かべながらゆるゆると首を横に振った。
それだけで、男は察したようだった。
「そうか……残念だな。気が変わったらいつでも言ってくれ。君ならば大歓迎だ」
「はい」
フィカは、ローラスやエセルの前では決して見せない淑女の姿を完璧に演じてみせた。
*
「バカ、バカ、バーカ。誰がアンタの女になんてなるかっての」
フィカは箒で空を飛びながら、溜まっていた毒を吐き出す。
あの男、オイゲンバウアー・ハックスビル伯爵というのだが、まあ趣味が悪いことこの上ない。
毎度毎度、背筋が粟立つ思いを我慢して金のために訪れているのだが、ここのところ数年はフィカを手元に置いておこうとあけすけな提案をしてくることが増えた。
「潮時かしらね。また別の金ヅルを探したほうがいいかも」
空の上でため息をひとつ。
生きていくには金がかかる。金を手に入れなければ現在の贅沢な暮らしを手放さなければならない。上等な茶葉も、砂糖たっぷりの茶菓子も、幾重にも布を重ねた贅沢なビロードのドレスも、綺麗に磨き上げた赤い爪も、フィカは手放したくはなかった。
魔法都市ダームスドルフが滅びて三百年。
宮廷図書館の魔法司書だったウェネーフィカ・ゲルニカは現在、魔法書で知り得た知識を活用して薬師として生計を立てていた。
初めは司書仲間たちの暮らしを支えるためだった。
司書たちはよく言えば人がよく、悪く言えば世間知らずで嘘がつけない人物が多かった。
生きていくにはさまざまなものがいる。フィカたちは指先一つで食料を生み出し、何もないところから真新しい衣服を召喚しているわけではない。あれらは別のところにあるものを呼び出しているに過ぎない。つまるところは簡単な転移魔法だ。
だから食料も衣服も住むところも、何もかもが必要になってくる。メイホウの森には水がふんだんにあるけれど、泉の水は魔力を豊富に含んでいるので飲み続けたら間違いなく体がおかしくなるだろう。
幸いにもフィカは嘘が得意だった。
『三十九の薬草の呪文集』という魔法書を参考にしながらフィカは魔法薬作りに没頭し、結果薬師として大成した。
メイホウの森を出て、にっくき連合国を避け、ダームスドルフの滅亡に直接関係のない小国に紛れ込んで薬師として薬を売り込んだ。薬がとてもよく効くとすぐに評判になった。当たり前だ。フィカが使用している薬草は、メイホウの森で育った魔法植物を使っているのだから、そんじょそこらの薬師が作ったものとはレベルが違うのだ、レベルが。
そんな風にして魔法司書の仕事より薬師としての仕事の方が多くなったのだが、司書仲間たちは一人また一人と死んでいった。メイホウの森に満ちる魔力に適応できたのは、フィカと師のリリーだけだった。五年経つ頃には二人きりとなった。フィカとリリーは仲間の遺体をダームスドルフまで運び、墓地に埋葬した。焼け落ちたダームスドルフの都はかつての栄光の面影すらなく、ただただ瓦礫が積み上がった廃墟と化していた。
それでもこの場所は、かけがえのないフィカの故郷なのだ。たくさんの思い出がある、唯一無二の土地なのだ。
焼け落ちた都にかろうじて残っていた墓地に仲間を埋め、リリーはフィカに力強く言う。
「落ち込むことないわ。いつの日かきっと、この地にダームスドルフの生き残りの民たちがやってくる」
「そうね、師匠。それまで生きないとね」
「ええ。あたしたちで蔵書を守るのよ。魔法書はダームスドルフの叡智の結晶……これさえあればダームスドルフの意思は受け継がれる。生き残った民たちが魔法書を読めば、たちまち古い血筋が呼び起こされ、魔法の奇跡が蘇る。知識は力よ。何がなんでも守らくっちゃ」
リリーの力強い言葉に、ウェネーフィカは己の使命を再認識した。
百年経ってもダームスドルフの生き残った民たちはメイホウの森にやってこなかった。
フィカは自ら探しに行こうと思った。探すのは簡単だ。魔法を使う人間族は目立つ。噂を頼りに会いに行けばいい。
だが、その者たちは皆、現在の暮らしに適応し、満足していた。
百年の後にダームスドルフを滅ぼした連合国は自滅し、小国が乱立する戦国時代と化していた。
魔法使いや魔女は恐怖の象徴ではなく、奇跡の力を行使する英雄としてどこの国でももてはやされていたのだ。
そんな中で、わずかな生き残りが集まって、滅亡した都市を復興する意味などあるのだろうか?
フィカがいくら訴えても、誰も耳を貸さなかった。あからさまにフィカを迷惑がる者もいた。
さらに百年が経った。
小国をまとめあげる帝国が誕生し、長く続いた戦争がようやく終わると人々は喜んでいた。
しかしフィカには全く関係のないことだ。
フィカは相変わらず薬師として金を稼ぎつつメイホウの森で暮らしていた。
さらに五十年が経ち、フィカに悲劇が訪れた。
リリーの死だ。
滅亡時七十五歳という老齢であったリリーは、これ以上の長命に体が耐えられなかったのだ。
「これを、あなたに託すわ」
リリーは休んでほしいというフィカの願いを拒否し、最後まで魔法図書館の机にかじりついていた。
魔法書たちが心配そうに見つめる中、死に際にリリーは一冊の本をフィカに託した。
「魔法都市ダームスドルフの繁栄と滅亡」と題されたその本の著者はリリー・ハンロット。つまり師匠本人が書いた本だ。
苦しげに浅い呼吸を繰り返すリリーは、最期の力を振り絞り、しっかりとフィカを見つめる。垂れ下がった瞼の下から、すみれ色の小さな瞳がフィカを見つめている。フィカはこの瞳が大好きだった。聡明で、慈愛に溢れ、時に厳しくフィカを叱る師匠の、この明るいすみれ色の瞳が。宝石みたいにキラキラして、いつでも前向きで、何歳になっても好奇心を忘れない、お茶目な師匠の瞳が。
「フィカ……あたしの可愛い弟子。ダームスドルフの生き残りを探すのよ。魔法書たちは、寂しがってるわ……読み手を欲しているの。探して、連れてくるのよ」
リリーはそこまで言うと息を引き取った。
たった一人残されたフィカは、どうすればいいかわからなかった。
師の遺体を他の司書仲間同様ダームスドルフの墓地に埋め、師がいつも座っていた机に腰掛けて、師が書いた本を読む。
在りし日の魔法都市ダームスドルフの栄華と、滅亡に至るまでがわかりやすく書かれている。
記憶が刺激され、さまざまなことが鮮烈に蘇った。
平和だった日々、突如全てが奪われた理不尽さ、次々に仲間を失った悲しみ……。
本が視界に入ることすら耐えられなくなり、フィカは受け取ったばかりの師が書いた本を本棚の奥の小部屋にしまい込み、多重封印魔法をかけて出てこられないようにした。
頬に生暖かい感触がして、涙が伝っているのを感じた。




