魔法書の「魔力戻し」⑥
ヒソプの布が触れた箇所から青白い光がこぼれ出て、光は『変化の書』へと吸い込まれる。二度、三度と繰り返すとその度に光は大きくなった。
『変化の書』は魔法図書館内にある他の本と比べて群を抜いて大きい上に、宝石がちりばめられているので凹凸がある。ただ撫でるように拭いただけではムラが出てしまうので、エセルは宝石の一つ一つを布で包み込むようにしてきっちりと拭き上げた。
――宝石というのは魔力を宿すのよ。
ふいにエセルの耳に、誰かの声が聞こえた気がした。
(だれ?)
――それが大きければ大きいほど。希少であればあるほど。特にあエセル様の瞳と同じ色のサファイア、真紅のルビー、夜空の星のように銀に輝くダイアモンド、それに……場所によって色を変えるアレキサンドライト。
(だれなの?)
脳内で問い返しても、周囲を見回しても声のある時は見当たらない。
あるのは、期待で顔を輝かせる本の作者たち、半信半疑な様子で見守るフィカ、後ろの方でいつもと違う真剣な表情をしているローラスの顔だけだ。
(いけない。集中しないと)
背表紙裏表紙含めてくまなく表紙を拭いた時には光は魔法書全体を包み込み、淡く発光した。
それは、青白い魔力の輝きだ。
魔力の光は表紙から本の中に溶け、吸い込まれていくようだった。
やがて本の表面からではなく内側から光が溢れ、そして本が机を離れてひとりでにフワリと持ち上がる。
エセルがその光景を黙って見つめていると、本がぶるぶると震え出し、風もないのにページが激しくめくれ出した。中の挿絵が忙しなく具現化し、めくれるページの隙間から姿を現す。
初めは、スプーンがフォークに変わった。次にコップが水差しに。タオルが洋服に。
それから蝶がカブトムシになり、メダカが鮎になり、ネズミがウサギになり、クマがライオンに変わった。
どんどんどんどん色んなものが、ちがうものへと変わっていく。
まるで目の前で色んなものが飛び交っているような、目が回りそうなその光景をエセルはひたすら眺めていた。今や『変化の書』の内側からとめどなく溢れ、奔流する魔力によって風が巻き起こり、エセルの長い金色の髪をぶわりと持ち上げて散らす。
そしてそれは唐突に止み、本がバタンと閉じると、金ピカの表紙から半透明の人物がするすると浮かび上がってきた。
顕現できた喜びに体を震わせ、高らかに声を上げる。
『―――――――ああ! こうしてまた姿を表せるようになるなど思ってもみなかった!! 魔力戻しの魔導具が復活したのかな? 何にしたってありがたい!!』
半透明の作者の姿は、本に負けず劣らずきらびやかで豪奢だった。長い髪を三つ編みにして右肩から前に垂らし、宝石を縫い付けた紐で結んでいる。筒状の帽子にも衣服にもこれでもかと宝石がついている。見た目はローラスと同じほどに見える男の人だ。魔力が蘇った喜びを全身で表していて、本の上でくるくると回転して踊っていた。回るたびに全身に纏っている宝石がしゃらしゃらと音を立てた。
エセルの様子を見守っていたフィカが盛大にため息をつく。
「はぁー……ったく、うるさいのが出てきちゃったわねぇ……」
『や、これはフィカ殿。久しぶりだな。相変わらずの美しさだ。私の魔力を戻したのは君かな?』
「ちがうわ。アンタの目の前に座ってるエルフ族の女の子よ」
『エルフ族の……?』
フィカに向いていた視線がエセルに向く。
その視線がエセルを捉えると、大きく目を見開いて大袈裟なほど体をのけぞらせた。
『ややっ! その耳、その人間離れした美しい見た目。まさにエルフ族である印!』
その男の人はあっという間にエセルがエルフ族であるという事実を受け入れると、右手を左胸に添え、片膝を突き、実に優雅な挨拶を決める。
『初めまして、可憐なお嬢さん。『変化の書』著者オウィディウス・リドゲイトと申します。呼びにくい名前故、どうぞ気軽にウィディとお呼びください。この度は私の本に魔力戻しをしていただき、恐悦至極に存じます。差し支えなければお名前をお伺いしても?』
オウィディウスの話は難しい言葉が多くて、エセルは半分くらいしか理解できなかった。
それでも「ウィディ」と呼べばいいこと、名前を聞かれていることはなんとかわかった。
「えっと……初めまして、ウィディさん。私はエセルです」
『可憐な見た目にふさわしい素敵な名前だ!』
いちいち反応が大袈裟でエセルは困ってしまい、とりあえず「えへへ」と笑っておいた。
「そこまでにしなさいよ、ウィディ。エセルが困ってるわ」
『フィカ殿。再び貴女に会えた幸運に感謝しよう!』
「ごめんね、エセルちゃん。ちょっとうっとおしいけど、悪い奴じゃないから」
「フィカさんとウィディさんは、知り合い?」
「まあ、遠い昔のね。一緒に働いてたことがあんのよ」
「へぇ……」
『それで、失われたはずの魔力戻しを使って私を甦らせたということは……変化の魔法が必要な困りごとでも起こったのかな?』
「いや、全然。エセルちゃんが変化の魔法を見てみたいって言うからとりあえずアンタの本の魔力戻しをしただけ」
『なんと! お安い御用だ。そぉら!』
ウィディは随分とノリのいい人らしく、あっさりと了承してから呪文を唱えた。
「【ルーンの力を示せ。我が体を別形へと変えよ。変化魔法・獣】」
呪文を唱えたウィディの体から青白い魔力の光が発せられ、消えた時には一頭の馬がそこにいた。
毛艶のいい馬は、全身に見事な宝飾品を纏っていて、高貴さを醸し出している。
馬は尻尾をシュッと一振りすると、人型に戻る。
「【ルーンの力を示せ。我が体を別形へと変えよ。変化魔法・鳥】」
早口で呪文を唱えると、次は大きな鷲へと変化した。大きく広げた翼には、きらきらとした小粒の宝石が散りばめられていた。
「わぁーっ、すごいすごい!」
エセルは椅子に座ったままぴょこぴょこと体を揺らし、拍手して喜んだ。
気を良くしたウィディが次々と変化してみせる。
猫だったり鹿だったり、ドワーフ、エセルが見たことのない種族、あるいは人間の少年、少女、屈強な大男と変化の種類は幅広い。
最後に自身の姿へと戻ったウィディが『いかがでしたか?』と尋ねてきた。
「すごかった! 本当に色々なものになれるんだね!」
『この私に変化できないものなどありません』
「変身しても、みんな元のウィディさんと一緒でキラキラしてた!」
『煌びやかな装いは私を形作るものですので、たとえ変化しても個性として残したいものなのです』
「おかげさまで何に変化してもウィディだってバレバレだけれどね」
フィカがケッと吐き出すように言った。
「エセルちゃん、満足したかしら? そろそろ次の魔法書の魔力戻しをして欲しいんだけど……」
「あ、うん。ウィディさん、ありがとう。わたし、お仕事するね」
『またいつでもお呼びください。では私は、久方ぶりに体を動かしてまいります』
ウィディはお辞儀をし、本の中から姿を現したままハタハタと上方に向かって飛び去っていった。
それを見送ったエセルの横に、どさどさっと魔法書が積み上げられる。
「じゃ、この魔法書たちの魔力戻しをお願いね」
「はいっ」
『変化の書』の魔力が無事に戻ったことで、エセルは自信がついた。
(よぉし、がんばるぞ)
右手に布を握って、エセルは動かない本を手に、その表紙をせっせと拭き始める。
結局この日は、三枚の布の魔力が尽きるまでエセル、フィカ、ローラスの三人で手分けをしながら魔力戻しの作業をし、全部で五十三冊の本の魔力を戻すことに成功した。
エセルは大満足だった。
蘇った本たちは大喜びで、口々に感謝の言葉を述べ、エセルに向かってお辞儀をしたり、手を握るそぶりを見せたりした(体が半透明なので実際に手を握ることができない)。
帰り道、たくさんの本に見送られながら足取りも軽やかにフィカの家へ戻るエセル。
「えへへ……わたし、役に立てたかな」
「ええ、とっても。ありがとう、エセルちゃん」
「んふふ……」
口元が緩みっぱなしで、ほわほわとする。
「明日からも魔力戻しの作業、がんばるぞっ」
「期待しているわ」
この子を拾ってよかった、とフィカは思う。
素直で、勉強熱心で、人間族への偏見をまるで持たず、そして心優しい。
こんな人物はなかなかいないだろう。
「無理しすぎて倒れないようにな。エセルちゃんはまだおチビなんだから」
「えっ、チビじゃないもん」
「チビよ」
「すっ、すぐにフィカさんくらい大きくなるもん」
「ホホホ、楽しみにしているわ」
「あーっ、信じてないっ!」
たどり着いた家には温かな光が灯っていて、近づくと扉がぱっと開き、白フクロウのロフと黒ネコのロネが「おかえりです!」「お待ちしてましたなのです!」と言って歓迎してくれる。
今日はヒソプの葉の採取で外で過ごしていたからいつも以上に汗をかいていた。
さっぱりと洗い流してから、フィカと一緒にごはんだ。
そんな温かな時間に幸せを感じ、今日一日の達成感を噛み締めながら、エセルはいつも以上に満足してベッドに潜り込んだ。




