エセルの新しい生活①
目を覚ました時には、視界いっぱいに白フクロウと黒ネコの顔があった。
「あ! 目を覚ましたです!」
「フィカさまーウェネーフィカさまー!」
何か言う暇もなく、白フクロウと黒ネコは誰かの名前を叫びながら去っていく。
開けた視界に見えたのは、木造りの天井から釣り下がる瀟洒なデザインのランプと、縄に結ばれた乾燥したイモリやコウモリと思しき死骸。それからぎっしりと瓶詰めにした何かが詰め込まれている棚だった。床にも鉄製の鍋やら長い棒やらが積み上がっていて、全て壁の方に無造作に押しやられている。
頭がやけに鈍かった。
ベッドでぼうっとしていると、コツコツと響く足音がして、開きっぱなしになっていた扉から誰かが入って来た。
豪華な衣服を身に纏った女の人だった。
真紅のドレスローブに三角帽子、黒い豊かな巻き毛を持つ、はっきりした目鼻立ちの綺麗な女の人。
その人がベッド脇まで来たので、重い体を何とかいうことを聞かせて、上体を起こした。
「起きたかしら?」
こくんと頷く。
「名前は?」
問われ、鈍い頭で考えた。
名前……なんだっけ? はっきりと思い出すことができない。
しばらく考えた後、おそらくこれだろう、と思う単語が頭に思い浮かんだ。
「……エセル……たぶん」
「……どこから来たのかしら」
この問いに対し、決定的な答えが出てこなかった。
「……森……?」
「森、ねぇ。森の名前は?」
ゆるゆると首を横にふる。
「フゥン……他に何か覚えていることは?」
「何も……」
「ちなみにここはメイホウの森ってところなんだけど、聞き覚えある?」
これに対しても首を横に振った。初めて聞く森の名前だった。
エセルは何も覚えていなかった。
自分がどこから来て、何があったのかを、まるで覚えていなかった。
きゅっとシーツを握りしめる。
唯一覚えているのは名前だけ。その名前も、確信を持つには至らない。
一体どうして?
自分は誰で、この人は誰で、ここは一体どこなんだろう?
口振りからすると、この女の人はエセルのことを何も知らないらしい。
ということは、ここはエセルが住んでいた場所……ではないということだ。
誰か知り合いは、エセルのことを知っている人はいないのだろうか。
思わず目にじわりと涙が溜まり、視界がぼやける。
不安でいっぱいのエセルに向かって、傍に立つ女の人はにっこりと微笑んだ。
「ま、込み入った話は後にするとして。アタシはウェネーフィカ。フィカって呼んでちょうだい。食事にするわね」
「あ、はい」
程なくして白フクロウと黒ネコにより運ばれて来た、ほかほかに湯気を立てるスープを前にして、エセルのお腹は盛大にぐるぐると鳴り響いた。
「こんな物置に押し込めちゃってごめんなさいね。一人暮らしなもんだから、ほかに空いている部屋がなくって。アタシの寝室だとアタシが落ち着かないし、リビングは物音がするからエセルちゃんが落ち着かないだろうし」
なるほどここは物置だったらしい。道理でいろいろなものがつめこまれているはずだ。
「物置部屋でも気にしないです。助けてくれてありがとうございます」
どこの誰かもよくわからないエセルを助けてくれ、こうして食事まで与えてくれている。そのことにエセルはとてつもない感謝の気持ちを抱いていた。
「まぁー、さすがエルフ族の子供。人間族のガキンチョとは出来が違うわね出来が! 見た目は九歳か十歳くらいに見えるけど……もしかしたら中身はもう少し上かもね? 何せエルフ族は人間と違って長命だし、見た目通りに歳を取らないから」
「はぁ……」
この言葉で、エセルは自分がどうやらエルフ族であるということを認識した。
自分が何年生きて来たのかもわからない。名前以外本当に何一つ思い出せない自分自身にがっかりし、肩を落とした。
「まあ、そのうち思い出すわよ。気楽にいきましょう? さ、食べて食べて。今エセルちゃんに必要なのは落ち込むことじゃなくて栄養を取ることなんだから」
「は、はいっ」
フィカに元気付けられたエセルはスプーンを手に取り、具材をすくって口に運んだ。
すると、フィカの後ろに控えていた白フクロウと黒ネコがひょっこり顔を出して期待に満ちた顔でこちらを見つめてくる。
「美味しい?」
「ねーねー美味しいのです?」
「はい、美味しいです」
「やったー! 褒められました!」
「フィカ様以外にお料理を出したの、初めてなのです!」
二匹は喜び、空中をぐるぐると円を描いて飛び回る。
「……あの……白フクロウさんと黒ネコさんは……」
「ロフ!」
「ロネなのです!」
「ちなみに白フクロウだからロフ、黒ネコだからロネよ」
フィカが横で説明を加えてくれた。なるほどとエセルは思う。
「それでその……ロフさんとロネさんは、フィカさんのお友達……ですか?」
いまいち関係性がつかめなかったのでそう問いかけると、「違うわよ」という答えがフィカから返って来た。
「ロフとロネはアタシの使い魔よ。魔力をあげる見返りに、身の回りの世話とか雑用を任せてんの」
「フィカ様の魔力は美味しいのです」
「抜群です!」
「はぁ……そうなんだ……」
「ま、エルフ族からしたらちょっと理解しづらい関係性かもね。使いっ走りにしてるだけじゃなくて、こちらも対価を上げているんだから対等な関係性よ。喋れるのだってアタシの魔法のおかげだし」
「ですです」
「なのです」
ビュンビュン跳び回す二匹を見ていたら、エセルの頭がぐるぐるしてきた。
「あう……目が回る……」
エセルは二匹から目を離し、せっせとスプーンを動かしてスープを食べる。細かく刻んだ具材がたっぷり入ったスープはとても食べやすくておいしい。
「全部食べられたかしら。あら? ソーセージだけ残ってるわね」
フィカの言う通り、エセルは野菜しか食べていない。
「あの。これ、なんかちょっと苦手で」
「ふぅん? エルフ族って菜食主義なのかしら。ここらにはエルフ族が住んでいないから、アタシもよく知らないのよね。ま、いいわ。食べたらこれ飲んで。アタシ特製の薬湯よ」
「あう」
スープ皿とスプーンを取り上げられたエセルは、代わりに緑色の渦巻く湯気が立ち上る薬湯の入ったコップを両手に押し付けられた。香りからして苦そうなそれに少し顔をしかめる。
「肉体疲労にも精神疲労にもよく効くんだから、飲み干すこと」
「…………」
厚意を無駄にはできないと意を決して薬湯に口をつける。うっとなるほど苦かったが、気合いで飲み干した。そうすると全身が温かくなると同時にエセルの両耳から湯気が噴き出る。
空になった薬湯の入ったコップを見てフィカが満足そうに微笑んだ。
「よしよし、偉いわね」
「偉いのです!」
「ロネ、苦すぎてフィカ様の薬湯苦手です!」
「耳から湯気が出るのです!」
「ぼっふんって!」
「やかましいわよ、お前たち」
フィカに一喝されようと、ロフとロネが気にせず尊敬の眼差しでエセルを見つめている。息を一つついたフィカが今度は優しい声を出す。
「じゃ、あとは、寝ること」
「あう」
フィカにコップも取り上げられると、肩を押された。そんなに強い力ではなかったにもかかわらず、エセルの体は大人しくベッドに横になる。
「食べる、寝る。それを繰り返して元気になんなさい」
「……はい」
「ん、いい返事。ロフとロネを残しておくから、何かあったら言うこと。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
ふかふかのベッドと、暖かな部屋。お腹が満たされる美味しい食事と、エセルのことを考えて出された薬湯。
全てが優しさで満ちていて、安心できる。
名前以外の一切を忘れているエセルだけれども、それでも、かつて自分はこのような優しさに包まれて暮らしていたことがあるのだと……そういう妙に懐かしい気持ちになりながら、眠りについたのだった。