おとぎ話全集 エドマンド・ニールセン著④
エセルはわずか三日間で『おとぎ話全集』を読破した。
ルーン文字を理解するのに春中を費やしたのに比べると、びっくりするほどあっという間だ。
「花の妖精とミツバチの物語」「ユニコーンと銀の乙女」「炎の騎士と水の騎士」「笑う猫と消えるネズミ」「毒蛇とリュート弾きの少年」「竜と薬湯」など、話の内容はどれも全く違っているので飽きることはなかった。
夢中になってエセルは読みふけり、昼食やお茶会の時間も忘れるほどだった。
その度に図書館内にフィカがやってきては「ご飯はちゃんと食べないとダメよ」と言ってエセルから本を取り上げ、襟首をむんずと掴んで外へと連れ出すのだ。
話の続きが気になりすぎるエセルが食事を大急ぎで終わらせようとすると、「ゆっくり食べないと本を取り上げるわよ」とフィカが脅してくるので、仕方なくエセルはいつもと同じペースでごはんを食べた。それでもエセルは食事の間中ずっと今読んでいる本の話しかしなかったし、早く読みたいなぁと思っていた。
そんな様子に『おとぎ話全集』作者のエドマンドはたいそうご満悦の様子だった。
『そんなに夢中になって読んでもらえるとは、書いたかいがあるというものだ』
「うん。これ、本当に面白い!」
『エセルさんはどの物語が好きかな?』
「毒蛇とリュート弾きの少年!」
間髪入れずにエセルは答えた。
蛇とリュート弾きの少年とは、森の中に住む一匹の毒蛇が、ある日森で聞こえてきた美しい音色を辿っていくとそこには切り株に腰掛けて楽器を奏でる少年がいた……というところから始まる物語だ。
蛇は少年の奏でる音に恋をして、少年に話しかけたいという思いが強くなる。しかし自分は人間に嫌われる毒蛇。そこで毒蛇は変化の魔法を使って人間に化け、少年に近づく。そうして二人は仲良くなり、少年のリュートの音色に合わせて歌を歌ったりして仲良く過ごす。
やがて二人の音楽が街でも人気となり、演奏依頼が毎日舞い込むようになる。
しかしちょっとしたきっかけで少年にじつは正体が毒蛇であることがバレてしまう。蛇はもう一緒にはいられないと身を引こうとするのだが、少年は毒蛇であったとしても受け入れ、今までと変わらない日々を過ごそうと言ってくれる。
そうして二人は町で人気のリュート弾きと歌い手としていつまでも仲良く暮らす……という物語だ。
「毒蛇さんが森に帰らないで仲良く過ごせてよかったなぁって思ったの。それに、挿絵が動いて本当にリュートを弾いてくれたり、歌を歌ったりするのが面白かった」
『なるほどなるほど。文章も挿絵もどちらも褒めてもらえるのは作者冥利に尽きるというものだ』
「あと、変化の魔法がすごいなって思った」
『ほう。人間族の幼子にはむしろ『ユニコーンと銀の乙女』に出てくる癒しの魔法や『炎の騎士と水の騎士』に出てくる火魔法や水魔法が好まれるものだが……』
「癒しの魔法はちょっと回りくどすぎる気がするし、攻撃的な魔法はあんまり好きじゃないかな……」
『ユニコーンと銀の乙女』に出てくる癒しの魔法は、死に瀕した父を救うために銀の乙女がユニコーンの力を借りるために旅に出るという話であったが、なんだか癒しの魔法を使うのに回りくどすぎる方法な気がした。
『炎の騎士と水の騎士』は文字どおり火魔法と水魔法が得意な騎士二人が決闘をする話だが、暴力的な話は好きじゃない。
「でも変化の魔法は楽しそうでいいなぁ。わたしも何かに化けてみたい」
エセルは空想する。
例えば、森を飛ぶ鳥や蝶に化けて大空を飛ぶのはどんなにか楽しいことだろう。
両肘を机に突き、両手で頬を押さえて空想の世界にエセルは飛んだ。
そんなエセルの様子を作者のエドマンドは微笑ましく見守っている。
『やはり本はこうして読まれて、感想を言われてこそ。しかもちょうど読者対象である幼子に読んでもらえるとは……じっとここで待ち続けたかいがあったというものだ』
「エドマンドさん、泣いてるの?」
『泣いてなどいないよ。グスッ』
「どう見ても泣いてるよ」
『このエドマンド、これでも四十五歳。な、泣いてなど、泣いてなど……!』
エドマンドの言葉尻は震え、最後はおいおい泣き始めた。びっくりだ。涙は本を濡らすことなく、空中で光りながら散っていった。
「ごめん、泣かないで」
エセルはポケットからハンカチを引っ張り出してエドマンドに渡そうとしたが、エドマンドが手を振ってそれを制する。
『お気持ちはありがたいのだが、半透明の身。受け取れないのだよ。エセルさんの優しい心だけで十分だ』
エドマンドはグズグズと鼻を鳴らしているが、どうにかこうにか泣き止んだようだった。
『良いこともあるものだな。フィカとローラスに感謝しなければ』
「フィカさんとローラスさんに?」
『うむ。あの二人がいなければ、僕もとっくに消し炭になっていただろうから』
「……?」
エセルはローラスをチラリと見る。エセルの読書の手助けをするために横に座っていたローラスは、ただただ微笑んでいるだけだ。何か説明してくれそうにない。
『エセルさんは本を読むのがお好きか?』
「うん! すごく面白い」
『では、他の物語も読んでみるといい』
「他にもあるの?」
『たくさんある。ほら』
エドマンドが上を向くと、たくさんの本がエセルの周囲を飛び回り、本の作者が姿を現した。
『次はこの本がいいぞ。ほら! 冒険譚だ!』
『エセルちゃんは女の子なんですから、ロマンスがいいに決まっていますわ。王子様とお姫様が出会って恋に落ちるような』
『自伝という手もあるわよ。服飾師の私の一生を書いた本はいかが?』
『歴史を書いた本も面白いと思いますが』
「うわわ、いっぱいきたぁ」
待ってましたとばかりに飛んできた本たちが、口々に自身の本を読んでもらうべくアピールをしてくる。ぐるぐると回りながら四方八方から話しかけてくるので、目が回りそうだ。
「みなさん、エセルさんが困っていますよ。順番にいきましょう」
『私が!』
『俺が!』
『某の本をぜひ!』
『いいや僕だね!』
「エドマンドさん、どの本が良いと思いますか?」
『そうだな……ここはやはり、文字が大きくて読みやすいものがいいだろう』
エドマンドが言うなり、数冊の本が他の本を押し退けてばっと前に躍り出てくる。
『うん、確かにこの本たちならどれを選んでも問題なく読めるはずだ』
「えぇっと……わたしが選んでいいの?」
『もちろん。自分が読みたいものを選ぶのも、読書をする上で大切なことだよ』
エセルは、目の前にある本を眺めた。どれも『おとぎ話全集』と同じくらいの大きさ、分厚さだ。
作者たちが表紙から飛び出し、「ぜひ自分の本を選んでくれ」とばかりに前のめりになっているので表紙が見えにくいのだが、どうにかこうにか半透明の体越しに題名を読み取る。そして一冊を手にした。
「じゃあ、これにしようかな」
『やったわあああああ!!!』
選ばれた本の作者は両手を高らかに天に突き上げ、身体中で喜びを表現した。
一方選ばれなかった本たちは、まるでこの世の終わりかのように絶望的な顔つきで膝からくずおれ、本のページに四つん這いになり頭を項垂れたり『選ばれ……なかった?』『くそおおおお』などと怨嗟の声をあげている。エセルはとても申し訳のない気持ちになった。
「あの……順番に全部読むから……その、待っててくれますか?」
『ええ、待つとも。我々、待つのは大の得意だ』
『何せこの地に所蔵されてから三百年。今か今かと読者を待ち侘びたからな』
『ふふふ。今更、数日がなんだ。待ってみせようとも』
『たとえ我が魔力が尽きようと、読んでもらえるならば悔いはない!』
「うん、頑張って読むから、待っててください」
作者たちの勢いに押されながらも、エセルは選んだ本を開く。
選ばれた本の作者は、得意満面で本の中にずぶりと体を沈め、読書の邪魔にならないようにしてくれた。
エセルは、知らない。
ここに存在しているすべての本たちが、「現在では失われた魔力を宿すルーン文字」で書かれているということを。たとえ人間族であったとしても、一文字たりとも読み解くことはできないということを。
エセルは知らない。
魔法図書館中の本一冊一冊に、外界では途方もない値段がつけられているということを。
古代都市ダームスドルフの叡智を、三百年前に滅んだ都市の文明を解き明かし、自らのものにしようと考えている人々がいることを。
エセルは何も知らない。知ろうとしない。
ただひたすら、本に囲まれ、にこにこしながらルーン文字で書かれた本を読む。




