初めてのルーン文字 レインワーズ・ルルーシュ著②
そんな感じでエセルの新たな日々が幕を開けた。
朝起きて、ロフとロネの手伝いをし、昼食を食べたらすかさずローラスが待つ石造りの建物へと行く。
フェオの文字を習った翌日にフィカとともに森を歩いていると、フィカがふいに言った。
「そういえば伝え忘れていたけど、あの建物のことは『魔法図書館』と呼ぶこと」
「まほうとしょかん、ですか?」
「そ。『図書館』っていうのは本を集めて保管して、閲覧……つまり調べたり読んだりできる場所のことよ」
「なんで『魔法』なんですか?」
「そりゃあの場所に魔法がかかってるからよ。普通の本はひとりでに飛んだり動いたり、まして本から作者の姿が飛び出してきて喋ったりなんてしないんだから」
「そうなんですか?」
「そ。作者たちの魔力、それから本に込められた思いが強過ぎて、本が自律活動できるようになっちゃってるの。だからあそこは『魔法図書館』とアタシとローラスは呼んでいるわ」
「わかりました」
エセルは頷いた。魔法図書館。なんだか素敵な響きだ。
魔法図書館のそばまでくると、ローラスが佇んでいた。
二人分の足音に気がついたローラスが顔を上げにこりと微笑んでくる。
「おはようございます、フィカ、エセルさん」
「おはようと言いたいところだけど、アンタ顔が幹に埋まってるわよ」
「夜通し雨が降っていたでしょう? 気持ちが良かったので木の姿で過ごしていました」
するするすると人型を取ったローラスは、確かに全身がしっとりと濡れている。薄茶色の髪先からぽたりぽたりと雨露が滴っていた。
「寒くないんですか?」
「ええ。我々ドライアドにとって、雨は天からの恵み。非常に気持ちがいいです」
「ローラスさん、本当に木なんですね」
「はい。木なんですよ」
「のんきな会話してないで、今日の勉強はじめるわよ。ほら」
「わっ」
フィカがパチンと指を鳴らすと、ぶわっと温かい風が巻き起こりローラスの全身を包みこんだ。風が止んだ時にはローラスの体は乾燥していたが、長い髪がくしゃくしゃになり、頭に被った月桂樹の冠はズレてしまっていた。ローラスはズレた冠を直し、髪と衣服の裾を整えながら眉根を寄せる。
「なんと乱暴な。せっかくいい感じに潤っていたのに乾燥してしまったではありませんか」
「図書館内に火気と水気は厳禁よ。あんなずぶ濡れの状態で入れるわけがないでしょう」
「自然に乾くまで待てばいいではありませんか」
「日が暮れちゃうでしょうが。エセルちゃんはまだ小さいんだから、夜ふかしは絶対にダメよ。さ、行くわよ」
「なんとせっかちな」というローラスの呟きを無視してフィカが魔法図書館の中へと入る。
「それじゃ任せたわよ、ローラス」
そう言うなり、フィカはどこかには行かず、体を浮かせて図書館内の天井の方へと舞い上がった。そのまますすすっと棚に近づくと、収めてある本を手に取り、その場で開く。
「フィカさん、何してるんだろう」
「蔵書の点検です。いくら魔法がかかっているといっても、やはり本というものは時間が経つと傷んでしまいますからね。ああして一冊一冊の状態を確かめるのも大切なことなのです」
「ふぅん……本も生き物と同じってことかな?」
エセルは首を傾げた。
「そうです。きちんと手入れをしないとダメになってしまうんですよ。さ、本日は『ウル』の文字について学びましょうか」
「はい」
ローラスの言葉を待っていたかのように、一冊の本がエセルの座る机の前へと降りてくる。
『初めてのルーン文字 レインワーズ・ルルーシュ著作』。
昨日大変お世話になったその本に、今日も厄介になる。
ぱらりと開いたページから、半透明姿のレインワーズ先生が現れた。エセルは本から飛び出したレインワーズ先生に頭を下げる。
「今日もよろしくお願いしますっ」
先生はメガネのレンズ越しににこりと微笑んでくれた。
レインワーズ先生とローラスに教えてもらいながら午後を過ごす。フィカはずっと図書館の中にいて、お昼とお茶の時間だけ外に出て休憩を取った。
ロフとロネがテーブルの上を飛びながら給仕をしてくれる。エセルはお昼の時間にフィカが食べているものが気になり、ちらちら見ていた。
フィカは、エセルの前には出されていない、赤く血のようなものが滴る茶色い塊をフォークとナイフで切っているところだった。
エセルは思い切って尋ねてみる。
「フィカ、それって……あの、牛さんのお肉?」
するとフィカは目を見張って動きを止め、エセルを見てから、口の端をにやりと持ち上げる。
「違うわ。これはね……子羊の肉よ」
「! こ……こひつじ!?」
「そうよ。とっても柔らかくて美味しいのよ。肉は子供のものに限るわ」
「! ……!!」
ローラスに聞いてはいたが、実際に「そうだ」と言われるとやはり心にくるものがあった。
フィカはお肉を食べる。
しかも、子羊の肉だという。
肉は子供のものに限る、などと言い出した。
肉を食べないエセルからすると、フィカの言葉は大変恐ろしく聞こえた。
エセルがショックに震えていると、ローラスが眉根を下げてフィカへと話しかけている。
「フィカ、もっと言葉を選ばないとエセルさんがショックを受けていますよ」
「アタシそういう気遣いとか苦手なのよ。それに、人間族が肉を食べるのは常識なんだから早いところ慣れてもらった方がいいわ。なんならエセルにも肉を食べて欲しいくらいよ」
「またそんな無理を言って」
「まあ、強制はしないけど。でもお肉美味しいわよ。どう? エセルちゃん」
フォークに刺した肉の塊を見せびらかしながらフィカが言うも、エセルは涙目になって首をふるふると横に振った。
「そう? 残念だわ」
さも美味しそうに子羊の肉を頬張るフィカをなるべく視界に入れないようにしながら、エセルは自分の分の料理に手を付ける。
「エセルさん、フィカのことは気にしないようにしてください。肉を食べますが彼女はいい人間族です」
「あ、はい。わかってます」
突然迷い込んだエセルをこうして保護して世話してくれているフィカが悪人な訳がない。
(人間族はお肉を食べるのが当たり前。わたしが野菜を食べるのと一緒)
周囲に飛ぶ蝶のような青い花を見つめながら、エセルは心を落ち着かせようとそう頭の中で言い聞かせた。食事を終えれば、お茶会の時間までまた図書館の中で勉強だ。
食べた直後は眠くなるが、エセルは気合を入れる。
(集中、集中……!)
「エセルさん、眠いですか? 少し休憩しましょうか」
「いえ、大丈夫です。『ウル』の意味、早く覚えたいのでっ」
「エセルさんは頑張り屋ですねぇ。疲れたら言ってくださいね」
「はい」
お茶会も挟んで、ひたすら魔法図書館の中で勉強をする。
つまずきながらもエセルはルーン文字を覚えていった。
文字を覚えるのはとても面白いことだった。とはいえ、一文字一文字に色々な意味が込められているので、それを完璧に理解して覚えるのは結構難しい。
『ウル』の文字は野牛を意味しているのだという。野生的な強さ、力などを表しているのだとか。
昨日覚えた『フェオ』も牛だったが、あれは飼い慣らされた牛で、『ウル』とは異なるのだという。
同じ牛でも見方が変わると意味も変わるのだと聞き、目がぐるぐるしてしまった。
机に突っ伏し、頬がべちゃっと潰れる。
「……一日一文字で、二十四日あれば覚えられるかなぁ」
「そんなに焦って覚えなくてもいいと思いますよ。私は二十四文字覚えるのに、百八十日以上かかりました」
「え!?」
思わずエセルはローラスの方を勢いよく見た。彼は相変わらずのんびりした様子で、本の表紙を布で拭いていた。
「フィカの言う言葉の意味を理解するのに、エセルさん以上に苦労したので。子供の頭は柔軟ですし、文化の違う他種族のことでもすぐに吸収してしまうでしょう」
「はぁ……そうかなぁ」
「自信を持ってください。昨日一日で『フェオ』の文字を覚えたのですから。私は最初のこの一文字を覚えるのに、まず二十日はかかりましたので。ね、レインワーズ先生」
話を振られたレインワーズ先生も頷いている。少し、自信を持てた。
「はわ……頑張ります」
「時には息抜きも大切ですから、根を詰めないでくださいね」
「はいっ」
ローラスの言葉に頷きつつ、今日もお茶会の時間、そして夕食までひたすら『ウル』の文字を理解するべく、ローラスの言葉に耳を傾けたのだった。




