プロローグ
【全ての書物には執筆者の想いが込められている
その想いは何物にも勝る魔法の力を宿している】
ーー魔法図書館エントランスに刻まれた言葉より
「あぁー、今日も平和だわ。平和すぎてあくびが出ちゃう」
「淑女が人前で大口を開けるのははしたない、とは貴女自身の言葉ではありませんでしたか、フィカ?」
「固いこと言わないでよ、ローラス。ここにはどうせあんたしかいないじゃないの」
春の女神が祝福を与える、うららかな日。バタフライブルーベルの可憐な青い花がパタパタと蝶のように飛び回るメイホウの森の中で、のんびりとした声がする。
声の主たちは、森の真ん中、少し木が開けた場所に置いてある椅子に腰掛けていた。
真紅の豪華なドレスローブに身を包み、頭には凝った装飾を施した同色の三角帽子を被っている。黒い豊かな巻き毛を背中に流した、二十代半ばほどの美女。
向かい合うように座っているのは、腰まで伸びた薄茶色のストレートの髪に月桂樹の葉を編んだ冠を被っている、二十代後半に見える青年。こちらは白いローブを着ているが、極めてシンプルで、装飾といえば小さな黄色い花くらいなものだった。
二人を挟んだテーブルの上には、昼下がりの今の時間帯にふさわしい茶菓子と茶器が所狭しと並べられていた。
……が、手をつけているのはフィカと呼ばれた女の方だけだった。
男はグラスに汲んだ水だけを美味しそうに飲んでいる。
フィカはその様子を見て、美しく整った顔を少し歪ませた。
「たまには紅茶を飲んで茶菓子を楽しみなさいよ。ウチの使い魔特製のスコーンは絶品よ? クロテッドクリームとジャムだってちゃんと作らせてるんだから」
「私は水だけあれば生きられるので」
「省エネな種族ねぇ……つまんなくないの? もっといろいろなものを食べて飲んで楽しめばいいのに。せっかく人型になれるんだから」
だがローラスと言う名の青年は、フィカの言葉に穏やかな笑みを返すだけだった。
いつもながらの様子にため息をひとつ。もはやこの男のこうした態度には慣れっこになっている。
が、それはそれとして、お茶会の相手としてはこの上もなく退屈なヤツね、と内心で思う。
「あぁーあ……お茶とお菓子を品評できる相手とお茶を楽しみたいわ」
「水の味でしたら品評できますが?」
「いらないわよ。そんなの聞いて何が楽しいのよ」
変わらぬ日常のやりとり。
もうこの日々がどれほど続いているのか、数えることすら放棄している、そんな毎日。
しかしこの日は、いつもと違った。
フィカの使い魔である白フクロウと黒ネコが、高くそびえる木々の間を抜い、森の奥から一直線に飛んできた。白フクロウが飛べるのは言わずもがなだが、黒ネコの方にも背中に小さな翼が生えている。
二匹は、ややたどたどしい言葉遣いで話し始めた。
「フィカさま、大変です! 大変です!」
「森の奥に、小さな人型の子供が倒れています!」
「小さな人型の子供?」
使い魔たちの言葉を聞き、フィカは訝しむ。
「この森にただの人間族の子供は入ってこられないはずよ」
「それが、人間族ではなさそうなんです」
「耳が尖っているのです!」
ピクリと、フィカだけでなくローラスも反応した。
人間族の耳は尖っていない。
耳が尖った、人型の子供。それは人型でも人にあらず。
示し合わせたかのように二人は立ち上がる。
「案内しなさい」
「はい!」「承知です!」
フィカの言葉に使い魔たちは即座に了承した。
柔らかな土を踏み締めて、フィカとローラスは使い魔の先導に合わせて森の奥へと進む。
この森は、普通の森とは違う。木々も草花も魔力を存分に蓄えているので、他の森に比べると葉や花を豊かに茂らせ、のみならず自らの意思で動くものさえあった。
環境がいいせいだろう。
水は澄んでいて美しく、穏やかな陽光がたっぷりと降り注ぎ、そしてこの三百年間は近隣で戦が起こっていない。ごく平和な森の中では、自然がのびのびと暮らしていけるのだ。
お茶会のテーブルの周りを飛んでいた青い花、バタフライブルーベルがいい例だ。
好奇心旺盛なバタフライブルーベルがフィカたちの周囲を飛び回りながらついてくる。フィカはそれらを気にせず、使い魔たちの後に続いて歩いた。
「ここです!」
「こちらなのです!」
陽光が木々の合間を抜けて照らし出す一角で、使い魔たちが声を上げる。
フィカとローラスは足を止めた。
そこには、間違いなく、森の住民ではない者が横たわっていた。
まだ十歳にも満たないように見える。
ゆるいウェーブのかかったくるぶしまで伸びた長い金の髪、真っ白な肌、そして特徴的な尖った耳。
「……確かに、子供がいるわね」
「ええ、それも……相当訳ありそうな」
ローラスの言う通り、子供は明らかに訳ありそうだった。
衣服がボロボロに破れ、長い髪は燃えてちぢれ、肌には傷を負っている。足は裸足だった。
どう考えても何かに襲われ、逃げてきたとしか思えない。
そして一番問題となるのは……。
「この子、もしかしてエルフ族?」
「ええ、エルフ族ですね。どこからどう見ても」
この森の近辺には存在しないはずの、エルフ族であるということだ。
昨日までは確かにこんな子供は森にいなかった。
どこから? どうやって来たのか? どうしてこの森に?
フィカとローラスは目を合わせ、即座に行動する。
フィカは使い魔に指示を飛ばし、さっとかがんだローラスは子供を抱き上げた。
この子に何があったのか、どうして突然この森に来たのか。
そんなことは二人にとってはどうでも良いことだった。
とにかく、助ける。
話はそれからだ。