01 中学二年生の十月
中学二年生の十月
休み五日、早退三日
娘が「頭が痛い」と学校を休んだ。
顔色は悪いが熱はない。風邪かなと、娘一人寝かせて仕事に出る。後ろ髪引かれるが、私も旦那も急には仕事を休めない。もし娘が新型コロナだった場合は私も濃厚接触者となり、出勤できなくなる。在宅でできる仕事は限られており、少し仕事をまとめておこうと思った。
夜帰宅すると、娘は昼も自分で食べ、調子も大丈夫とのこと。一安心したのも束の間、翌日は朝から学校に行くも、仕事場に保健の先生から電話があり、頭痛がひどいので早退させるとの連絡。午後には旦那が仕事から帰宅出来るので、とりあえず水分を取って寝ておくようにと早退して家に着いた娘に連絡し、旦那に様子を見て回復しないようであれば病院に連れて行ってほしいと連絡。感染症が怖くて病院に行くこと自体リスクだと思うが、続く頭痛に背に腹は変えられない。。
幸い娘は回復し、土日の部活動にも出て、元の日常に戻った、と思った。
娘は中学に入ってから「学校に行きたくない」と定期的に言っていた。何かやらかした生徒がいると、皆の前でその生徒を長時間怒鳴る先生がいて、娘は自分が怒鳴られているわけではないのに、「次は自分だ。失敗は許されない」と、とても怖いと話していた。
また、娘は学校の人間関係も難しく思っていたようだった。友達グループに気の合わない子がいて、娘の容姿をからかってくるのだという。「それは嫌だ」と伝えてごらんと私が言っても、娘は内弁慶で面倒くさがりなところがあるから、きっと自分ですべて飲み込んでしまっていたのだろう。
振り返ってみれば、明らかなSOSだった。
娘は「マジ怖いんだよ~マジ嫌だ~」と軽い愚痴のような言い方で、私も「怒られることしなきゃいいじゃん。友達とは少し離れてみたら」と軽く返していた。
昭和世代の悪いところ。子どもが先生に怒られるのは普通。叩かれるのも物が飛んでくるのも普通。気の合わない友達がいるのも普通。自分は当時あんなに嫌で怖かったのに、娘にはその「普通」を無意識に押しつけてしまっていた。それに今は時代が違う。学校以外ではつながりが薄かった私の子ども時代とは違って、学校で会う以外にもネット環境が学校外でも娘を追いかけてきていた。仲間はずれとかいじめとか明確な悪意はなくとも、娘は学校という狭い社会に恐怖し、人間関係に疲れていた。
娘は身体症状に出るほど、我慢を重ねていたのだ。
正直に言うと、ズル休みかな……、とちょっと思っていた。
ダルくて学校に行きたくないから「頭痛い」と言っているのかな、と。
まあ、たまにはいいかと思っていたけど、今まで行きたくないけれど踏ん張って学校に行っていた娘がとうとう行けなくなったのだと、この時はまだ気付いていなかった。
次の金曜日、また娘は頭痛で早退した。
それから、週に二、三回は休んだり早退するようになり、私は繁忙期の仕事にかまけて娘ときちんと向き合わず、一ヶ月が過ぎた。
いよいよこれはおかしいと、遅ればせながら、じわりと何か壊れ始めている危機感を持った。
不登校。
引きこもり。
そんな言葉が頭をよぎった。
娘は朝六時半から七時半位の間に起床する。元々朝は食欲がなく、ヨーグルトやパンを少しかじるくらい。私がついてしっかり食べさせないとと思いながらも、私は七時過ぎに出勤するので目が届かず、どうしたものかと考えあぐね、時間だけが過ぎていき。
夜はスマホの使用に制限をかけるも、放課後はずっと見ているようで。部活で必要な連絡もあるからと、ついあまり管理せずに使用を許していた。スマホが悪いわけではないけれど、一時も手放せなくなるほど、スマホに依存していった。
そして悩みは重なり、娘は夜眠れていない日が多くなり、私が朝家を出る時間になっても起きることが出来ずに、出勤途上に娘から「頭痛い、学校休みたい」と連絡が来ることが増えていった。