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第10話 光と蝶

 今にも散りそうな花びらを扱うようにそっと、アロイス様の手が耳を塞いだ私の手に触れた。


 頭の中の嫌な感情は際限なく熱を上げ続け、抑え込む私の手も同じように熱い。

 対してアロイス様の手はひやりとしていた。


 私の手をすっぽりと覆えるくらいに大きい手のひらで、ゆっくりと私の頭をアロイス様のほうへと引き寄せる。

 おでこに当たった硬くてざらついた感触は、アロイス様の服の布地だろう。私の頭を抱き寄せるようにしたアロイス様が、手のひらの冷たさと同じくらい静かに「そのままでいいから、聞いてほしい」と言った。


 「聖女様とニコがこの世界に来てくれなかったら、俺は陛下の身代わりに聖剣に魔力を捧げて死ぬ運命だった」


 にわかには信じがたい言葉が聞こえて、私は思わず耳から手を放した。閉じていた目を開けると、支援術師の軍服の濃い灰色が飛び込んでくる。


 動揺する私を一拍だけ待ってから、アロイス様は自分の身の上を淡々と話す。


 魔力を捧げると邪気を(はら)う効果を持つ聖剣が、王族に代々伝わっていること。その聖剣は王族の魔力にしか反応しないこと。


 ローデンヴァルト家は何代か続けて王女が降嫁していて、そのせいで王族に魔力の質が似ていること。

 なかでもアロイス様は今代の陛下に魔力がそっくりなこと。

 逆に王太子殿下は隣国の王女だった王妃陛下に魔力が似ていて、聖剣に我が国の王家の人間だと認められなかったこと。


 心臓に聖剣を刺して命を絶つことでしか、聖剣に魔力を捧げる術がないこと。


 「生まれてすぐに陛下の魔力に似ているとわかった時から、俺は陛下の身代わりになることが決まっていた。もしもこのまま結界の綻びが広がり続けて、邪気の侵出が拡大するようなら……」


 すぐにでもこの身は聖剣に捧げられる予定だった。と、アロイス様は溜め息をつくように少しだけ笑って続けた。


 「だから俺は何に触れようが何を見ようが感動も失望もしなかったし、特に何かに執着することもなかった。家族も俺の将来を知っていたから、まあ、家の中は年中葬式みたいな雰囲気で……。俺に婚約者がいないのも、それが理由だ」


 ドレスを作る際に夫人が「事情があって」と言った時、とても悲しそうな顔をしていたわけがわかった。

 そして自分がその時に見当違いの心配をしていたことも。


 自分が気づいていることが全てだと思い込んで、夫人が言う〝事情〟を深く聞こうともしなかった。

 あんなにもよくしてくれたのに、独りよがりに〝事情〟を把握しきった気になって、〝事情〟が私のことじゃなければいいのにと心の中で逃げを打っていた。


 「父上は後継ぎに弟が欲しかったらしいが、母上が(がん)として応じなかった。口には出さなかったけど、陛下が下した命が気にくわなかったんだろうな」


 大切な一人息子で家の後継ぎを陛下の身代わりとして差し出すのだから、このうえない忠義だろう。これ以上の忠節をローデンヴァルト家に望むな、と。


 王太子殿下も王妃陛下もご当主様も夫人と同じ考えだった。ある日、王妃陛下は王太子殿下が自分の魔力とそっくりなら、母国に伝わる〝聖女召喚の儀〟を行えるかもしれないと言ったそうだ。

 召喚の仕方や人材をそろえるために母国の伝手を方々(ほうぼう)たどり、準備が整ったのが四年前。


 聖女召喚は、忠臣を犠牲にのうのうと生き延びるわけにはいかないと奮起した王妃陛下と王太子殿下。大切な後継ぎを邪気と聖剣などに奪われまいと踏ん張ったご当主様の努力と、それを支えた夫人の献身の結果だったのだ。


 「それで聖女様が結界を直し、邪気を払ってくださったから俺は生きてる」


 「聖月(みづき)さんの……聖女様のおかげですね」


 心の底からアロイス様が生きていてくれてよかったと思う。この優しい人が生きていてくれてよかった。

 しみじみと言った私の手を、アロイス様がぎゅっと握りしめた。


 「でも、それはただ生き延びたってだけで、それ以上でもなかった。俺は死ぬ予定だったから、感情がずっと枯れてたというか、腐っていたというか……すごく鈍くなっていて、家族は喜んでくれたけど、俺自身は死ぬ時期がただ五十年後に変わっただけだという感じだった」


 私の手を包んだアロイス様の手のひらの冷たさが、なぜか痛々しく感じてしまう。

 本人の言う通り、アロイス様の言葉は感情の柔らかな部分を削ぎ落としたようだった。


 「でもニコがうちに来て、遠征先から手紙でやり取りしたり直接会って話をしたりするうちに、楽しいと思ったんだ。生まれて初めて、楽しいなって」


 「それは命を救われて初めて深いやり取りをしたのがたまたま私だっただけで、きっと他の人でも楽しかったと思います」


 「違うよ。ニコだから楽しいって思えたんだ」


 間髪入れず否定して、アロイス様は続けた。

 言葉と同じく、彼の声には少し笑みが含まれているようだ。


 「面白いエピソードもなんにもない、ただ俺が遠征先でこういう花を見たってだけの報告書みたいな手紙に、その花のことを一生懸命調べて色々書いてくれたニコだから。そこから自分自身がその花のことをどういうふうに思ったかを教えてくれたニコだから、楽しかったんだよ」


 手紙は本当にたわいもないやり取りだった。私が花について思ったことなど、そうたいしたことじゃない。

 ただ行を埋めるためだけに書いたような、簡単な一言だったこともある。


 むしろ花の成り立ちや主な成分は何かといった、勉強の延長のようなことばかり書いていた。

 きっとこの世界に生きるアロイス様なら、すでに知っているようなこともあっただろう。


 でも私はそれが楽しかった。

 アロイス様が教えてくれた見知らぬ花や昆虫や、土や岩や石の成分がどういう物かを調べるのが楽しかった。


 「私はこの世界の花のことをただ調べて、学んでいただけで……」


 とても失礼なことだけど、アロイス様の手紙は学びのきっかけでしかなく、きっと私だけが楽しんでいたのだと思っていた。


 「それは知ってる。けど、それで俺は人が何か物に触れたときにどういうふうに感じるかを学んだんだ」


 女性は花を見たら綺麗だと思い、虫を見たら気持ち悪いと思うに違いない。

 切り立った崖を見たら危険だから寄り付きたくないと思うだろうし、路傍の石になど見向きもしないだろう。


 そういった表面的なことしか考えたことがなかったと、アロイス様は言う。


 「でもニコは花を見たら根にはどんな成分が含まれてるか調べたいと言うし、昆虫は生態系を支える働き者だと言うし、崖のことを話したら俺の心配を真っ先にしてくれた。石の丸さに注目して、もしかしたら昔はその辺りは川だったかもって言ったときにはなるほどって思った」


 ふふっとアロイス様が楽しそうに笑うのがわかった。

 アロイス様の軍服に額を押し付けた私の視線の先で、金のボタンがまろやかに光る。


 「俺の手紙はニコにとってこの世界のことを学ぶきっかけになったかもしれないけど、ニコの手紙は俺にとって、感情を学ぶきっかけになった大事なものだ。ニコが俺にこの世界を楽しんで生きていいって教えてくれたんだよ」


 そう言って、アロイス様は私を抱きしめた。

 そんなふうに大切なもののように扱われたのは生まれて初めてだった。


 「この世界に来てくれて、俺を救ってくれてありがとう」


 そんなことを言われたのも、初めてだった。


 直接何かを与えたわけでもしたわけでもない。私がいるということに、私が私らしく楽しんでしていた何気ないことに対してありがとうと感謝されたのは初めてだった。

 誰にも、パパにもママにもお姉ちゃんにも弟にもそんなことを言われたことがない。


 「……っ」


 熱い塊を飲み込んだみたいに喉の奥が痛かった。


 「ああ……」


 そして私のつたない感性を、中身が空っぽな私のことを、大事だと言ってくれる人はきっと、この人以外に誰も現れないだろうと思った。


 「ごめんなさい、アロイス様……私は……アロイス様が気のせいだったって言っても、きっともう、なんでもないふりができません……」


 私を大切なものとして優しく扱ってくれるから。

 私の中身を大事だって言ってくれたから。


 「私も、好きです……アロイス様……」


 話を聞いてくれて優しく扱ってくれて、本当はそういうアロイス様にずっと心惹かれていたくせに。


 「アロイス様が、私の存在を認めてくれて、……アロイス様を好きでいていい理由をくれたとたんに好きだなんて、……私っ……図々しくて、卑怯者で、ごめんなさい……」


 泣いて泣いて、息を吸って、また泣いて。

 ふと目を開けたら、抱きしめられた肩越しにキラキラ光る蝶が見えた。

 蝶なのに夜行性で、(はね)と鱗粉が魔力で発光するこの世界でもめずらしい魔力を持つ蝶。


 「ニコのことが好きなのは気のせいでも、たまたまそこにいたからでもない。ニコだから、愛してるんだよ」


 緑が溶け込んだ黒い茂みを背に蝶たちは上下に揺れながらキラキラ光り、私を抱きしめてくれるアロイス様の顔も優しくて、ああ、全部が夢みたいに綺麗だって、……そう思った。

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― 新着の感想 ―
主人公ニコは目に見えて可哀想な子だったけど、アロイス様は貴族の義務として目に見えない可哀想な子だったんだ……。
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