白紙の世界
夜の張孔堂門前では、数人の武士が提灯を手にして辞していった。
それを見送るのは張孔堂門下の一人だ。正雪の身辺には常に人がいる。門下といっても、どこかの藩の武士だ。
いつの間にか正雪は多くの大名と繋がりを得ていた。
(これはいかんな)
屋根の上に伏せ、闇に紛れる黒装束の男は七郎だ。
隠密行動を得意とする七郎は、今も張孔堂近くの武家屋敷の屋根に伏せ、気配を殺している。
忍びとしての隠形も様になっている。七郎の経験がよく発揮されていた。
(まるでどこぞの藩主だ)
七郎は闇の中で息を潜めながら思った。
由比正雪の張孔堂、その門下は千を越す。
噂に違わぬ威容だ。正雪には江戸に集まった全国各地の大名がついている。
幕府が因縁をつければ即座に合戦の様相をなすかもしれない。幕府に不平不満を持つ者は数えきれぬほどいるのだ。
この江戸が戦火に包まれる……
そんな想像をするだけで、七郎は生きた心地もしない。
(やらねばならんのか)
七郎は自問する。正雪を自分の手で暗殺せねばならぬのか。そんな事ができるのか。
兄のように慕った男を密かに始末して、翌日から平然と生きていられるというのか!
七郎は自分はそんな人間ではないと思いたい。だが夜の闇に身を置くうちに、少しずつ彼の心は白紙となっていく。
感情も理性も消える。この感覚は体験した者にしかわからない。人間ではない存在へ自分が変わっていく感覚がある。
七郎は武家屋敷の屋根から舞い降りた。音もなく微かな風であるかのように。
眼前には張孔堂の門が何者をも通さぬとばかりに、七郎に立ちふさがっている。
黒装束に身を包み、顔を黒塗りの般若の面で隠した七郎。今の彼は夜の闇に蠢く一個の魔性だ。
般若面の奥で七郎は何を思うのか……
「む……」
七郎は小さな声を漏らした。彼は異様な気配を感じた。
指先が僅かに震えだす。得体の知れない恐怖が全身を駆け巡る。
七郎は、いや般若面は背後に振り返った。自分がいた武家屋敷の屋根の上に女が立っていた。
美しい裸身が月光に映える。背には蝶に似た美しい羽根が微かに蠢いていた。
女は真紅に輝く両の瞳で般若面を見下ろしていた。