無明を断つ
その日の夜だった。
七郎は実家の庭にいた。
彼の実家は江戸城にほど近い場所にある。
将軍家剣術指南役の七郎の父が、江戸城から離れた場所に屋敷を持つわけがない。
(また再び荒れるのか)
七郎は庭に立ったまま隻眼を閉じ瞑想していた。左手には鞘に納まったままの愛刀、三池典太があった。
(江戸の平和はどうなる?)
七郎は天下大乱の兆しあるところに立ってきた。
将軍家光による女ばかりを狙った辻斬り。これは秘中の秘として歴史の闇に葬られたが、もしも明るみに出れば、いかなる事態を招いた事か。
大納言忠長の狂気。その狂気は西国大名らと手を結び、幕府転覆の大災禍になりかねなかった。
京の内裏で月ノ輪なる少女を守り、島原の乱でも秘密裏に活躍した七郎。
七郎は命懸けで大乱を防いできた。
だが今はどうか。
参勤交代で江戸に集まった全国諸大名。
その名代が張孔堂を訪れ、密議を重ねている……
何のためか。それは幕府転覆の秘事に他ならない。
天下泰平の江戸が炎に包まれる。七郎はそんな想像をしてしまう。自分が死ぬならばまだ良いが、女や子どもまで死んでいくのか。
先の見えぬ不安と恐怖。しかも、その感情の出発点は、兄のように思った由比正雪なのだ。
(そうはさせん!)
七郎は目を見開き、踏みこんだ。
抜き放った三池典太の刃は、七郎の眼前にある石灯籠へ打ち下ろされた。
ふつ、と一瞬の甲高い音色と共に、石灯籠は真っ二つになって左右に分かれて、庭の大地に倒れた。
「無明を…… 断つ!」
つぶやく七郎の隻眼は強く輝いていた。
手にした三池典太の刃は魔をも斬るという。
江戸の守護者である七郎には相応しい。たとえ視力に不安があろうとも。
「正雪……」
七郎は夜空を見上げた。満月が美しかった。
正雪を斬るのではない。
無明を断つのだ。