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柔の道は鬼ばかり  作者: MIROKU
外伝 月陰の剣
29/29

13 剣禅一如

「ひ……」

 悲鳴を飲みこんだのは蜘蛛女だ。

 彼女の体は空中に浮かぶ蜘蛛の巣上にあり、七郎の刃が届く位置ではない。

 だが蜘蛛女は心底怯えていた。七郎の人間離れした感覚に――

 いや、鮮やかな人斬りの技に怯えていたのだ。

 戦乱の去った時代だ、七郎のように天下の大乱の絶えた世の中で、人を斬った事がある者は珍しかったろう。

 ましてや、七郎の戦いぶりは只事ではない。

 かつては三代将軍家光の辻斬りを無手にて制し(それこそが無刀取りの真髄だ)、悪鬼羅刹の巷だった駿河でも無数の死闘を経ている。

 蜘蛛女は人間を超越して魔性に転じたが、七郎は人を斬って人間ではないものになりつつあるのだ。

 七郎と蜘蛛女、どちらが人間臭いかと問われたら、答えは蜘蛛女になる。

「あんた一体、何なのさ…………」

 蜘蛛女の声が夜闇の虚空に消えていく。同時に夜空にかかる巨大な蜘蛛の巣も消失した。

 七郎は内裏の庭に佇む。深い静寂が夜の彼方まで広がっている。

 全身に汗をかいていた。生死の境に踏みこんだのだ当然だろう。

 七郎は三池典太の刀柄を固く握りしめた。女の魔性に嫌悪感を覚えていた。

 そして彼が斬り捨てた蛇女の骸は、すでに溶け出して腐汁となり、大地に染みこんでいる。

 魔性に転じた彼らでも、母なる大地に戻れば、また再び喜びを感じる生命体に生まれ変われるのだろうか。

 即ち人間に――



 翌日、七郎は月ノ輪の居室に近い縁側で瞑想していた。

 目を閉じ、縁側に座している彼を見て「昼寝でもしておるのだろう」と月ノ輪は思っていた。

 だが違う。これは剣禅一如だ。

 七郎の脳裏には無数の白刃が閃いている。その恐怖と迷いを打ち払うために、彼は不動明王真言を心中に繰り返す。

 やがて七郎の心の闇は晴れた。

 彼の心に思い浮かぶのは父の又右衛門、師事した小野忠明、そして彼に三池典太を授けた春日局だ。

 更には江戸で平和に暮らす人々の笑顔。

 我が子を胸に抱いて微笑む若い母親の姿……

(江戸を守らねばならぬ)

 それが七郎の決意であり使命だった。志半ばで果てた同志達のためだけにでもやらねばならぬ。

 七郎が兵法の道に踏みこんだのは間違いではなかった。無刀取りは確実に誰かの命を救ってきた。

 右目を失った事にも意味がある。それは常勝無敗の代償だったのだろう。

 七郎の魂は深い瞑想の中で天地宇宙と調和し、迷いを遠く離れていた。

 父の又右衛門や沢庵禅師の説く剣禅一如――

 それはこのようなものではないか?と七郎は感じる……

「……七郎!」

 明るく元気な声に振り返れば、稽古袴姿の月ノ輪がいた。

「約束じゃ、今日は兵法修行を頼むぞ!」

「承りました」

 七郎は微笑して頭を下げた。月ノ輪の活力が七郎の疲労した心を癒してくれる。

 幾多の死闘を経ても明日に向かえるのは、七郎を救う存在がいるからだろう。

 ――じ〜

 かすみは月ノ輪の背後に立っていた。彼女は底光りする物騒な視線を七郎に注いでいた。

 嫉妬も混じっているのだろうが、かすみは今にも七郎に飛びかかって蹴り倒して首を絞めて息の根を止めかねない。

 それが好意の裏返しだとは今の七郎にはわからない。彼はまだまだ女の修行が足りなかった。

 ――剣は毒、酒も毒、そして女も毒だ。

 心中に師事した小野忠明のニヤニヤした顔が思い出された。

 七郎は妙に納得した。


「男は卑小、女は魔性……」


 七郎はつぶやいた。

 彼の挑戦は永遠に続く。

 兵法と女心、それへの挑戦だ。〈了〉

※ありがとうございました。

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