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柔の道は鬼ばかり  作者: MIROKU
外伝 月陰の剣
26/29

10 昼と夜


   **


 月ノ輪にとって禅師の沢庵は、祖父のようなものだったろう。

 著名な沢庵は幕府ににらまれており、月ノ輪や内裏からは敬愛の対象だ。

「こうして沢庵漬けの出来上がりというわけだ」

 沢庵は内裏の者に、自身の考案した沢庵漬けを教える。後世にも存在する沢庵漬けは、禅師の沢庵が伝えたものという。

 さすがは仏僧と感心するが、沢庵の得意とするのは兵法だ。沢庵の遺した不動智神妙録は仏法書ではなく、兵法書なのだ。

 拝読すれば技量の上達に繋がると、当時の兵法者は一読三拝したという。

「兵法は槍、刀、組討の三つがある」

 沢庵は座している月ノ輪とかすみを前に話をする。

 いかにも高僧の佇まいだが、仏法より兵法に明るく、また男女の道にも理解が深いのだ。

「戦場の主力は槍、槍が折れてもまだ戦える」

 折れた槍を用いる技術が、杖術の始まりだという。また剣聖と称えられた上泉信綱も戦場での槍働きで武勇を知られている。

「刀は折れた槍を失ってからだが、まああまり使わんな」

 沢庵はカラカラ笑っているが、月ノ輪とかすみは目を丸くしていた。てっきり戦場は刀が主役と思っていたのだ。

 また、女性である月ノ輪とかすみが兵法談義に耳を傾けるのは、日々の憂いを払う気分転換でもある。いわば魂の洗濯だ。

「卜伝公も長い刀は好まなかったというしなあ」

「ぼ、卜伝公がですか?」

 かすみは驚いた。卜伝公とは塚原卜伝の事だ。

 鹿島新当流の剣士にして、戦国の勇士として知られる卜伝。この頃には過去の人物だが、だからこそ神格化されてもいる。

「長い刀は使いにくいしなあ」

「で、では何がよろしいのですか?」

「長い棒などは敵を制しやすく、接近してなら短い脇差しが使いやすい」

 沢庵の話に目を輝かせるかすみ。美しい乙女ながら、内裏の守護者の家に産まれた彼女。

 元々、好きな兵法の道だけに、かすみはやや興奮していた。沢庵が来なければ、このような話は一生、耳にしなかったかもしれない。

「大事なのは刀の長短ではなく、いざ戦うと決めたなら、全てを捨てて挑む覚悟だ」

「ははー!」

 かすみ、なぜか畳に額をすりつけて沢庵に平伏した。沢庵も月ノ輪も、かすみの深淵なる女心を知る由もない。



 隻眼の七郎は、月ノ輪の部屋近くの縁側で瞑想していた。

 幼い時の兵法修行で右目を失った。父のに木剣によって突き潰されたのだ。

 だが、それは武の深奥に到るための代償に違いなかった。今もこのように生き延びている、それが答えだ。

 傷つき、悲しみ、絶望しても――

 そこから立ち上がる事ができたのは艱難辛苦があったからこそだ。

「七郎殿!」

 背後から声をかけられて、七郎は振り返る。瞑想していても周囲の様子は把握していた。こっそり誰かが近づいてきていたのは気づいていた。

「何かね」

 七郎が振り返った先には、稽古袴のかすみがいた。しかし今日は何やら様子が違う。

 かすみは薄く化粧しており、紅を塗った唇が艶めかしい。

 何より袴の下に問題がある。普段は胸にさらしを巻いて、その上から袴を身につけている。

 が、今日はかすみはさらしを巻いていない。ついつい七郎は袴の胸元に目を向けてしまう。かすみはわざと袴を着崩していた。

「も、もしも今日の稽古で私が勝てたなら……!」

 かすみは顔を赤らめ叫んだ。七郎も訳もわからず頰が熱くなった。二人は男女の情念の渦中にいた。

 そして今、かすみに分がある。七郎は色気に弱い。あまりにも弱すぎる。

 彼の人格形成には春日局も関わっているからか、七郎は女を目上に扱う。それゆえに月ノ輪との仲も良好だが。

「し、し! し!」

「し!?」

 かすみが何を言おうとしているか、わからない。おそらくは祝言と言いたいのだろう。

 しかし七郎が連想したのは死であった。彼は身の危険を予感した。

「御免!」

 七郎は縁側から庭に飛び出ると、庭木を伝って塀を飛び越え、内裏の外へ逃亡した。

 僅か数秒の早技だ。それは自由への逃走だったかもしれない。

 七郎は将軍家光の御書院番頭(将軍の親衛隊隊長といったところか)も、城務めも剣術指南役嫡男の立場も全て捨ててきた。

 ただ一人の挑戦者でいたい、ただ一手に全てをこめたい――

 七郎は、そうでありたいのだ。その自由は死を覚悟しているからこそ得られるのだ。

「ふああああ!」

 かすみは猿のように逃亡した七郎へ歯噛みしながら恨みを募らせた。

 こんな調子で男女の仲が進展するのか。

 月ノ輪は深いため息をつき、沢庵は腹を抱えて笑いをこらえた。



 内裏に魔物が現れる噂は数ヶ月前からあった。

 噂の出所はわからない。噂とは、そういうものだろう。

 七郎は先日、ヤモリに似た魔性を斬り捨てた。

 同時に、背に蝶に似た羽根を生やした魔性を知った。

 どちらも女の姿をしていた。七郎は女は魔物だと信じた。また魔物を呼び寄せているのは、内裏にある何者かだと推測していた。

(よほど鬱屈していると見える)

 七郎は夜の闇に溶けこみながら内裏の見回りをする。

 濃緑色の黒装束は闇に同化し、背に負った名刀三池典太の刃は魔物をも断つ。

 顔は黒塗りの般若面で隠していた。面の奥に心を封じ、七郎はただ使命を全うせんとする。心を封じた七郎に普段の明るさは全くない。

 あるいは心を捨てたと表現すべきか。後世に伝わる柳生三厳の著書「月之抄」には捨心という概念が現される。

 捨心ならば心いずこにもなし。

 無心のままに心を任せ、彼我の勝敗に構うべからず――

 今の七郎は正にその境地にある。かすみから逃げ出したのが嘘のようだ。

 感情も理性もない境地に七郎はいた。彼自身が夜の闇に蠢く魔物のようだった。

 広い内裏を見回る七郎。大変な労力を必要とするが苦にはならない。七郎は幕府隠密として全国を巡っていたのだから。

 人も殺めた事がある。だからこそ魔性と戦う者として適任なのだ。

(夜が…… 夜が深い……)

 七郎の脳裏に恐怖と共に思い出されるのは、闇に閃く白刃だ。

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