9 明日への挑戦
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夜の闇に静寂が満ちていた。
七郎は稽古袴で内裏の庭に立つ。
庭木の幹に帯を巻きつけ、それに向かって無心に技をしかける。
左手一本で帯を引きつつ、体を独楽のように回転させる。技の形は後世の柔道における体落に似た。
左手一本でしかける体落は、七郎の父である又右衛門の技だ。
かつて七郎は江戸城内にて又右衛門と共にある時に襲われた。
――外道、死すべし!
又右衛門に恨み持つ者の一刀は鋭かった。
だが、又右衛門の動きもまた神がかり的であった。
七郎を刃の死角へ押し出すと共に、又右衛門は打ち下ろされた白刃を避けて対手に組みつき――
次の瞬間には、対手が背中から廊下に叩きつけられていた。
刹那に閃いた、無心の一手。
あの鮮やかな感動は、七郎の脳裏から終生消える事はなかった。
――お前を守るために夢中であったゆえ何も覚えておらぬ。
又右衛門はそう語った。神業を成し遂げた又右衛門だが、彼は全く何も記憶してはいなかった。
ただただ、息子の七郎を守ろうとしただけだ。
入神の技とは、心に宿るのではないか。
それこそが武徳の祖神の加護ではないか。
又右衛門は七郎を守ろうとした時、武を体現したのだ。
(あの境地へ、無の境地へ!)
七郎は尚も庭木に巻きつけた帯を握って、無心に技を繰り返した。
彼もまた死を覚悟して無の境地に到り、大勝負を制した事が何度かある。
あの瞬間の充実感、満足感を七郎は決して忘れぬ。
そして再び無の境地へ到るために、明日への挑戦に臨むのだ。
七郎の使命とは月ノ輪を守る事。
そのために全てを捨てるのだ。
それでこそ天道なり。




