8 女は魔物
艶めかしくたおやかな体から伝わるのは、得体の知れぬ妖気だ。
それは七郎の魂を訳もわからず震えさせた。
「美しい…………」
と七郎、思わず声が出た。得体の知れぬ魔性であろうと、その美に見惚れたのは真実だ。
月光蝶は妖しく微笑した。
“なかなかやるな、人間も”
そう言った月光蝶の体が夜の闇に溶けこんだ。瞬く間に妖艶な肢体は消え失せた。
あとには深い夜の闇と、彼方まで続くような静寂が満ちるのみだ。
両手に二刀を提げた七郎は、般若面の奥で恐怖に耐えていた。
先に斬り捨てたヤモリに似た魔性は、どこかに人間性を持っていた。七郎の推測では、人間が超自然の力を以てして別の存在に転じた姿であった。だからまだ意思の疎通は可能であった。
だが、月光蝶は人間ではない。その心に人間性を感じ取る事はできなかった。
超越の存在に遭遇したという事実が七郎を恐怖させたのだ。
神仏への信仰を持つ者は多い。その存在を朧気に感じたという者とている。
だが、真に超越の存在に遭遇したのは、どれほどいるだろうか。
(わからぬ、わからぬ事が恐ろしい)
七郎は両刀を握りしめた。
魔を斬るとされる名刀、三池典太すら心細く感じられる。
七郎の存在は、夜の闇に漂う塵芥の ようだ。
翌日、七郎は内裏の庭で月ノ輪に兵法指導を行う。
「まずは基礎となる体力をつける事ですな」
七郎は庭木の枝から削り出した木剣を月ノ輪に与え、素振りをさせた。
「えい! えい!」
月ノ輪は袴姿で素振りを繰り返す。その額に汗が輝いている。
素振りを繰り返すうちに、自然、月ノ輪の打ちこみも様になってきた。
余計な力みが抜け、打ちこんだ瞬間に手首を締めるようにという七郎の教えは、早くも体に染みついたようだ。
ひきはだ竹刀のように軽いならばともかく、重い真剣を振るうなら手首を締めなければ痛めてしまう。
「……九十九、百! どうじゃ七郎、終わったぞ!」
「なかなかのお手前です」
七郎は月ノ輪の晴れ晴れしい笑顔に、思わず微笑してしまった。
額に汗した月ノ輪は美しかった。
高貴なる身の少女が重責から離れ、一人の子どもに戻った瞬間だ。
「どうじゃ、七郎。私ならば魔性を斬れるか」
「お戯れを。刀を抜いて死ぬのは男の仕事であります。たとえ弱くても、最後くらいは格好良く死なせていただきたい」
「そうか、男の仕事を奪ってはいかんな。では七郎、潔く死ぬのだぞ」
月ノ輪の言葉は、傍からは酷に聞こえるが、なにぶん世間を知らぬ。
それに七郎には有り難い言葉であった。月ノ輪は自分のために死ねと言っているのだ。全国に比類なき身分の月ノ輪が、自分のために死ねと。
それは自身の命を七郎に預けるという事だ。七郎は、それに感激した。
「月ノ輪様も楽しみを持って日々をお過ごしください」
同時に七郎は懸念もしている。十歳前後の少女が、すでに人生を半ば諦めている事に。
その憂いを何とか晴らしてやりたい――
七郎はそう思わずにはいられない。
「うむ七郎、なかなか殊勝な事よ」
庭に現れたのは沢庵禅師であった。沢庵の背後には何やらしおらしいかすみが控えていた。
「お主は女難の相が出ておるなあ」
沢庵は意地悪く笑った。世間にも後世にも名僧と伝えられる沢庵禅師も、実は毒舌家だ。
「なあんですとお!」
七郎は吹き出すと同時に、女難には覚えがあった。
かつて彼は春日局の密命を受けて、三代将軍家光の辻斬りを止めた。七郎の持つ三池典太は後世で国宝に数えられるほどの名刀だが、それは春日局から報酬として与えられたものなのだ。
駿河では大納言忠長の暗殺を阻止した。刺客団は七郎の父である又右衛門の直弟子ばかりであった。
七郎は忠長の愛妾(彼女は真田幸村の娘であった)の依頼で、刺客団を迎え撃った。
「女に関わるとろくな事がないと普段から言っておったが、お主は自分から死地に飛びこんでおるように見受けられるがなあ」
「ぜ、禅師よ、何をおっしゃいます!」
「そうなのか七郎? お主、女なら誰でも良いのか?」
月ノ輪は可愛らしい眉をしかめて、七郎を見上げた。その様子は弟に呆れる姉のようでもある。
「月ノ輪様、女難とはそのような意味では…… ぶはっ!」
七郎は言い終えぬ内に、かすみの大きく振りかぶって放たれた平手打ちによってふっ飛ばされて、庭に転がった。
「最低!」
かすみは月ノ輪が見た事もないような怒りの形相で七郎を見下ろしていた。
(お、俺が何をした……!?)
地に倒れた七郎はうめく。倒れた拍子に口内を切ってしまい、唇の端から血が流れ落ちている。
春日局、真田幸村の娘、月ノ輪、かすみ、魔性の月光蝶――
確かに七郎は女難に見舞われる運命だ。




