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(これはいかなる妖気か)
七郎の身が震えた。これは風の冷たさだけではなかった。
心中に走る恐れと迷い。それは人知の及ばぬ存在を感知しているからだ。この恐怖を克服した先にしか明日はない。
魔を降伏する不動明王の真言――これは沢庵禅師より教えられたものだ――を魂に唱えつつ、七郎は周囲の様子を探った。
果たして夜の中に妖気のほとばしりを感じた。
「そこだ!」
叫んで七郎は刀の鞘に差しこんでいた小柄を抜いて、闇に投げつけた。
その小柄は空中で静止した。闇に潜む何者かが、小柄を空中で掴み取ったのだ。
「また会ったねえ色男」
夜の闇から姿を現したのは、昨夜遭遇した魔性であった。ヤモリと人間が融合したかのような異様な姿、ましてやそれが女の姿をしているとは。
女は魔物という言葉が七郎の魂に深く突き刺さる――
「あんた一体、何なのさ」
魔性は小柄を手放し、大地に落とした。一糸まとわぬ裸身が月光に映えた。妖しく艶めかしい肢体だが、尻の辺りから生えた長い尾が七郎の魂を震わせる。
女の姿をしていても、これは正しく魔性であった。ましてや七郎が投げつけた小柄を余裕で掴み取るなど、身体能力は常人をはるかに越えている。
七郎は全身に冷や汗を流していた。昨夜、彼の降魔の一刀は魔性の尾を斬り落としている。
だが、それは魔性の心を乱せたからこその、会心の一刀ではなかったか。
面と向かって手合わせすれば、七郎が及ばぬ化物なのではないか。
「真っ黒な魂をしているよ。あんたほどの悪人は見た事ない」
魔性の言葉は七郎の心胆を寒からしめた。七郎は人を殺めている。彼は幕府隠密として全国を廻っていた。
大納言忠長の治める駿河に侵入し死線をかい潜り――
とある小藩の隠し銀山を探る隠密行では危うく死にかけた。
生と死が隣り合わせの生活、あるいは狂った世界を生きてきた七郎。
なのに狂わず生きているとは、七郎こそが悪人であるからなのか。
意図せず放たれた魔性の言葉に、七郎の魂は黒々と渦を巻いた。般若面の奥で七郎の顔から表情が消えていく。
だが魔性は七郎の変化には気づかぬ。舌なめずりして七郎という獲物を狙わんとする。
「よせ」
七郎は般若面の奥から低く暗くつぶやいた。
「今夜の俺は一味違うぞ」
七郎の魂から恐れも迷いも消えた。
師事する沢庵の陽気な笑いも、月ノ輪の可愛らしい笑顔もまた心から消えた。
黒々とした殺気が七郎の魂で渦を巻く。今の彼は一個の魔性だ。




