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「それは」
七郎は言葉に詰まる。月ノ輪の心が見えない。修行が足りぬと自責しつつ言葉を紡ぐ。
「できるでありましょう。小生が、そうでありますゆえ」
「ならば私にも兵法を教えてくれ。御書院番でも腕が立つのだろう?」
「小生は見ての通りの隻眼、剣には習熟しませんでしたが」
そう言って、七郎は過去の事を話した。
幼い日に父との兵法修行で右目を潰した事。
その後しばらくは悲しみに支配されて、兵法から離れていた事。
そこで小野次郎右衛門忠明の教えを受けた事……
「剣を用いようと槍を用いようと、ただ一刀にて敵を仕留めるゆえに一刀流というのだと」
「ほほう」
「その一言に小生は光明を見い出しました」
七郎が師事した小野次郎右衛門忠明は、戦国の剣聖と呼ばれた伊藤一刀斎景久から直々に剣を学んでいる。
柳生又右衛門宗矩と並び、将軍家剣術指南役でもある。
そんな人物からたった一言とはいえ教えを受けるとは、七郎は只者ではないのかもしれない。
「あるいは兵法を学べば、自分の前途を切り拓けるかもしれませぬ。小生の場合は右目を失う代償と引き換えでしたが。少々話がそれました」
「かなりそれたと思うが…… 何かを得るという事は何かを失うという事と同じか」
月ノ輪はうつむいた。まだ十になるかならぬかの少女だが、どこか達観していた。それだけの生き方を経てきているのだ。
「左様でございます。小生は右目を失ったがゆえに兵法の道に深く踏みこむ事ができました」
七郎は自分を歩だと思っている。将棋の駒に例えての事だ。
歩は最も弱い駒だ。七郎は自分を弱いと思っている。幕府の捨て石くらいに見ている。
だが彼は右目を失う代償と共に兵法の道に深く踏みこんだ。敵陣深く斬りこんだ歩がと金に成るように、彼もまた並の使い手ではない。七郎より強い者も少なくないが――
「月ノ輪様、兵法指導は明日にしましょう」
「うむ、では今日はよく食べて早く眠るとしよう」
「その意気です」
七郎は微笑した。月ノ輪の心の曇り、少しずつ晴れてきたように思われた。
輝く笑顔に魔物は寄らぬ――
七郎は陰陽師の友景から真理を教えられた。友景は七郎の大叔母の子だ。
内裏に魔物が現れるのは、何者かの思いに引き寄せられての事だ。
夜となった。
広い内裏も闇と静寂に満ちていた。
その闇の中を歩き回る者がある。それは黒装束に身を包み、顔を般若面で隠した七郎だ。
彼は夜目が利くのか、月光の淡い光のみで内裏の庭を歩き回っていた。
ふと足を止め、七郎は夜空を見上げた。般若面の奥で七郎は隻眼を細めた。
この夜の闇に、七郎は何かを感じ取ったのだ。同時に天地宇宙の気と七郎の魂は調和した。
右目を失った事で、七郎の他の感覚は研ぎ澄まされている。あるいは魂までもが常人より一段高みに在るかもしれぬ。
月ノ輪は何かを得るという事は何かを失う事だと言った。
その理は真実だ。
「ふう……」
七郎の魂に蘇る記憶は、自身の放った最高の一手である。
その充実が己を救う。
七郎にはいつでも死ねる覚悟がある。
「いや、そうはいかんな」
七郎は明日、月ノ輪に兵法指導をすると約束した。ならば今夜、死ぬわけにはいかぬ。
だが七郎にとって明日は遠いのだ。
遠いのだ!
そして内裏に冷たい風が吹き始めた。




