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「ひいいいい……!」
魔物は尾を斬られて、悲鳴を上げて逃げ出した。内裏の建物の壁に両手両足で貼りつき、苦もなく登っていく。その様は正しくイモリだ。
「待て!」
般若面も駆け出し、闇の中に姿が消えた。
一人残されたかすみは夜の中に呆然と立ち尽くさた。
般若面の手にしていた刀の閃きが脳裏に焼きついて離れない。
月光を浴びて淡く輝く刃は、魔を降伏する降魔の利剣のごとしだった。
翌朝、かすみは月ノ輪に対面した。
「魔物を逃してしまいました」
かすみは月ノ輪の前に平伏し、額を畳にこすりつけた。
「まあ気にするでない」
月ノ輪はそう言った。
「それよりかすみ、共に朝食にしよう」
「は?」
かすみは間抜けな返答をした。
あれよ、あれよという間に女官たちが食事の準備を整える。部屋には沢庵と七郎までもが招かれた。
七郎は昨夜、般若の面をつけて魔物と対峙したはずだが、今の落ち着いた様子を見ていると昨夜の事が夢のようにも思われてくる。
「いただきまーす!」
月ノ輪は明るい笑顔だった。かすみが見た事もないほどに。
毒見役も通さぬ朝食を月ノ輪は普段とは違う食欲旺盛な様子で平らげていく。
「七郎は箸の使い方が下手じゃな、こうじゃ、こう」
「ははっ、小生は不器用なので」
月ノ輪と七郎は早くも打ち解けている。理由は単純だ。月ノ輪は七郎に父を重ねているのだ。
「仲良き事は良き事じゃ」
沢庵もまた月ノ輪と七郎を微笑ましく見つめている。沢庵にとっては息子と孫娘を眺めるようなものか。その優しい眼差しには慈愛がこもっている。
かすみはといえば、日常の変化に戸惑うばかりだ。沢庵と七郎がやってきてから月ノ輪と周囲の人間が変わってしまった。
内裏の外で、ましてや世の中と戦い続けてきた七郎と沢庵の魂に触れた者達が変わったのだ。
それは積雪が陽光によって溶かされていくのに似た。春は間近でもある。
――ホー、ホケキョ
朝食後、月ノ輪の居室に近い庭で、うぐいすが鳴いていた。昨年にも来たのだろうが、月ノ輪は初めて目の当たりにしたような心地がした。
「春の訪れか……」
「自然というものは美しいものでありますよ」
月ノ輪の傍らで正座した七郎が言う。
彼は隻眼の無頼者のようでありながら修験者のごとき厳粛さを漂わせ、内裏の女官をジロジロ眺める俗物のようでもある。およそ一言で説明できぬ人物であった。
「月ノ輪様の御心、晴れる時も訪れる事でしょう」
「そうじゃな七郎…… お主、弱そうなくせに馬鹿ではないな」
「それはどういう意味でございましょうかあ!」
七郎の平静は月ノ輪の一言で崩れた。案外、月ノ輪が兵法を志せば並々ならぬ域へ到達するかもしれない。
さて、かすみは珍しく昼寝していた。寝ずの番を一月ほども続けていたのだ。まとまった眠りに就く事もなく、仮眠を取ってばかりの生活で、精神は苛立っていた。
今ようやく、かすみの精神は安らぎを得ていた。しかし、夢の中にも昨夜目撃した魔性が出てくる。
(あのおぞましい姿は……)
人間とヤモリが融合したかのような姿に、かすみは心底怯えた。人外の化生と初めて遭遇したのだ。あの魔物が一月あまりも夜な夜な内裏に現れて、人々を騒がしていたのか。
(月ノ輪様を守らなければ!)
かすみの決意は鋼より固い。
だが、魔性を前にすれば怯えを制する事ができない。
あの男ならばできるのだろうか。沢庵と共にやってきた隻眼の七郎ならば。
夕刻、内裏も夕餉の準備であった。
内裏のあちこちから薄い煙が立ち昇る。
そんな中、七郎は庭に一人出ていた。
「――ふ!」
七郎は庭木の一つに古着を着せて、それに向かって無心に技をしかけていた。
父から学んだ組討の術であり、先師から伝えられた魂の技だ。
その技の型は、後世の柔道に似る。
打つ、蹴る、当たる、組む、崩す、投げる、極める(関節技)、絞める……
それらが一つに統合された技術こそが、先師の上泉信綱から伝えられた「無刀取り」だ。その妙技に感服した御神君家康公は柳生又右衛門宗矩を剣術指南役として迎えたという。
「私にもその技を教えてくれ」
月ノ輪は七郎に声をかけた。興味津々で兵法修行をしばらく眺めていた。
「今日はもう遅いゆえ、明日にしましょう」
七郎は汗に濡れた顔で月ノ輪に振り返った。隻眼の異相に浮かぶのは、謙虚で無欲な精神だ。
「私も強くなりたいな」
「強くなってどうします」
「……生活を、いや運命というものを変えてみたい」




