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※新章です。
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月ノ輪は重苦しい毎日が続くと思っていた。
だがそれは、たった一人の男によって破られた。
「この男、こう見えても御書院番で特に腕の立つ者でありますよ」
沢庵禅師はニヤニヤしながら月の輪に告げた。ニヤニヤしていても、いやらしい感じがしない。沢庵の心中には真実の仏性があった。
また御書院番とは徳川将軍のお側つきの親衛隊だ。
「禅師、お戯れを」
沢庵の隣に座した男は苦笑した。歳の頃は二十代後半か。
紐を通した刀の鍔で右目を隠している。兵法修行で右目を失い、無惨な傷痕が今も残る。見苦しいゆえに隠しているとの事だ。
「ほお……」
月ノ輪は隻眼の男を珍しそうに眺めた。彼女の父や側近とは違う何かを秘めていた。
兵法を学んでいる者がいないわけではないが、この男は何かが違っていた。
この男は人を殺めた事があるのだ。それを知ったのは後日の事だ。
「強そうに見えぬがなあ」
「ははは、これは手厳しい」
「月ノ輪様、まあまあ」
「そうですな、世には自分より優れた者が掃いて捨てるほどありましょう」
「沢庵殿、この男は何者だ?」
「小生はやぎゅ、いやいや。七郎と申します」
隻眼の七郎、深々と頭を下げた。
父が公務を辞してから早数年。
月ノ輪の生活はしごく退屈で寂しいものだった。
父は表向きでは隠居に等しいが、その実、政から無縁ではなかった。
月ノ輪の知らぬところで何やら密議を重ねているように見受けられた。
父が何をしようとしているのか、月ノ輪にはそれがわからぬ。
だが幕府の恐ろしさだけは理解できる。
「将軍様は弟御に切腹を申しつけられました」
沢庵は月ノ輪に世間を教えた。それもまた沢庵が宮中に滞在するための理由であった。
「な、な、なんと」
月ノ輪は蒼白になった。兄が弟に切腹を申しつけるとはただ事ではない。そこまでしなければならぬ理由があるのか。それとも血を分けた兄弟でありながら深く憎みあっていたのか。
「それは悲しいではないか……」
月ノ輪は目を伏せた。彼女は父と母の仲が悪い事を知っている。父の自分を見る目の中に、父としての愛と、邪魔者を見るような蔑みが混じる事を知っている。
自分だけが、などとは思わぬ。だが、どうして人の世に争い諍いは絶えぬのか。
三代将軍家光と大納言忠長、二人で天下を二分して治めれば、丸くおさまるのではないか。
「まあ、そういうわけにもいかぬのですよ」
沢庵の代わりに七郎が口を開いた。
彼は沢庵の隣に控え、黙って座して二人の会話を聞いていたのだ。
「兄弟なればこそ相容れぬ問題もあるのですよ」
「よう言うわ、痴れ者が。お主に何がわかる」
月ノ輪は声を荒らげた。自分でも驚くほどだった。なぜか七郎には手厳しく当たってしまう。
それは彼女が七郎の優しさに甘えているからだ。
「わかりますとも」
七郎は短く語った。
自身は嫡子ながら、隻眼ゆえに先師から伝わる剣を身につけられなかった事。
将軍家光に目をつけられ、御書院番ながら遠ざけられている事。
「それは単に七郎の不幸話ではないのか」
「まあ、そうかもしれませぬ。しかし心中に憂いあればこそ他者の憂いもわかるというものです」
「ふうん、そういうものか」
月ノ輪と七郎、二人は気負いなく話している。暗く塞ぎがちだった月ノ輪の心は、七郎によって迷いを離れつつあるのだ。
「ふっふっふっ、さすがは我が弟子」
沢庵は二人の様子を眺めて満足した。沢庵は僅かな期間ながら七郎に厳しい指導を施した。
およそ仏縁のないと思われた七郎が今、月ノ輪という少女の心を明るい道へと導きつつある。
修羅は闘争を好む悪鬼だが、時に仏敵を降伏する。それゆえに仏法の守護者であるのだ。
七郎を見ていると沢庵にはそれがわかる。七郎もまた一個の修羅だが、彼は仏法の説く人道の守護者であるかもしれない。