男の意地
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七郎は長屋を出て張孔堂へ向かった。
張孔堂の講義はしばらく休むという事だったが七郎はかまわない。
(正雪に会わねばならぬ、やつに憑いた魔物を払わねばならぬ)
七郎はそう思う。正雪が乱心しつつあるのは魔物に憑かれたからだと。
かつては家光も忠長もそうだった。心の曇りを晴らせぬままに苦悩を積み上げて狂ったのだ。
その狂気を打ち払ったのが、七郎の無刀取りだった。奇妙な運命に導かれ、七郎は知らず知らずのうちに天下の動乱を防いできた。
彼こそが仏法天道の守護者であるかもしれない。闘争に生きる修羅達も、時に仏敵を降伏するからこそ仏法の守護者なのだ。
もっとも七郎にそんな自覚はない。自負もない。自信もないが死ぬ覚悟だけはある。
彼は必殺の一手を狙う永遠の挑戦者だ――
「たのもう!」
閉められた張孔堂の門前で七郎は声を張り上げた。いささか気負いすぎだ。
いや死に急いでいるのかもしれぬ。彼は他者の命を重んじるが自身の命を軽んじる。
「お、お前か」
通用口から顔を見せたのは、意外にも丸橋であった。彼は刃に鞘を被せた真槍を手にしていた。
「まあ入れ」
丸橋は言った。真槍を手にしているのも異様だが、七郎を歓迎するような態度も異様だった。
「お前につきあってもらおう」
丸橋の言葉に七郎は嫌な予感がした。
「……さて、こちらの丸橋忠弥、そして七郎は張孔堂門下でも屈指の遣い手」
正雪は道場に居並ぶ武士達に説明した。道場の壁際には、兵法見学という名目で張孔堂を訪れた武士らが正座して横一直線に並んでいる。
(何がどうした、なぜこうなった)
七郎は道場の中央で丸橋と対峙していた。丸橋は真槍の鞘を外している。槍の穂先の刃が鈍く輝いていた。
「……丸橋忠弥はご存知の通り江戸に知られた槍の達人。更にこちらの七郎なる者は組討の名人であります」
正雪はいささか緊張した面持ちである。芝居がかった話し方だ。居並ぶ武士らは組討と聞いて鼻で笑っていた。その態度に七郎は苛立った。
この時代、組討術は廃れていた。いや槍術もまた廃れていた。
世の中は天下泰平の気風を漂わせ武士ですら兵法を学ばなくなっていた。
戦場の主力は槍だが、それを稽古する場がない。組討もまた怪我をしやすいので武士の間で流行らない。
せいぜい剣術刀術だ。平和な世の中では武士も兵法などしない。算術が生活の基本となり基礎となる。算術のできぬ武士に城勤めはできなくなっている。
今、張孔堂に集った武士達もそのような者達だった。藩内で身分の高い彼らが、藩主の密命を帯びて張孔堂を訪れている。
裏に隠されたのは幕府転覆の野望だ。正雪は彼らの昏い野望の神輿にされかけている……
丸橋はそれが許せない。
七郎もそれは許せない。
正雪は人が良すぎる。それゆえに踏みにじられようとしている。
そんな事があっていい訳がない。
「……皆様には張孔堂の誇る二人の技を存分に」
「やるか」
丸橋は正雪を遮り、七郎に呼びかけた。
目が真剣だった。
「やろう」
七郎は頷いた。彼はいつの間にか左手に短い木刀を握っていた。
「お、おい」
正雪は目を丸くしていた。
右腕と頼む丸橋、弟のように思う七郎。
その二人の気配はどうだ。まるで真剣勝負の様相だ。
張孔堂の武威を示さんと丸橋に槍の演舞を頼んだが、まさかそこに七郎がやってくるとは。
この不思議な偶然は、武徳の祖神の導きにしか思えない。
「はあー!」
七郎、烈火の気合で踏みこんだ。
「おあー!」
丸橋は野獣じみた気合を発した。道場内が震えるような気合に、居並ぶ武士の面々が血の気を失った。
ガアン!と真槍と木刀の打ち合う音が道場の外にまで響いた。