決意表明
矢のように飛び出した七郎の顔へ、國松の突き出した掌が当たる。
うめいて動揺した七郎の右腕に、國松は素早く抱きついた。同時に國松の右足の爪先が、七郎の右踵を払う。
後方へ体勢を崩した七郎だが、こらえた。
と見えた瞬間には、國松は体を回して七郎を背負って投げている。
ダアン、と七郎は道場の床に背中から落ちた。
見る者の目を奪う、國松の鮮やかな一本背負投だ。
もっとも初手は抱きつき小内と呼ばれる後世の柔道の技で、即座に反則負けになる。
ましてや顔に掌を当てるのは――
「浅い」
國松は七郎を見下ろして無慈悲に告げた。だが、それが七郎には良い薬だ。己の傲慢を打ち砕く降魔の鉄槌だ。
「かたじけない……」
七郎は床に倒れたまま言った。あまりにも見事な國松の兵法――
無刀取りの妙技だった。無刀取りとは一つの技を指した名称ではない。戦場での組討術の事だ。先師の上泉信綱から伝えられた無刀取りの妙技は、ただ一つの技にこだわるほど浅くはない。
何にせよ七郎の心の霧は晴れた。
「死に急ぐな」
國松は幾分、哀れみをこめた調子で言った。
「お前は何のために命を懸けるのだ」
そう言って國松は道場から去った。染物屋の大旦那である國松は忙しい。七郎のために時間を作ってくれただけでもありがたいのだ。
残された七郎は床に大の字になったまま頭を冷やしていた。
正雪の周囲には人が集まっている。張孔堂には大名が接触している。
だが倒幕の意志があったとして、誰が首領となるのか。大名の間には石高による格差もある。石高の高い大名ほど、江戸の屋敷の門に威厳を漂わせている。
七郎は今、一つの真理をつかんだ。無数の大名があるが、それらが一つにまとまらねば、倒幕など起こり得ぬのだと。
幕府という組織に属しながら、その外に生きる七郎には理解し難いが、大名にも面子がある。
幕府に不平不満があろうと、強大な統率者なくして倒幕などない。
今はまだ安全かもしれぬ。だが徐々に大名達も肚が座ってくるだろう。
その時が江戸最大の危機だ。災禍の中心にいるのは正雪か。
「させん!」
七郎は叫んで起き上がった。心の炎は燃えている。江戸の危機を未然に防ぐ、その覚悟はできている。
命も己の存在も全てを捨てて挑む。
江戸を守る。
それが七郎の覚悟だ。
正雪は張孔堂の自室で腕組みして考えこむ。
彼は全国各地の大名の名代として張孔堂を訪れた武士から、世間を知った。
江戸にいるだけではわからぬ事が、正雪には理解できるようになった。
いや理解できたのは錯覚かもしれない。正雪が体験した事ではないからだ。だが世間の現実が正雪の心に影を落とす。
(やはり、やらねばならぬのか)
正雪は苦々しく下唇を噛んだ。