正体
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「般若面とは何者だ?」
それが張孔堂門下での話題だった。
先日、張孔堂はあわや放火されるところだったが、それを事前に防いだのが般若面だった。
黒い般若の面で顔を隠し、黒装束で江戸の夜に現れる般若面。
裏世界の噂では、まず般若面は駿河に現れたという。駿河大納言忠長の治める地には倒幕の意志を秘めた大名が密かに集まっていた。
彼らは大納言忠長を神輿に担ぎ、全国の大名にも呼びかけ、天皇をも動かして倒幕を企んでいた。
その企みは敗れた。大納言忠長が倒幕をあきらめたのだ。忠長が倒幕をあきらめたのは、般若面によって成敗されて、改心したからとも囁かれている。
「正しく天下の義士だな」
正雪は口元に笑みを浮かべた。
最近は笑わなくなった正雪には珍しい事だ。
「無刀取りという組討の術を使うそうだな、ふっふっふ」
側にいる丸橋は愉快そうに笑っていた。彼は般若面の正体が誰なのか、勝手な推測をしていた。
「十中八九、あやつであろう」
「さあな、それはわからぬ」
丸橋と正雪は楽しげだ。
隻眼の七郎は長屋に住んでいる。
本来ならば武士の嫡男である七郎は弟に家督を譲り、自身は長屋で質素な生活を送っていた。
(無駄なものは何一つない……)
四畳半の自室で正座し、瞑想する七郎。彼の魂は迷いを遠く離れ、天地宇宙と調和していた。
江戸を守る明日をも知れぬ日々の中で、七郎は常に死を覚悟していた。
求めるのは満足な死だ。
だからこそ日々が輝くのだ。
「さてと」
七郎は立ち上がった。彼は今日は國松に稽古を申しこんでいた。九段の染物屋、風磨の主人である國松もまた江戸を守る戦友だった。
「お、おおお……」
七郎、思わず畳に尻もちついた。長時間の正座で足が痺れていた。今ひとつ締まらない男である。
七郎は江戸城内の道場へ来た。すでに稽古袴に着替えていた。
「来たか」
道場ではすでに稽古袴の國松が待っていた。
「國松様かたじけない」
七郎は國松に頭を下げた。
「それはよい」
國松は静かに言った。体から殺気がほとばしっている。
「張孔堂を救ったそうだな」
「成り行きです」
「大火を未然に防いだという事で大目に見よう…… だが七郎よ、なぜに張孔堂に肩入れする?」
國松はじっと七郎を見つめた。背筋の震える迫力があった。
町の顔役として知られる國松。彼を前にすれば町民も浪人も、ましてや武士ですら怯む。その迫力は戦国の魔王、織田信長に似るという。
それも当然だ、信長は國松の祖母の兄である。血は繋がっている。その容貌ゆえに祖父である家康から疎まれたのだ。
國松の正体は大納言忠長だ。数年前に切腹して果てたと世に伝えられている。
だが忠長は生かされた。
柳生又右衛門宗矩と小野次郎右衛門忠明の両者から兵法を伝授された忠長は、七郎以上の実力者だ。
忠長は自身の狂気と罪を償うために、國松と名を変えた。國松は幼名でもある。生まれ変わった國松は江戸を守るために命を捨てている。
「さて、小生にもわかりませぬ」
七郎は苦笑した。彼が正雪を守るのは兄のように慕うからか、それは七郎本人にも今ひとつわからない。
「ほう」
國松の表情は変わらない。しかし彼は七郎には甘いかもしれない。
かつて狂気に走った國松を無刀取りで制し、正気を取り戻させ、更に倒幕の野望を捨てさせたのは七郎だ。
また、七郎とは世を欺く仮の名だ。
七郎の真の名は柳生三厳、通称は十兵衛。七郎とは幼名である。
将軍家剣術指南役にして幕府大目付の柳生又右衛門宗矩の嫡男だ。
後世に詳しい事跡は伝わっていないが逸話の類は多く、著名な剣豪として名を残している。
その柳生三厳が七郎の正体だった。
「何をするつもりだ七郎?」
「小生は頭が悪い、この上は戦って死ぬ事を幕府への忠義と心得ております」
「ほほう」
「その前に國松様に我が無刀取りを披露し、及ばぬならば我が身を恥じて死ぬしかありませぬ」
「能書きはよい、かかってまいれ。いい汗をかきたいのだろうが、余は手加減せぬぞ」
國松は口元に笑みを浮かべた。
「我が全身全霊!」
七郎、素早く踏みこんだ。




