息抜き
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夜の中で七郎は打ちこみを続ける。
屋敷の庭木に稽古袴を着せ、それに向かって技をしかける。
無心に、ひたすらに。
すでに死を覚悟した身だ。
あとは死に花を咲かすだけだ。
江戸を守って死ぬだけなのだ。
(いい笑顔でいろよ!)
七郎は心中に子ども達の笑顔を思い浮かべながら、庭木に技をしかけた。
体を沈めながら回転し、左手で対手の右袖を引く。
後世の柔道における背負投だ。
柔よく剛を制す、その体現。
稽古袴の袖が千切れ、勢い余って七郎は大地に倒れこんだ。
「ふう…… まだまだだな……」
立ち上がり、夜空を見上げる七郎。月が美しい。
最高の一瞬は、永遠の感動だ。
七郎はおりんと共にうどん屋に来ていた。
江戸城御庭番の一人、源が経営するうどん屋だ。武家屋敷の建ち並ぶ一角に立つうどん屋は繁盛しているようだ。
「ここ来てみたかったの〜」
と、おりんは上機嫌だ。源のうどん屋は、うどんの具材が豊富だ。
ちくわにかまぼこ、油揚げ。
更には海老を始めとした海産物や、野菜の天ぷらもある。
客はうどんを買い、そこに好きな具材を盛って、自分だけの特製うどんを味わうのだ。
具材など盛らずに、山盛りに刻みネギを乗せるだけの客もいるが百人百様だ。
何にせよ、源のうどん屋は繁盛していた。一日ニ食の時代だが、肉体労働者は腹が減る。ましてや今は江戸中で人手が求められていた。
腹を空かせた男性客に混じって、おりんのように興味津々に瞳を輝かせた女性客も店を訪れて、明るい活気に満ちていた。
「そうか」
七郎も顔が緩んだ。おりんの笑顔に癒やされた。おまつの茶屋の看板娘おりんは、その明るい笑顔が魅力なのだ。
「いらっしゃ〜い……」
店主の源が七郎の側にやってきた。店内の作業は雇い入れた女達の仕事だから、源が持ち場を離れてもほとんど影響はないが、それでも珍しい事だ。
「よ、よお」
七郎は冷や汗をかきながら源に挨拶した。
「女連れですかあい?」
源は凄んで七郎の耳元で囁いた。身長六尺を越える源は、異様な迫力をまとっていた。それは戦友である七郎が店に女連れでやってきたからだ。
「あ、いや、すまん……」
七郎、源から目をそむけて言った。
江戸は女が少ない。地方から働き口を求めて男ばかり集まってくる。男女の比率は七対三ほど、男二人に対して女は一人だ。
七郎も源も政も三十を過ぎて一人身だ。
「いい身分ですなあ~」
政もいつの間にか七郎の側に来ていた。小柄な彼は以前は浪人に仕事を斡旋する商人だった。
今は御庭番随一の身軽さを活かして、鳶職のような事をしている。
急設された武家屋敷も多く、屋根の修繕工事も多い。政はあちこちの武家屋敷に出入りしながら、大名の様子を観察していた。
「な、なんだ」
「俺達に対するあてつけですかい?」
「若は俺達を敵に回した!」
源と政の殺気が恐い。いや、それは渦巻く嫉妬の念だろうか。何にせよ七郎は引きつった笑みを浮かべる。
「おいしいね〜」
しかし、七郎の隣に座るおりんの笑顔が、源と政の鬼夜叉に似た心を晴らす。今日はおりんもおまつから借りた簪や着物で美しく着飾っていた。
「お、かわいい娘さんじゃねえか」
「えー、な、何を言うのかな〜?」
「こいつは何? 娘さんの何?」
「し、知り合いかな〜?」
おりんはそう言ってごまかした。今は七郎よりうどんだ。花より団子の精神だ。
「ち、仕方ねえ」
「かわいい娘さんに免じて、今日のところは見逃してやるぜ」
源は店の奥に戻り、政は七郎から離れた席についてうどんを食べ始めた。二人に詰問される間、七郎は生きた心地もしなかった。
「知ってる人?」
おりんは海老の天ぷらを食べながら七郎に質問した。食べ方に愛嬌があって、七郎は新たな発見をした。
「あ、ああ」
七郎は苦笑して頷いた。目の前のうどんに向かう気力もない。男の情念、岩をも通す。それを思い知らされた七郎だった。
「ふうん」
おりんはうどんに向かった。その様子を七郎は横目で眺めた。おりんも七郎を横目で眺めた。互いに心が通じ合っているような心地がした。
その日の夕刻、七郎はおりんを茶屋へ送ると、再び源のうどん屋へ戻ってきた。
「全く、若はふてえ野郎だ!」
「あの娘さんに免じて、飯をおごってくれれば許してやりやしょう」
源と政が息巻いた。
今日は七郎、源、政による近況報告を兼ねた酒宴だ。
すでに夕刻で、うどん屋は店じまいだ。格子窓から夕陽が差しこんでいる。気の早い者なら夕食を済ませて早々と寝てしまうだろう。
「わかった、わかった……」
七郎は胸を撫で下ろした。それぐらいで済んで良かったと思う。共に江戸を守る戦友だ、仲違いで同士討ちなど恐ろしい事だ。
「武士達も大人しくなったかな」
「いやいや、ちょっとした諍いはあるみてえだぜ」
政によれば、江戸住まいの大名同士で諍いは絶えぬらしい。
大名の格式やら、態度が悪いやら。武家の世界は男性社会、縦社会だ。立ち場の弱い者は上から潰されてしまう。
七郎らはその社会の理から離れているが、だからこそ命懸けの日々だ。心の自由は死と隣り合わせだ。
「で、どうだ? やはり……」
「張孔堂とつきあってる大名は多いですぜ」
政の言葉に七郎は顔を曇らせた。