陽と月
(どうしてこうなった?)
七郎は考えた。
彼は江戸で評判の軍学塾、張孔堂に入塾を申し出た。
塾長である由比正雪の門下は、以前は子ども達ばかりだったらしいが、今では武士階級の者ばかりだ。
参勤交代で江戸には全国から大名がやってきていた。
その大名に仕える名人達人が張孔堂に多く集まっていた。
今や張孔堂には子どもの明るい声はない。水滸伝の梁山泊のような雰囲気だ。
そして入塾するには試験が設けられた。今や張孔堂は門下千人を越える。不逞の輩を追い出すための試験なのか。
「さあ、やるか」
道場の中で丸橋忠弥が七郎の前に進み出た。槍の遣い手として江戸に知られた丸橋忠弥だ。
身長は六尺を越える。五尺五寸ほどの七郎とは頭半分ほど違う。体重も五貫以上は重いだろう。
威圧感あふれる丸橋忠弥。道場には他の門弟がズラリと正座して並んでおり、主審を務めるのは由比正雪だ。
隻眼の七郎は疑われていたのだ。殺人も厭わぬ浪人なのではないかと。
だから入塾試験が丸橋忠弥による組討稽古になったのではないか。
「はじめ」
由比正雪の静かだが刺すような一声と共に、稽古という名の手合わせが開始された。
七郎は矢のように飛び出した。
「ぬ」
丸橋忠弥が小さくうめいた。
七郎は丸橋忠弥と組みついた。
右手で丸橋の襟元を、左手で右袖を握った次の瞬間、七郎は体を独楽のように回して彼を背負っていた。
ダアン、と丸橋は背中から道場の床に落ちた。七郎は左手で丸橋の右袖を引いている。衝撃は大きく殺され、投げられた丸橋は呆然としていた。
これは後世の柔道における背負投だ。
柔よく剛を制す、その体現であった。
「それまで」
由比正雪は告げた。七郎と丸橋、二人の対決は僅か数秒であった。
捨身必滅、一打必倒。
七郎はその難事を成し遂げた。
「なかなかの腕だ…… 名前は?」
「七郎」
由比正雪と七郎は顔を見合わせ、笑った。
それは生涯の友を得た笑みだった。
「今の江戸をどう思う?」
由比正雪は七郎に質問した。
威圧するでもなく、腹を探るわけでもない。
静かな湖面のような眼差しで、正雪は七郎を見つめている。
「――修羅の巷」
七郎も静かに答えた。
生き死にの修羅場を経て到達した七郎の境地を、正雪はどう思ったか。
「ほほう」
「本来ならば修羅は悪鬼だ、だが時に仏敵を降伏する。それゆえに修羅は仏法天道の守護者になりえる」
それは七郎の人生から悟った真実だろう。七郎は幕府隠密として全国を廻った。
大納言忠長の治める駿河、京の内裏、海を越えた薩摩、そして島原の地。
その旅の途中で七郎は人を殺めた事もある。だが今は江戸城御庭番と共に江戸の治安を守る任に就いていた。
その七郎が言うのだ。間違いはあるまい。
「いや、少々話がそれたな。とにかく今の江戸は悪鬼うごめく修羅の巷だ」
「悪鬼とは浪人の事か」
「まあ、そうだな」
「だが七郎よ、浪人もやむなく悪事を働く事もあるのだ。金もなく食もなければ人は死ぬ」
「ではどうすればよいのだ」
七郎は反発をこらえる。七郎は浪人が悪事を働くのを目の当たりにした。商家に押しこみ金品を奪い、女子どもまで皆殺しにした真実を知っている。
七郎が仲間と共に命を懸けて戦うからこそ救われた命もあるのだ。
「私は浪人を救済したいのだ」
「救済……とは?」
「今の幕府は浪人に何も施さぬ」
正雪の言葉が七郎の心に突き刺さる。七郎の立場は幕閣側だ。貧乏長屋に住まうなど生活水準は低く、およそ武士らしくはない。
浪人の気持ちがわからぬではないのだが。
「それでは江戸で血の流れぬ日はないだろう…… 幕府が浪人を救済せずに誰が救うのだ」
正雪の目は遠くを見ていた。
七郎と正雪の二人は江戸城から近い茶屋の店先にいた。
七郎の馴染みの茶屋だ。店主おまつと看板娘おりんの二人が切り盛りする茶屋だ。
その店先の床几に腰かけ、七郎は正雪と共にはるかな青空を見ていた。
二人が見ていたのは青空の先にある理想だった。
(似ている)
七郎は隣に座る正雪を見つめた。由比正雪は島原で出会った天草四郎に似ていた。
その心、すでに空なり。
正雪も四郎も心に邪な部分がない。
二人の心境は、七郎の目指す捨心の境地に到っていた。
邪心いかでか円満鏡裡の光明を放たん……
後世に伝わる柳生三厳の著書「月之抄」には、そのように記されていた。
一切の我を断ったところに正雪の心がある。
「どのように浪人を救うのだ、全国に何万人の浪人がいると思う」
「人々が力を合わせれば、できなくはなかろう。江戸には大名が集まっているのだから」
「いや、しかしだな」
七郎は幕府に与する者であり、多少は事実を知っている。
三代将軍家光によって全国の大名が次々と改易された。家光の弟、大納言忠長さえ改易され、遂には切腹を命じられた。
この処置が全国の大名を震え上がらせた。弟すら殺すとは。それが三代将軍家光であり、徳川幕府というものだと全国の大名に知らしめた。
以来、誰も幕府に逆らわない。ただ粛々と、改易の命あらば従うだけ。
理由も様々だ。嫡子なく、お取り潰しという正当な理由での改易は、むしろ少なかったかもしれない。
言いがかりのような理由で改易になった大名もいるだろう。かつては御神君家康公が豊臣方に言いがかりをつけ、開戦に到らせたように。
「金のない大名の方が多いぞ」
「なぜわかる?」
「いや、それはほら参勤交代で江戸に来るまでに金を使うんだから」
七郎、いつの間にか口調が素になっていた。組討術に長けた隻眼の風来坊たる七郎だが、その実はお人好しだ。修羅の巷を命懸けで過ごす内に、彼も邪心を捨ててきたのだ。
まだまだ色欲という煩悩、邪心が残ってはいるが、こればかりは容易に断てまい。男だからこそ命を捨てる覚悟ができるのだ。
「江戸に来る前に旅して、旅籠に泊まって、あちこちで金を使うんだ。金のある大名など、なかなかおらんよ」
「ずいぶん詳しいな、七郎は城勤めをしていたのか?」
「そういうわけではないが」
七郎、正雪から目をそらした。喋り過ぎたか、と内心で焦る。
正雪が丸橋に手合わせさせたのは意味があった。静かだが厳かな気配を漂わせた七郎を見て、
――人を殺めた事があるな。
と、正雪は感じていた。七郎の落ち着きぶりは、死線を幾度もくぐり抜けた者だけが持つ気配だ。
だからこそ丸橋を当たらせた。丸橋も七郎を怪しいとにらんでいた。
軽く蹴散らせると思っていた丸橋が、不得手とはいえ組討であっさり敗れた事に正雪は驚愕した。
そして珍しく興奮した。正雪の男の魂に火が点いた。
「あの技は何かね」
「まあ、ただの組討術だ」
七郎はさらりと答えた。それ以上は言わない。
「あれが最高の心技体だ、あれ以上はない。あまり期待しないでくれ」
「私は驚いたぞ、まさか丸橋が一瞬で倒されるとは。私の知る兵法とは違うようだが」
「いやいや、かんべんしてくれ」
「次は丸橋と槍で、いや棒で勝負してくれんか」
七郎と丸橋が話しこむところへ、おまつが茶と団子を運んできた。
「どうぞ」
おまつの言い方は静かだ。七郎に対する態度とは違う。あるいはこれが素顔のおまつなのだろうか。
ふと気になって七郎が振り返れば、おりんは店の奥からこちらを見つめていた。
七郎を見ているのではなかった。おりんは正雪を見つめていた。
輝くような瞳で、頬を薄く朱に染めて正雪を見つめるおりんは、まるで恋する乙女ではないか。
「……うわあああ!」
七郎は叫んで往来に飛び出した。
嫉妬だ、嫉妬の念に駆られて七郎は飛び出したのだ。
「ぐはっ!」
七郎は大八車に激突してふっ飛ばされた。江戸時代、大八車にはねられて死亡した者もいるという。
「お、おい、あんた大丈夫か!」
「も、問題ない!」
七郎は素早く立ち上がって、再び駆け出そうとした。
その時、通りを歩いてきた花売りの娘にぶつかりそうになった。
「きゃあ!」
「す、すまぬ!」
花売りの娘と、頭から血を流した七郎の目が合った。
「は、花はいかがですか?」
「うむ、いただこう」
七郎は代金を払い、娘から花を一輪受け取った。嫉妬に狂った七郎の魂は、花売りの娘のおかげで、明鏡止水の境地を取り戻した。
「――次はいつ会える?」
「私は、たいていこの辺りを廻っています……」
そう言って七郎と花売りの娘は別れた。傍から見ている者には何が起きたかわからない。
三文芝居を眺めているような、そうでないような。
「……何あれ。何してんの、あの男?」
茶屋の看板娘おりんは眉をしかめた鬼女の形相で、七郎の去りゆく後ろ姿を見送った。
「本っっっ当に馬鹿だねえ」
おまつは眉間をおさえた。七郎から慈母観音のように思われている彼女も、怒る事があるらしい。
「二人とも、あの男を知っているのか」
「ええ」
「よおおおくね」
正雪は最近になってこの茶屋に通うようになったが、おまつとおりんがこのような性格だとは思わなかった。
「七郎、面白い奴だ」
正雪もまた七郎が去っていった方角を眺めて薄く笑った。
茶と団子のお代は、七郎の分も含めて正雪が支払った。
**
夜、七郎は武家屋敷の庭にいた。
庭の大樹の太い枝に、綱を用いて人間の胴体ほどの丸太を吊るし――
それに稽古袴を着せて人間にみなし、無心に技をしかける。
丸橋を制した技を延々と、後世の柔道における背負投をしかけていく。
入神の技の入りが、神業を可能にするのだ。
(やる!)
額に汗を浮かべ、七郎は背負投の反復練習を繰り返す。
全ては繰り返しと積み重ねだ。
万里の長城も、小さな石の積み重ねなのだ。
そして七郎は父の言葉を思い出す。
武の真髄は一瞬で敵を倒す事にあるという。
なぜか、それは戦場の理だ。
周囲を敵に囲まれている状況では、一人に対して時間を割く余裕はない。
また命懸けの戦場では頭が真っ白になるのは珍しい事でもない。
七郎の父、宗矩は幾度も戦場に出ているが、それでも恐怖に慣れるという事はなかった。
そのような緊張した精神状態では、実力の半分も出せれば上々だという。
そして、戦場で重傷を負う場合もある。
瀕死の状態で敵と向き合う事もある。
だからこそ最高の一手で臨むべきだというのだ。
「おおお!」
七郎が烈火の気迫で放った背負投が、丸太を吊るす綱を引きちぎった。
丸太は七郎の背負投で地に投げ落とされた。
七郎はしばらく丸太を見下ろしていたが、呼吸を整え、夜空を見上げた。
「まだまだだな……」
七郎の目指す境地は果てしなく遠い。
自身の最高の心技体、それが倒した敵をも感服させる事を祈る。
七郎の無刀取りの妙技は、魔を降伏する降魔の利剣でもあるのだ。
兵法は平和の法なり。
七郎はそれを信じる。
翌日、張孔堂の講義は休みだった。
だが、由比正雪の元には丸橋忠弥を始めとした張孔堂の主な者達が集まっていた。
「あの七郎とは何者だ」
「浪人達にも知る者はいないらしい」
「右目が潰れた目立つ人相だというのに」
張孔堂の居間で丸橋を中心に男達が話しこむ。正雪はその様子を静かに眺めている。
丸橋以外は武士だった。彼らは参勤交代で江戸にやってきた大名に仕えている。
全国各地から集まってきているだけに、海千山千の猛者揃いだ。そんな彼らですらが七郎の妙技には一目置いた。
「幕閣の者ではないか」
「そんな馬鹿な、隻眼の者など聞いた事がない」
「今の幕府に骨のある奴などいるのかね」
「柳生の嫡男は城にはおらぬというぞ、ひょっとして奴が」
「いやいや待て、柳生の嫡男の肖像画を見た事があるが隻眼ではなかった」
と、丸橋と武士達は話しこむ。彼らは天下泰平の時代に退屈していたのだ。
彼らの父祖が命懸けで未来へ繋いできたもの、その尊さに気づかぬまま、兵法の腕自慢技自慢に興じている。
それだけではない。武士達は藩主から密命を帯びて張孔堂に集まっているのだ。
それは――
「七郎は怪しい者ではない」
正雪は皆を制した。海千山千の者に囲まれて、動じる事なく彼らを制するとは、正雪も只者ではない。
「何を言うのだ」
と、丸橋は声を荒らげた。彼は七郎の無刀取りによって一瞬で倒されてしまった事が屈辱だったのだ。
江戸に聞こえた槍の達人、丸橋忠弥。
その面子が潰されたのだ。正雪との勝負に負けて、以来彼の側近を務める丸橋も、ただの風来坊に負けたのは許せなかった。
いや、彼の周囲の者や世間が丸橋を許さぬのだ。
「謎が多いだけだ」
正雪は居並ぶ面々の前で微笑した。