弘安の役
第二次蒙古襲来(弘安の役)に備えて、博多湾岸、西は今津浜から東は香椎まで、強固な石の防塁が二〇㎞に渡って張り巡らされた。防塁は、海側に二mの石垣を垂直に積み上げ、上には分厚い樫の盾が隙間無く並べられた。防塁の陸側は緩やかな斜面になっていて、大量の武者が自由に移動できるよう工夫されていた。
蒙古軍は、蒙古・高麗連合分軍(東征軍)四万と、征服した宋人を主体とする蒙古・宋連合軍(江南軍)十万が壱岐島で合流、十四万の大軍で一挙に博多を占領する計画だった。
弘安四年(一二八一年)五月二一日、文永の役と同様に、東征軍は最初に対馬を踏みつぶした。その八日後、壱岐の瀬戸の浦に大船団が侵入した。島民の大部分は九州本土に逃れ、残った島民は、島の山岳地帯に穴を掘って息を潜めていた。
壱岐の守備隊長は、文永の役で鏑矢を放った少弐資時。資時が束ねる守備隊の数、僅か二百騎、論議の余地のない捨て駒だった。
資時は、瀬戸の浦を見下ろす船匿城から入り江を埋め尽くした蒙古の大船団を見ていた。馬上の資時は、鎧も兜も元服の祝いに祖父資能から贈られた赤糸威しの豪華な意匠だった。赤糸で繋がれた鎧の鋼板には、暗赤色の漆がかけられ、午後の日差しを受けて、鮮やかな朱色に輝いていた。
やがて蒙古軍船が、岸壁に着岸して大量の兵士を吐き出し始めた。
「おのれ・・見ておれ・」
若干十二歳で蒙古軍と矛を交えた資時に恐怖は無かった。それに、討ち死に覚悟、先駆けの功名や手柄も初めから捨てていた。
「鏑矢じゃ」
資時の命令で、鏑矢が切ない声を上げて虚空を駆けた。蒙古軍が一斉に船匿城を見上げて笑い出した。鏑矢は、蒙古の大軍に吸い込まれて、その役割を終えた。
細面の女のような資時の顔には朱が射し、切れ長の目の奥に光が灯った。
「やれ」
資時の静かな声に、今度は、二〇〇本余りの鏑矢が浦に響き渡ったが、蒙古軍は見向きもしなかった。しかし、直ぐに、赤い革鎧を着た蒙古軍の隊列が乱れ始めた。鏑矢に混じって火矢が放たれていた。鏑矢の膨らみに菜種油を含ませた硫黄が詰められていたのだ。蒙古軍のあちこちで煙が上がり始めた。背中に火を背負ったまま、海に飛び込む者、助けを求めて船に逃げ帰る者。大量の火矢を射掛けられた岸壁は、阿鼻叫喚の火炎地獄と化していた。
その時、一隻の大型船が、帆を上げて岸壁から離れ始めた。
「太郎!」
「オオウッ」
資時の呼びかけに、大男が兜を脱ぎ捨てた。大男の名は、宗太郎資博。文永の役の対馬防衛戦で全滅した宗一族の生き残りだった。身長は二〇〇センチ、体重は一八〇キロを超え、顔には真っ黒な髭が伸び放題、頭は出家して剃り上げていた。
太郎が通常の倍はあろうかと言う特大の弓の弦を引き始めた。文字通りの五人張りの大弓だった。岩のような肩の筋肉は直垂の上からも見えるようで、剛毛に覆われた二の腕は、大弓のためにブルブルと震え始めた。首の血管は膨れ上がり、見開かれた目は血の筋が走っていた。郎党が拳ほどの鏑矢の先に火を着けた。
「グワッ」
特大の鏑矢は大空に舞い上がり、そして、大船に向かって落ちていった。
太郎の鏑矢は二〇〇mを飛んで、大型船の帆に突き刺さった。菜種油をたっぷりと吸った硫黄は瞬時に発火し、風を孕んだ帆を燃え上がらせた。それを目にした岸壁の蒙古軍は、慌てふためき、怯え切った烏合の衆と化していた。
「太郎、父君の恨みを晴らせや・・」
資時は、栗毛の愛馬に飛び乗るや、太刀を抜き放った。
(じじ様、この資時が戦ぶりご覧あれ)
資時は心で叫びながら馬に鞭を入れた。資時、太郎を先頭に、壱岐守備隊二〇〇余騎が港めがけて坂を駆け下った。
「ォワーッ・・」
騎馬武者軍団は大気を震わす時の声をあげ、大地を叩く蹄の轟音が、浦を囲む山並みに響き渡った。
突然の、騎馬武者の突撃が、浮き足立っていた蒙古軍に追い討ちをかけた。文永の役で生じた日本武者への恐怖が蒙古兵を萎縮させた。高麗の徴用兵に至っては、我先に、弓を捨て、鎧を脱ぎ捨て海に飛び込んだ。
資時は、逃げる蒙古軍を斬って、斬って、斬りまくり、太郎は、自慢の大弓を馬上から放ち続けた。岸壁の蒙古軍を蹴散らして、入り江を見回すと、蒙古船団は岸壁を離れ、海上から騎馬武者隊を遠巻きにしていた。壱岐守備隊二百騎が、四万の蒙古軍を壱岐の岸壁から追い払っていた。
「エイ・エイ・オーッ・・エイ・エイ・オーッ」
岸壁に居並ぶ壱岐守備隊二〇〇余騎は、手にした太刀を天に突き上げ、勝どきを上げた。勝どきの余韻のなかで、突然、巨漢の太郎が馬から転げ落ちた。
「如何した、太郎!」
これが、資時の最後の言葉となった。
守備隊は、蒙古軍の秘密兵器の存在を知らなかった。蒙古軍の怒弓と呼ばれる弓は、船の舷側に固定され、射程距離一〇〇〇mを誇る弓の大砲である。数十隻の船から一斉に発射された怒弓に、守備隊は逃げる間も無かった。馬は倒れ、特大の矢は、逃げる守備隊の大鎧をいとも簡単に貫いた。こうして、弘安の役における、壱岐攻防戦は、またもや蒙古軍の圧勝に終わった。しかし、弱冠十九歳の少弐資時の武勇と峻烈な戦いぶりは、人々の記憶の中で永遠に生き続けることとなった。
資時が討ち死にした一月前の軍議の席、八十四歳になった資能は鎧も着けずに日本軍総大将、嫡男少弐経資の後に控えていた。前かがみになった背中には老いが迫り、真っ白になった髪は伸び放題、その髪を後で一つに結び、白髪を隠すように烏帽子を目深に被っていた。
文永の役が終わると、思ってもみなかった仕打ちが資能を待っていた。鎌倉幕府は、赤坂本陣から水城への撤退を敵前逃亡と決めつけ、総大将の資能に責任を問うた。資能は、一切の申し開きをすることもなく、家督を嫡男の経資に譲って第一線から身を引いた。自身は大宰府の観世音寺の近くに庵を結び、世俗との往来を絶って冥土からの御迎えを静かに待つことにした。それから七年、資能は、果ての見えない己の命を呪うしか無かった。
「父上、父上は我等が要・・今一度・・」
弘安の役が目前に迫ると、嫡男経資は幾度も庵に足を運び出陣を請うた。
「この年では、足手まといになるだけじゃ・・何度申せば分かってくれる・・」
「されば、軍議だけでも」
五万の日本武者団をまとめて、十四万の蒙古軍に立ち向はねばならない日本軍総大将、実直が取り柄の経資には荷が重すぎたのだ。運命からも時の流れからも見放された資能は、こうして軍議の席に老骨をさらすこととなった。
最初に、博多湾守備隊の陣構えが決定された。左翼、生の松原は菊池氏、右翼、志賀島方面は少弐氏、筥崎本陣の守備は薩摩の島津と豊後(大分)の大友氏。そしていよいよ、最前線の壱岐、対馬の段になった。両島は、九州本土からの補給路が長く、十分な守備隊を送る事はできなかった。壱岐・対馬は、先の文永の役でも全滅しており、弘安の役でも両島の守備隊は明らかな捨て駒だった。対馬は、守護代の宗氏が引き受けたが、壱岐の守備隊長に名乗りを上げる武者はいなかった。
陣構えを決めるはずの鎌倉のお歴々は、何時の間にか姿を消し、上座には一人、総大将の経資だけがとり残された。軍議は行き詰まり、誰もが息を殺したまま、無限とも思える時間が過ぎていった。
「壱岐は、私、資時が・・」
突然、末席に控えていた十九歳の資時が名乗りを上げると、目に見えぬ動揺が軍議の席を走り抜けた。居並ぶ武者達は、一様に目を伏せて拳を握り締め、総大将の経資は歯を食い縛り、扇を掴んだ拳は震えていた。
「・・資時、よう申し出た・・我が少弐の誇りじゃ・・」
凍った空気を割るように、経資の陰にいた資能が立ち上がった。背筋は伸び、目には往年の気迫が満ちていた。
「おじじ様・・過分なお言葉・・」
床に手を着いた資時は、透けるような笑みを湛えて資能を見上げた。
「・・資時・・武運を・・武運を祈っておるぞ・・」
資能は溢れ出そうとする涙を飲み込んで、最愛の孫、資時の姿を深く瞼に焼き付けた。
「それでは、皆様方・・ご武運をお祈り申し上げます。」
資時は会釈をして踵を返すと評定の場を後にした。資能、資時との今生の別れだった。
東征軍は、資時の守備隊を壊滅させると、壱岐で江南軍を待つことなく単独で博多に迫った。東征軍が博多湾の志賀島と能古島の間に姿を現したのは、資時が討ち死にした七日後、弘安四年六月六日の正午過ぎだった。
志賀島は、博多湾の北側に位置する南北四㎞、東西二㎞ほどの小さな島で、金印「倭奴国王印」の発見で有名である。島と言っても、博多湾の北側を塞ぐように突き出した岬と、海の中道と呼ばれる広い砂洲で繋がっている。能古島は、菊池勢が布陣する百道浜の沖に浮かぶ、志賀島とほぼ同じくらいの島である。
蒙古東征軍は能古島を拠点として博多湾内に軍船を展開し、日本軍五万は西の今津浜から生の松原、東は香椎から海の中道を結ぶ二〇㎞に渡る頑丈な石の防塁に陣取った。
蒙古軍の上陸作戦は、翌日の日の出と共に開始されたが、武者達は、防塁の上から矢を射かけ、蒙古軍の上陸を水際で阻止した。四国伊予(愛媛)の川野通有に至っては、防塁の前の砂浜に陣を敷き、上陸しようとする蒙古軍に切り込んだ。これには、蒙古軍も撤退を余儀なくされ、早々に能古島近辺に軍船を引き上げた。
朝鮮の高麗軍を主力とした東征軍は致命的なミスを犯していた。第一のミスは、当初の戦略を無視して、四万の東征軍が、単独で博多上陸作戦を強行したことである。文永の役においても、三万の蒙古軍が一万の日本軍に撃退されている。五万の博多防衛軍を打破するためには、最低でも三倍の十五万は必要で、これは古くからの戦術上の常識である。
第二のミスは、蒙古船団が数日分の水しか用意していなかった事である。四万の軍勢に必要な水は、一日当たり最低でも五万リットルで五〇トン、上陸作戦を甘く見た蒙古軍の完全な準備不足と言えた。結果、蒙古軍は、百地浜を強行突破して飲料水を確保するか、壱岐まで撤退するかの選択を迫られていた。
翌、六月七日、蒙古軍は正面突破を断念し、船団の左翼(東側)を担った十隻余りが志賀島の砂浜に舳先を向けた。蒙古軍の志賀島侵攻に対抗する第一陣として、文永の役で敵の大将を射落とした少弐景資が、香椎から志賀島に向けて陣を進めた。
生の松原の菊池武房は、一報を耳にするや騎馬武者四〇〇を従えて、志賀島を目指して博多の市街地を一気に走り抜けた。菊池勢が志賀島の砂洲を渡り終えると、蒙古軍が景資率いる日本軍の僅か一〇mまで肉薄するのが見えた。
「恩賞は取り放題じゃ・・死ねやー・・・」
菊池武房は、馬に最期の鞭を入れた。
「オワーッ」
地を揺るがす蹄の音と、大気を震わす雄叫びに、景資の目前まで迫っていた蒙古軍の動きが止まった。武房は、馬上から目にも止まらぬ早業で、矢を三本放つと、腰の太刀を引き抜き、蒙古軍の右手から突っ込んだ。
「だれぞ?」
景資の問いかけに、武房がニヤリと笑った。
「菊池武房に侯・我等が武者働き、とくとご覧あれ・・」
武房は大音声で答えながら、右手の蒙古兵の首を切り落とした。
「皆の者、打って出よ・・菊池勢に遅れるな!」
景資が太刀を抜き、盾の間から飛び出すと、生き残った手勢二〇〇も後に続いた。
日本軍六〇〇余が、一斉に砂浜に展開し、上陸を開始した蒙古軍に刃を煌かせて突撃した。蒙古軍の先陣は、少弐・菊池の連合軍に波打ち際まで推し戻されたが、蒙古の軍船が次々と砂浜に乗り上げ、大量の矢を放ち始めた。
「盾を持てー・・盾を持てー」
武者の叫びに、盾を担いだ郎党が一斉に水際に居並んだ。蒙古軍の矢は雨のように降り注ぎ、荒武者どもも動きを封じられ、盾の陰で動きを封じられていた。
「菊池の御館様は、どこじゃー・・どこじゃー」
割れるような大声の主は、竹崎季長だった。
「季長・・ここじゃ、ここじゃ」
盾の影で身を低くしていた武房は笑いながら叫んでいた。
「おお、ここにおいでか・・」
季長は、横倒しの馬や蒙古兵の死骸を飛び越えて、武房の盾に転がり込んだ。
「季長・・斬っても、斬っても、イナゴのように攻めてくる・・」
全身に返り血を浴びた武房は疲労困憊、刀の血糊を袖で拭いながら大きく息を吐いた。
「なんの、この季長にお任せあれ・・」
季長は、郎党に持たせていた弘村の太刀を引き抜いて、肩に担いだ。ニヤッと不敵な笑みを浮かべるや、季長は太刀を担いで盾の陰を飛び出した。
季長の目の前で、軍船から飛び降りた蒙古兵五人が弓に矢をつがえ始めた。季長は小走りに砂地を蹴ると、蒙古兵の目の前で一度体を縮め、はずみを付けて虚空に舞い上がった。着地と同時に、右肩に担いだ弘村の太刀を、両手で横に払った。
端の蒙古兵の首が宙に舞い、二人目は肩から胸を切断され、三人目の横腹に食い込んで太刀は止まった。縮めていた腰を伸ばした季長は、蒙古兵に足を掛け、食い込んだ太刀を引き抜いた。大量の返り血をまともに顔に浴びた季長が、左手を睨み廻すと、二人の蒙古兵は弓を捨て船に逃げ戻ろうと背中を見せた。季長は波間を飛んで、一人の背中を斬り割ると、いま一人の首に弘村の太刀を突き立てた。中ほどまで食い込んだ弘村の太刀を、軽くこねると、首は胴から離れ、蒙古兵は自分の首を肩に乗せたまま、海に倒れこんだ。
鬼に金棒ならぬ、季長に弘村の太刀だった。季長は、あっと言う間に、八人の蒙古兵を斬って捨てていた。季長の奮戦で蒙古軍の寄せ手の一角が崩れ始めた。
「あの、荒武者に習え・・」
少弐景資の掛け声に、数百人の武者が、一斉に、盾の影から飛び出し、寄せる波間に足を踏み入れた。武者達は腰まで海に漬かり、逃げ惑う蒙古兵を切りまくった。
季長は、太刀を横咥えにして軍船をよじ登り、一気に舷側を跨ぐや、甲板に仁王立ちした。
蒙古兵は持ち場を捨てて逃げ始めたが、大人しく蒙古兵を逃がす季長では無かった。追っては斬り、斬っては追う。船上の季長は阿修羅そのものだった。慈悲も無く、怒りも無く、農夫が草を刈るように蒙古兵の命を絶ち続けた。季長が我に帰った時には、船には蒙古兵は一人も居なくなっていた。足元には、首の無い赤い革鎧、腕を無くして呻く蒙古兵。血は甲板を洗い、濃厚な血の臭いが辺りに立ち込めていた。
阿修羅の季長も心が痛んだのか、足元で呻く蒙古兵に止めを刺そうと太刀を振りかぶった。その時だった、季長の左の肩に激痛が走った。顔を上げると、すぐ沖に停泊していた軍船から矢が放たれていた。
「おのれ・・」
季長は、肩に食い込んだ矢を引き抜きながら、船尾の物見台に駆け上がった。
物見台には怒弓と投石機が据えられていた。季長は投石機のバネを縮めると、石の代わりに鉄砲(火薬を入れた筒)に火を付け打ち出した。鉄砲は青い煙を吐きながら虚空を駆け、沖の軍船の甲板で爆発した。直ぐに、軍船は炎を上げ始め、あっという間に帆に燃え移った。逃げ惑う蒙古兵は、火から逃れようと海へ飛び込んだが、やがて波に飲まれ、ことごとく海中に姿を消した。
こうして、日本軍は、蒙古軍の志賀島上陸を辛うじて阻止したが、日本軍の死者は五百を数えた。撃退はしたものの甚大な犠牲者の数だった。季長も毒矢を受け、一両日中は、体を駆け巡る毒に苦しむ事になった。
蒙古軍の第一波は押し返したが、水を求める蒙古軍は志賀島を諦めなかった。志賀島の玄界灘側は、急な崖で上陸は困難だが、博多湾側は、数キロに渡って軍船が接岸できる砂浜が続いていた。季長等が奮戦している間にも、数十隻の軍船が戦場外れの砂浜に乗り上げ、蒙古兵を吐き出し続けていた。
翌、六月九日、弘安の役、最大の戦い、志賀島攻防戦の幕が切って落とされようとしていた。志賀島に繋がる砂洲で日本軍の先頭に馬を進めた総大将少弐経資が声を張り上げた。
「本日の戦が、日本国の命運を握っておる。恩賞など忘れて、我らが魂を見せてやれ・・」
総大将の激励に、馬はいきり立ち武者はまなじりを吊り上げた。
「盾前へ」
号令一下、二千枚の盾が最前列に並んだ。単騎で蒙古軍に突撃を繰り返した文永の役とは大違いである。盾自体も広く厚くなり、馬の胸板にも簡単な鉄の装甲が施されていた。さらに、盾を持つ郎党と弓を引く郎党を分け、防御と攻撃を分離していた。
日本の大軍団が朝日を背に浴びて、露に濡れた夏草を踏み分け進み始めた。午前七時、最初の蒙古軍との矢戦が始まった。盾部隊は決して歩みを緩めず、後に続く弓部隊は盾の陰に身を潜め、射程距離に近づくまで矢を放つ事は無かった。暫く耐えて進むうち、飛来する矢の数が急激に減っていた。最前線の蒙古軍の矢が尽き始めていた。
前線の蒙古兵の矢が尽きると見るや、日本軍は、大量の矢を射かけた挙句、後方に控えていた騎馬武者三千が一挙に打って出た。騎馬武者は、逃げ惑う蒙古軍を蹴散らし、瞬く間に壊走させた。勝ちに乗った騎馬武者五百は、蒙古兵を追撃しながら志賀島の奥深くにまで達した。
折も折、蒙古軍の陣地に東征軍司令官洪茶丘が上陸していた。洪茶丘は華麗な天蓋の中で、久々の陸の感触を味わっていた。そこに、日本の騎馬武者五百騎が、馬蹄を響かせ迫ってきた。蒙古軍は本格的な陣地を築くまでには至っていなかったが、弓部隊が前面に展開し一斉に矢を放ちはじめた。
洪茶丘は天蓋の下で、蒙古軍の矢に倒される武者を見て笑っていたが、時と共に、締め付けられるような胸騒ぎに、ねばい汗が噴き出していた。
(金方慶が言った事は本当か?・)
日本武者と実戦経験の無かった洪茶丘は、日本人を倭人(小人)として舐めていた。文永の役では、無能な金方慶のために大宰府を落とせず、挙句には夜襲まで受けたと思い込んでいた。結果、日本武者を甘く見た洪茶丘は、十万の江南軍を待たず東征軍だけで博多攻略を強行したのだった。
「あれぞ、敵の大将なり・・」
一人の武者が、洪茶丘の華麗な天蓋に目をとめた。武者達は雨のような矢の中、先陣を争って天蓋に向けて突き進んだ。
武者団の先頭が敵の本隊に到達すると、壮絶な肉弾戦が開始された。季長が評したように、蒙古軍は概して小柄だった。蹴れば倒れ、刀を振りかざし吠えれば逃げ散った。
武者団が目前に迫ると、洪茶丘は浮き足立ち、陣屋を捨て馬に飛び乗った。大将がいなくなれば、寄せ集めの蒙古軍に命を賭して戦う意味は無くなる。
戦いの意欲を失った蒙古兵の心に、文永の役の悪夢が蘇った。
「・・脳味噌を食われる・・」
悪夢と群衆心理に支配された蒙古兵は、陣地を捨てて浜辺に停泊していた軍船に向かって逃げ始めた。壊走する軍隊ほど哀れな物は無い。武者団は、逃げる蒙古兵を波打ち際まで追い詰めことごとく切り捨てた。
竹崎季長は生の松原で日本軍勝利の報を聞きながら、地団太を踏んで悔しがった。昨日受けた矢には毒が塗られていたようで、朝から高熱を発し、さすがの季長も動けなかった。熱も下がった夕刻、季長は馬の背に揺られながら、志賀島で陣を張っていた大友頼泰を訪れた。
「それがし、竹崎季長と申す。この度の武勲、心よりお祝い申しあげまする。」
季長は、頼泰に深々と頭を下げた。
「おお、これは竹崎殿でござるか。・・かねがね武勇は聞き及んでおり申す。・今日はまた如何なる用向きで?」
頼泰の問いかけに、季長は突然、ハラハラと涙を流し事の次第を語った。
「左様でござったか・・なに、竹崎殿、まだ蒙古は、逃げた訳ではござらぬ」
頼泰は季長を志賀島の岬に誘った。大きな夕日が玄界灘に沈む所だった。
「ござれ・・まだ蒙古の船は碇を上げてはおらぬて」
岬からは、蒙古の軍船が手の届きそうな所に停泊しているのが見えた。軍船の大きさは様々、数百人は乗れそうな大型帆船から、日本の小型船に帆を付けたほどの小さな船まであった。
「大きな船には、敵の大将が乗っておるはず・・いい男を紹介するゆえ、ご存分に」
頼泰が引き合わせた男は、松浦党の左門次。真っ黒に潮焼けした顔からのぞく反っ歯ぎみの白い歯が目立った。
松浦党は、平戸、伊万里辺りを根城にする水軍の総称である。日本の水軍は、瀬戸内海の村上水軍と、玄界灘から関門海峡までを縄張りとする松浦党に分けられる。水軍とは本来、海上運輸を生業とする集団であったが、源平合戦以降は、武力を備えた軍事集団に発展していた。
先の文永の役では、松浦一帯も対馬や壱岐と同じように蒙古軍に蹂躙された。左門次も、年老いた両親、妻、3人の子供、全てを無くしていた。左門次に残されたのは、家屋の焼け跡から助け出された当時2歳の末子だけだった。その男の子も大火傷を負い、顔には醜い火傷の跡が残っていた。
「坊・・父ちゃんが、きっと仇とってやるけん・・」
残された男の子に言い続けて、左門次の七年が過ぎていた。
この思いは、左門次に限らず、生き残った松浦党全ての人々の心に深く刻まれていた。二度の蒙古襲来の後、松浦党の蒙古に対する深い憎しみが倭寇となって、中国本土や朝鮮半島を荒らし回ることになるが、その松浦党きっての暴れん坊が、左門次である。
その翌日から、松浦党の天登舟に分乗した武者共は、夜陰にまぎれて蒙古船を襲い始めた。天登舟は一本柱の帆を持つ小型船で、六人の漕ぎ手を擁した名前どおりの天まで駆け登るような快速船である。
天登舟に分乗した武者達は、蒙古船の寝こみを襲った翌日は、ゆっくり休んで、次の未明に襲撃をかけた。何時襲うかは、武者達の勝手、海上の蒙古軍は堪ったものではなかった。漁師姿で、船に水甕を積み、白昼堂々と蒙古船に漕ぎ寄せ不意を打った猛者もいた。闇に怯える蒙古兵は、一晩、おちおち休む事もできず、朝を迎える度に消耗していった。
「よし、今夜は、大将ばやるばい」
季長は、かねてから目を付けていた大型船に狙いを定めた。
最初、五艘の舟から一斉に火矢を放たせ、矢戦に持ち込んだ。その間に、黒く塗られた天登舟は帆も揚げず、闇に溶けた悪霊のように蒙古船の前方から忍び寄った。季長と十匹の狼は、頃あいを見計らって反対側の船縁によじ登った。季長は、闇に溶ける影となって、矢戦に夢中の蒙古兵に忍び寄った。背後から喉を突かれた兵士が倒れても、蒙古兵は狼の侵入に気付いていなかった。船べりで矢戦に没頭していた多くの蒙古兵は、自身に死が訪れた事さえも知らず息絶えていった。
「後は、頼んだばい・・」
季長は、板張りの階段を下りて船倉に姿を消した。
季長が闇に目を凝らしてみても、奥で小さな灯明が揺れているだけで、中はシンと静まり返っていた。用心深く船室に足を踏み入れるや、背中をゾクリと殺気が駆け抜けた。同時に、剣が空気を切り裂く「ピゥ」と言う音が左右から迫ってきた。季長は前のめりに体を沈めながら、弘村の太刀を上段に構えた。季長の頭の上で、鉄と鉄が噛みあい火花を散らせた。
「待っていたぞ・野良犬め」
片言の日本語と同時に、船室の明りが一斉に燈された。
鉄の鎧に身を包んだ五人の蒙古兵は、幅の広い剣を握って季長を囲んでいた。正面の寝床には、高官の衣装に身を包んだ品の良い中年男が座っていた。
季長が間合いを詰めるために一歩踏み込むと、つられて蒙古兵も季長との間合いを詰めてきた。悲しいかな、五人の蒙古兵と季長は、潜ってきた修羅場の数が違った。季長は、弘村の太刀を振り上げるが速いか、踏み込みながら真っすぐ切りおろした。正面の蒙古兵は、あわてて剣を上げたが、弘村の太刀は蒙古兵の剣を弾いて、そのまま兜を割っていた。振り返った季長の口元には、残忍な笑みが浮かんでいた。蒙古兵は季長の殺気と、心を凍らせる笑みに全身の毛穴が収縮するのを感じた。感じたが、そこまでだった。左手の兵士は首を突かれ、右手の兵士の首は宙を舞った。凍りついた二人の蒙古兵を鎧ごと切り捨てると、寝床に座った男に迫った。
腰を抜かした中年男は、這って枕元の剣に手を延ばそうとしたが遅かった。季長は、男の背に馬乗りになると、髪を掴んで頭を引き上げた。男は何か盛んに訴えていたが、季長の手が緩まないことを知って、終いには、泣きながら命乞いを始めた。季長は、弘村の太刀を床に付きたてると、腰の短刀を逆手に握り引き抜いた。
菊池の無名の刀鍛冶が鍛えた細身の短刀だが、良く切れた。季長が、短刀を首に当てると、男は泣き騒ぎ、短刀を持つ季長の右腕にしがみつき最期の抵抗を試みた。
「御免」
一掻きで、男の首は胴体から永久に離れた。
季長が首を下げて、甲板に出てみると、船上に蒙古兵の姿は無く、十人余りの武者が甲板に並んで季長を迎えた。
「お見事、季長殿」
武者達の賞賛の中、季長は敵将の首を郎党に手渡した。