山城伝 来国吉
備前福岡村から京の都まで、二百㎞余り。丈夫な足腰をもってすれば、一〇日足らずの距離である。鍛え上げた足腰の上に、「刀の精」に後押しされた八次の足は軽かった。福岡から赤穂、姫路から山中の間道を選んで亀岡を通って京を目指した。福岡を出てから八日目の夕刻には、京の町が見渡せる峠に立っていた。
「これが京か・・」
備前福岡も昨今の賑わいで、西の京とまで呼ばれるほどだったが、京の町はスケールが違った。果てしなく続く街並みの所々には、大小の五重塔や寺院の伽藍、市街地の中央には、御所の広大な緑が広がっていた。八次が京を見下ろした峠は、現在の西京区沓掛町あたりで、足元から真っすぐ延びた五条通りの先には、東山の中腹に清水寺が見えていたはずである。
峠を下り、現在の右京区あたりになると、日もとっぷりと暮れ、京の街に明りが燈りはじめていた。福岡であれば、軒を連ねた商家の店じまいの時刻である。しかし、京の都では日が落ちても、人ごみの中を分ける荷車、烏帽子直垂に太刀を履いた武者の群れ、男衆に混じって女人や童までが町筋を行き交っていた。
何事にも動じない八次だったが、今夜ばかりは都の人ごみと華やかさに、すっかり上擦っていた。気が付くと、八次は人気の無い長塀の間を歩いていた。辺りはシンと静まり返り、耳に入るものと言えば自分の足音と微かな風のそよぎだけだった。夜が更けるにつれ、塀の向こうで風に揺れる竹林のざわめきが、八次の心を益々心細くしていった。
八次は大都会、京の町で道に迷っていた。食事も昼過ぎ、乾飯をかじっただけ。軒先を借りて一夜を過ごそうにも、小さな御堂一つ見つからなかった。
「困ったのう・・」
この二時間あまり、八次は何度呟いたことであろうか。
振り仰げば、星も見えない曇り空で、方角も分からなかった。先程まで、低い雲の底をボンヤリと照らしていた町明りも今は無く、竹林を渡る風の音と、遠くから聞こえてくる犬の遠吠えばかりが耳に付いた。
人気の無い小路を歩き続ける八次の目が、遠くに篝火を捉えた。始めは小躍りするほど喜んだが、近づくにつれ心の中に暗雲が広がり始めていた。篝火の火は赤々と燃え、真っ白な塀を闇に浮き立てていたが、辺りに人の気配が全くなかった。
「さては、怪かしか・・」
(京の町には鬼が住む。暗い街筋で篝火を焚いて人を引き寄せては、捕らえて貪り喰らう。)
福岡村で耳にした噂話が八次の心に蘇っていた。八次は、藁を巻いて麻布に包んだ刀箪笥を背中から下ろした。
(いざとなれば、鬼だろうが夜盗だろうが切り伏せるまで)
八次は腹を括った。八次は片膝を着いて、漆塗りの刀箪笥から太刀を取り出し腰紐の間に差し込んだ。
篝火は、ほんの一〇mほど先で風に揺れていた。腰の太刀の重みと、踏み固められた土を捉える草鞋の感触が八次に自信を与えていた。
この時代、まだ剣術という刀を操る武道は成立していない。勝つか負けるかは、技の差ではなく、刀を切り結ぶ際の気力と腕力にかかっていた。それに、相手の刃を避ける俊敏さ、最期は、敵を押し倒して止めを刺すだけの体力が命の行方を左右した。八次には、その全てが備わっていた。恵まれた八次の五体と腰の名刀があれば、妖怪の一匹や二匹、敵ではなかった。
門の前に立って分かった事だが、篝火は門の両脇で燃えており、瓦葺の頑丈な門の奥は真っ暗だった。
「怪しい奴、出会え、出会え」
突然、門の暗闇から野太い声が響き渡った。直後、弓を構えた四人の雑兵が篝火に照らし出された。
「何者じゃ?!・このような夜更けに」
弓の弦を引きながら、雑兵の一人が八次を睨み付けた。目は血走り、獲物に狙いを定めた獣の目だった。
「怪しい者ではござらぬ!」
さすがの八次も、弓四丁を相手にする自信は無かった。八次の大声に呼応するかのように、弓を引き絞るギリギリという音が闇に響いた。
確かに、八次のいでたちでは、怪しまれても仕方がなかった。息も凍る晩秋の夜更け、麻の袴に薄手の小袖。上から羽織った鹿革の袖なし。どこから見ても、高雄あたりの山賊のいでたちである。悪い事に、脇には分不相応な美しい箱まで抱えていた。
弓を引き絞る雑兵を押しのけて、赤糸威の鎧を着た武者が姿を現した。
「抱えている、それは何じゃ・・さては、公家の館から盗んできおったな・・」
鎧武者は、八次の目を見据えながら、腰に吊るした太刀をすらりと抜き放った。武者の気迫に気圧された八次は、反射的に腰に差した刀に手をかけてしまった。
「やる気か!」
鎧武者の怒声に合わせるように、「ギンッ」と弦の弾ける音を伴って、一本の矢が八次の首筋を擦過した。
「やるな、小僧・・」
鎧武者は、弦の音と同時に矢を外した八次の動きを捉えていた。
「弓ども、引け・・こやつは、わしが成敗する。・・退屈で困っておったところじゃ」
弓を構えていた雑兵どもは、どうしたものかと顔を見合わせた。
「引かんか!」
武者の一喝に、雑兵どもは慌てて奥の暗闇に姿を消した。
武者は、京に居座っていた竹崎季長だった。季長は、後に「蒙古襲来絵詞」を神社に奉納し、歴史的に名を馳せるが、京で八次と会った頃は、ただの田舎武者である。
季長は無造作に太刀を下げたまま、八次に近づいてきた。篝火に照らし出された季長は、絵に書いたような荒武者だった。高い頬骨には真横に矢傷が走り、鼻の下の髭は天を突いていた。口元には、血に飢えた冷酷な笑みが漂っており、体格では決して引けをとらない八次も肝が冷えていた。
万策尽きた八次は、負けを認めて季長の目の前で胡坐をかくしかなかった。脇に抱えた黒塗りの刀箪笥を目の前に差し出し、その上に、腰の太刀を乗せ両手を地面に着いた。
「私は怪しい者でござりませぬ。・・備前福岡の刀鍛冶で、八次と申しまする・・」
季長は仁王立ちになって八次を見下ろしていたが、次の瞬間、八次の首に刀の冷たい感触が走った。
「ざれごとを抜かすな・・何処の刀鍛冶が、矢を外せる・さては、蒙古の間者か・・」
季長は単純である。八次が夜盗盗賊の類で無い事は直ぐに分かった。しかし、武士でも無い庶民が至近距離からの矢をかわせるとも思えなかった。文永の役以来、京の町では蒙古の間者、即ちスパイが横行しているとの噂が絶えなかった。季長にとって、挙動不審、住所不定の輩は、全て蒙古の間者である。
「とんでもございません、間者などと・・」
季長の返答は無かったが、やや間があって、八次の首筋から刀のヒヤリとした感触が消えた。
「・・刀鍛冶か・・」
季長の声には落胆の響きがあった。文永の役から丸一年、季長は沸き立つような血の衝動を持て余していた。
至近距離からの矢をかわした大男。立ち居振る舞いには一部の隙も無く、四張りの弓にも臆する気配が無かった。一対一で太刀を交わせば、勝敗は五分と五分。蒙古兵と切り結んだ時の高揚感が、久しぶりに季長を支配していた。しかし、目の前の男は、首筋に刀の刃を当てられても、地面に手を着いたまま、刃向かう素振りさえも見せなかった。やがて、季長の高ぶりは潮が引くように色あせ、再び、やり場の無い虚しさに支配されていた。
「よし、八次とやら・・わしの太刀はどうじゃ?・・刀鍛冶なら良し悪しぐらいわかるじゃろう・・」
季長は、気を取り直して八次の前に胡坐をかくと、鞘に収めた太刀を腰から外し、八次の目の前に突き出した。
季長の思いもかけない行動に虚を突かれた八次は、初めて体を固くした。篝火の下とは言え、丸腰のまま、得体の知れぬ男に太刀を差し出すなど、並みの武者にできる技ではなかった。
季長は、全財産、自分の命は勿論、郎党の命まで棄てて、一番駆けに賭けた。その捨て身の勇気と開き直りが、季長の隠れていた天分を開花させていた。以来、季長にとって怖いものは無くなった。
八次が、恐る恐る顔を上げてみると、以外にも、季長の穏やかな眼差しがあった。
「この太刀はな、つい先ごろ、わぬしの言う福岡で買い求めた太刀じゃ・・」
季長の声音からは、殺気も、辺りを圧する気迫も消えていた。
八次は、大きく息を吐いて太刀を受け取ると、その拵(コシラエ、柄や鞘など刀身を包んだ装備全般)にじっと目を凝らした。
「鞘は輔長、鍔は明珍でございますね」
「分かるのか?・・われの言う通りじゃ・・輔長と明珍よ・・拵えだけで十貫文じゃ・・」
とんでもない金額である。現在に換算すれば二百万程度であるが、当時の拵えの値段としては、気が遠くなるような金額だった。
「・・十貫文でございますか・・」
八次はあきれた。因業な商売にも程がある。たとえ鞘が輔長、鍔が明珍であっても、二貫文がいいところだ。八次は季長が気の毒になったが、顔には出さなかった。せっかくの季長の上機嫌である。下手に水を差して、何時、首が落ちるか知れたものではなかった。
「ああ、十貫文じゃ」
季長の声が弾んでいた。
「わぬし、太刀の方はどうじゃ?」
季長が膝を乗り出した。八次の抜き放った太刀が、篝火の赤い炎を受けてギラリと鈍い光を放った。
「・・福岡一文字・でござりまするな・・」
刀身に目を走らせる八次の目に怪しい色が宿った。刃渡り三尺二寸、身幅一寸二分、重ね三分。現代のメートル法で言えば、刃渡り九六㎝、幅三六㎜、厚さ九㎜弱。時代を反映した、絵に描いたような豪壮な太刀姿だった。
(悪くない、師匠の一振りか?・・)
と八次は心の中で思った。肌は所々荒れていたが、地鉄の色は深く、刃文も当世風に派手な乱れは見せず、落ち着いた風情だった。
「良い太刀でございますな・・」
「であろう・・値段を聞いて腰を抜かすなよ・・百じゃ、百・・」
覚悟はしていたが、百と聞いて八次は、また腰を抜かした。百貫文の太刀といえば、この世に十振りとは無い。全て、名物名の付いた平安時代の大業物ばかりである。
「百でございますか・・」
八次は言葉が続かなかった。悲しいかな季長はやはり、九州は肥後の田舎武者だった。文永の役で命を懸けて得た恩賞は勿論、最悪は郷里の領地まで質に入れた可能性があった。
「八次とやら・・銘を聞いて驚くなよ・・一文字吉弘じゃ・・同じ福岡の鍛冶なら名ぐらい聞いておろう・・」
八次は顔色を変えず刀身から柄を抜き取ると、篝火の下でナカゴに刻まれた銘を凝視した。鮮やかな一の字の彫り込みと、紛れも無い吉弘の銘が刻まれていた。できることならば、太刀の銘が他の鍛冶か、せめて無銘であってほしかった。
「間違いございません。・・師匠、福岡一文字吉弘の銘にございます」
八次は、吉兵衛が気の毒になった。
太刀に吉弘の銘を刻ませ、法外な値段で季長に売りつけたのは、出入りの商人に違いなかった。不相応な世間の評価は、何れは地に落ちる。名が落ちれば、作者の名誉も誇りも泥にまみれ、二度と浮かび上がることはない。
八次は知らなかったが、幸か不幸か、八次が福岡を出発した翌朝、吉兵衛は中風に倒れていた。現代で言うところの脳出血、あるいは脳梗塞である。名匠、福岡一文字吉弘は、自分の打った刀が一〇〇貫文の法外な値段で売られた事も知らず、名誉と誇りを抱いたまま、あの世に旅立っていた。
見ようによっては、吉兵衛は八次を世に送り出すために、「刀の精」に見込まれたのかも知れなかった。吉兵衛は吉兵衛なりに、自分が会得した全ての技を八次に伝えていた。偶然とは言え、こうして八次と竹崎季長を巡り合せたのも吉兵衛のおかげと言えなくも無かった。
八次が吉弘の弟子である事を知った季長は、すぐに、屋敷に招じ入れ、粥や乾し魚で歓待してくれた。季長が寝起きしていた館は、篝屋と呼ばれ、京都の治安維持が主な役割だったが、文永の役の後は、鎌倉幕府の京都出張所として機能するようになった。
「酒でもどうじゃ、八次殿・・ゆるゆる、お師匠の話でも聞かせてもらえまいか・・」
いつの間にか、八次の呼び名が「わぬし」から「八次殿」に変わっていた。
季長は自分で酒を勧めておきながら、杯で二杯も口にするや、顔を赤くして、苦しそうに息を継いだ。季長は絵に書いたようなゲコだった。季長は、猛烈な睡魔に肩をつかまれながらも、八次の話に耳を傾けていたが、一時間もすると大の字になって大鼾を書き始めた。
「憎めぬ、お方よ・・」
八次もごろりと横になって泥のような眠りに落ちた。
翌朝、八次が目を覚ますと季長の姿は無かった。吉兵衛から贈られた刀は、箱ながら枕元に置いていた。
「美しい箱じゃのお・・中はなんじゃ・・」
八次が振り返ると、昨夜の醜態が恥ずかしかったのか、季長が横を向いたまま立っていた。草木染の直垂を身にまとい、烏帽子の紐を顎で締めていた。身長は八次と変わらぬ丈だが、骨格が違った。若干猫背気味で、肩幅は恐ろしいほどに広かった。眼光鋭く、顎は張り、口は堅く結ばれていたが、荒々しさの中に、どこかしら愛嬌があった。
「師匠吉弘から拝領の太刀でございます」
「何、御師匠からの一振りとな」
季長の顔のぱっと朱がさした。季長も刀の精に魅せられていたのか、吉弘の話になると顔が緩んだ。
「何故、刀を箱に入れる?」
「錆びは、刀の大敵・・」
「錆びなど、研げば消えるわ」
田舎武者の季長にとって、太刀は単なる武器。吉弘の太刀を手にするまで大して関心も無かった。刀など折れれば捨て、錆びたら研ぐ物。刀を大切に保管する発想などまるで無かった。
日本刀は鍛錬の繰り返しで限りなく純鉄に近づく。一〇〇%の純鉄は錆びる事無く永遠の輝きを保つが、日本刀が幾ら純鉄に近いといっても、幾分かの不純物を含む鉄である以上、錆は大敵である。刀箪笥は桐材で作られており、桐は湿気を吸って膨張する。膨張すれば接合部は密着し、箱の中に侵入する湿気を遮断する。さらに、桐箱に施されたウルシは湿気を寄せ付けず、八次の刀箪笥は、刀を保管するには理想的な造りだった。
「竹崎様、研ぐのは戦の後になさいませ・・無用に研いでは、刀が泣きまする」
「刀が泣くじゃと?」
「左様で・・刀鍛冶は、後に研がれる事までは考えませぬ。・・打ち上がった姿が、その刀の全てでございます。」
「なるほどの、刀の姿か・・良い刀は錆びさせぬよう大事に扱えと言うことか・・」
「恐れいります」
太刀に百貫文払って喜んでいる季長である。急に箱の中身が気になってきた。
「八次殿・・中の刀は何じゃ・・やはり、吉弘か・・」
「いいえ、来でございます」
「ライ?・・はて、聞いたことの無い名じゃな・・」
来は京都の刀鍛冶で、綾小路や粟田口と共に山城派と呼ばれる刀工集団の一派である。公家や上席の武士の間では、来は有名だったが、田舎者の季長は知らなかった。
「師匠、福岡一文字吉弘、秘蔵の来国吉でございます」
「何、吉弘の秘蔵・・」
また、季長の目が輝いた。
「見せてくれぬか・・」
八次は軽く頷くと、黒ウルシの刀箪笥に結ばれた紫色の緒を解いた。ウルシの箱の中には、金や銀の糸を織り込んだ錦の袋に来国吉が納まっていた。八次は、刀袋の緒を解くと、来国吉の太刀を取り出した。
来国吉の一振りは、京風の優美な拵えに収められていた。鞘は、深くくすんだ朱塗り。柄は白鮫革で巻かれ、柄の両端はモミジ柄の繊細な金の金具で飾られていたが、鍔は無かった。鞘の上端二〇㎝ほどを、黒光りする太い絹の緒で巻き上げ、鞘の先端は、柄と同じモミジの金細工の冠が被せてあった。
「おお・・美しいのお・・」
季長は、優雅に反った太刀を受け取った。しばし拵えに見とれていたが、居住まいを正すと口を真一文字に結び、鯉口(柄と鞘の境目)の辺りを凝視した。「クンッ」と微かな音がして鞘は払われた。
刃渡り二尺七寸五分、身幅一寸弱、重ね二分五厘。刃渡りが八十五㎝と長い割に、幅は三㎝弱と細く、厚みも無かった。華奢で大きな円の一部を切り取ったような優雅な姿は、輪反りとも鳥居反りとも呼ばれる。輪反りは京刀の特徴で、その姿の美しさには並ぶ物が無い。
ゴクリ、季長の喉が鳴ったのが八次にも分かった。地鉄は黒味がかった深い藍色。断崖から見下ろした底知れぬ海を思わせた。その深い藍色も、朝日を受けると、海の底から湧き上がる白砂のように白く輝いた。刃文は定規を当てたように刃に沿って伸び、手元近くで僅かに波打っていた。
八次は、また思った。
(美しい・・これが、刀だ・・これ以下は無意味、以上である必要も無い・・)
八次は来国吉を目にして以来、刀に対する思いが変わっていた。
八次にとって至高の刀といえば、最初は、源衛門の福岡一文字吉弘の小刀。次に、八次自身が打った短刀。八次の短刀は、肌も姿も申し分のない出来栄えだったが、来国吉は別次元の刀だった。来国吉の太刀は、完璧な刃文、鉄の肌色、姿の優雅さ、全ての面で八次の短刀を超えていたが、決定的な違いは、その品格だった。
「しかし・・のお、八次殿・・」
季長が溜息を付きながら呟いた。
「しかし?・・どう、なされました?」
「姿も、地金も吸い込まれる程に綺麗じゃが・・この華奢さでは・・」
季長は、先の文永の役での修羅場、蒙古兵との肉弾戦を思い起こしていた。
季長は、体に数本の矢を受けながらも、一人敵陣に切り込んだ。大軍のなかで、叩きつけるように太刀を振るって複数の蒙古兵を切り伏せたが、刀が折れれば、寄って集って切り刻まれるのは目に見えていた。
「竹崎様、刀は見た目ではございません・・」
八次は、来国吉を鞘に納めると、季長を庭に誘った。思ったより庭は広く、裏手は、荒れ果てた公家の屋敷に続いていた。白壁の塀からは漆喰は剥がれ落ち、崩れ落ちた壁の間から廃屋のような屋敷が見えていた。
八次は、公家の廃屋の横、直径二〇㎝ほどのモミジの老木の下で足を止めた。
「竹崎様、・・この紅葉を切ってみなされ・・」
「この、このモミジをか?・・無茶な・・枝ならまだしも・・」
季長は幹から目を逸らし、左手に延びた大きな枝を見上げた。
八次は季長の目を見ながら、無言で来国吉の太刀を差し出した。
「折れても知らぬぞ」
季長はフンッと鼻を鳴らすと無造作に鞘を掴み、来国吉を抜き放った。八次が鞘を受け取ると、季長は来国吉を右上段に構え、正面の老木との間合いを計った。ジリジリと摺り足で老木に近づいていた季長が腰を落とすと同時に、来国吉が朝の光に煌いた。
「カッ」
老木と噛みあう音と共に、来国吉は老木の幹を袈裟懸けに切り落としていた。季長が沈めた腰を伸ばすのに合わせて紅葉はゆっくりと左に倒れた。大枝が八次の顔をかすめ、横たわったモミジの古木はこんもりとした薮を作った。
「大根でも切ったようじゃった・・」
季長はあんぐりと口を開けて、深い鉄の色を放つ刀身に見入っていた。来国吉は、折れるどころか傷一つ、刃こぼれ一つ無かった。
「竹崎様、お分かりいただけましたか。・・刀は見た目ではございません・・」
「しかし、のお・・わしは、先ごろの戦で、折れた刀や刃こぼれした刀を見てきた・・」
季長は八次から鞘を受け取ると、名残惜しげに来国吉を鞘に納めた。
「刀が折れるか折れぬかは、見れば分かります。」
「見れば、分かるとな?」
「左様で・・鉄の魂と刀鍛冶の魂が一つになった時、至高の一振りが生まれます。・・二つの魂が一つになったかどうかは、見ればわかります。」
八次は、刀の地鉄の肌合いと地鉄と融合した刃文の事を言っていた。
「ところで、わしの吉弘はどうじゃ?」
季長の問いかけに八次は、一瞬、言葉を失いかけた。
「・・来国吉に勝るとも劣らぬ一振りかと・・竹崎様の手を持ってすれば、切れぬ物はありますまい・・」
八次の言葉は嘘では無かったが、真実でもなかった。
季長の一文字吉弘は、吉兵衛渾身の一振りではあったが、来国吉とは世界が違っていた。吉弘の太刀は、反りの中心は手前にあり、真っ直ぐ伸びた切っ先でもかなりの幅があって、がっしりとした力強さがあった。対する、来国吉は、眉月のように反りの中心が中程にあって、切っ先に向かって次第に幅が狭くなる華奢な姿である。
「そうか、勝るとも劣らんか・・さもあろう、天下の一文字吉弘じゃ・・」
季長は満足げに笑みを浮かべると、来国吉を八次の下へ戻した。
「ところで、竹崎様・・手前、来の鍛冶場を訪ねたいと思って京に登ってまいりましたが・・何分、不案内でございまして」
「来のお・・・・」
季長は、しばらく小首を傾げて考えていた。
「そうじゃ・・今から、菊池の御館様にお目通りをねがっておる。御館様ならきっと、ご存知であろう・・」
当時、菊池武房の京屋敷は京の西の端、四条と天神川が交差する辺りにあった。屋敷の門は茅葺の質素なものだったが、敷地は広く、館までは竹林や幾つかの土塀を抜けなければならなかった。
二人が館を訪れた時、武房は庭で弓を引いていた。色白で背が高く、片袖を脱いだ肩の筋肉が見事だった。
「御館様、これに控えしは、福岡一文字吉弘が一番弟子、八次と申す刀鍛冶でござる。中々の上手にて、お見知り置きを、お願いも―す」
季長が片膝を着いて口上を述べる間、八次は後で地面に両手をついて頭を垂れた。
武房は矢を番えながら八次を横目で見たが、直ぐに的に向かって弓を引き絞った。
「ギンッ」
弦の弾ける音と共に矢は、四〇㍍ほど先の的に向かって弧を描いて吸い込まれていった。矢の行方を追っていた八次が、目を戻すと、すでに、武房は次の矢がつがえて弦を引き切っていた。武房は、目にも止まらに速さで矢を放ち続け、気が付いた時には、六本の矢が的に突き立っていた。
武房は、大きく息を吐いて息を整えると、八次に向き直った。
「一文字吉弘の一番弟子か・・」
武房は八次に目を留めたまま、近習から手ぬぐいを受け取って額の汗を拭き、脱いでいた肩袖をもとに戻した。
「一番弟子とは過分な御言葉・・恥じ入ってござりまする」
八次は武房の存在感に気押されて、地面に額を押しつけた。九州は肥後の田舎武者と高を括っていた訳ではなかったが、文永の役での菊池武房の勇猛ぶりは、八次の耳にも届いていた。ところが、目の前の武房は世間の評判とは違って、年齢の割には落ち着きがあり、立ち居振る舞いも優雅で品があった。
八次を見おろしていた武房が口を開いた。
「刀鍛冶にしておくには惜しいの・・季長」
「いかにも・・この男、首筋を狙った矢を外してござりまする」
「さようか・・矢をのお・・」
武房の言葉に、八次は顔を上げて首を横に振った。
「矢を外すなど・・めっそうもござりませぬ・・」
武房も、八次に感心していた。大概の男は、武房と目が合えば、無意識に視線を逸らすか、虚勢を張って目を見返すかの何れかであるが、目の前の刀鍛冶は、凪いだ湖のような目で武房を見ていた。
(武者であれば、一騎当千のつわもの、季長に一歩も引けはとるまいに・・惜しいのう・・)
と武房は思ったが、まだ、兵士を庶民からリクルートする時代ではなかった。
「父上」
突然、童子が武房に駆け寄って両腕を伸ばした。
「おお、弥二郎か・・」
武房が抱き上げると、童子は満面に笑みを浮かべて父の顔を見上げた。
弥二郎は武房の嫡男で、後の菊池氏十一代当主菊池隆盛である。男子としては幾分線が細いものの、人形のように美しい若君であった。父は美男の菊池武房、母は京一番と評判の右京大夫光資の娘、弥二郎の容貌は当然の結果と言えた。
弥二郎を見て、八次の中で消したはずの苦い過去が、息を吹き返していた。八次が山奥のあばらや屋を捨てた時、弟の十郎左は丁度、弥二郎の年頃だった。食うものも無く、着る物無く、痩せて、汚れた十郎左の顔が八次の脳裡から離れなくなった。同じ人形でも、十郎左は、ワラを着せられた泥人形だった。
福岡村で炭焼きに明け暮れていた八次は、故郷に何度か足を向けかけたが、どうしてもあばら屋までは辿りつけなかった。その頃、八次の懐の中には一文の銭も、土産にする一握りの粟さえなかった。刀鍛冶の古い徒弟制度のなかでは、自分の腹が膨れるだけで十分、それ以上の望みなどは罰が当たる。銭も無かった、食い物も無かった、暇も無かった。
「それ故、わしは、生まれ育った家に一度も帰ることがなかった・・・」
人に聞かせる言い訳の種なら、掃いて捨てるほどあったが、自分の心の重荷を軽くする言葉などあるはずもなかった。たかが一本の短刀に魅せられて、母を忘れ、十郎左と幼い妹を捨てた過去は、もがけばもがくほどに、重く冷たい鉛のようなしこりになっていた。
「して?」
武房から声を掛けられて、八次はようやく過去の呪縛から解放された。
「申し遅れました。・・手前、来鍛冶の教えを請うために、京に上ってまいりました・・」
八次が腰の短刀を外して武房の足元に横たえると、武房は鞘を払い刀身に目をこらした。
「見上げた刀鍛冶じゃ・・来の鍛冶場なら目と鼻の先、当主の国行殿は、よう知っておる・・」
武房は来鍛冶への口利きを快諾し、簡単な紹介状までしたためてくれた。
武房の屋敷がある四条から、南に一本下って東西に走る職人町が綾小路通りである。綾小路を天神川から二町ほど東に入った左手に、来の鍛冶場はあった。鍛冶場と言っても、福岡村とは大違いである。間口は、商家並みに小さかったが、奥行きは相当にありそうで、門の風情や敷石を見る限り、貴族や大店の屋敷と変わりがなかった。
八次が、茅葺の門を潜ると、正面に来客用と思われる大きな館が見えていた。門から館の玄関までの暗緑色の踏み石が敷かれていた。踏み石の右手には、苔むした灰色の石に紅葉がさしかけ、左手、黒竹の生垣の奥は、刀鍛冶の神、天目一を祭った小さな社になっていた。来客用の玄関の間口は広く、樫の分厚い板で張られた上がりかまちの奥には、杉の一枚板の衝立が置かれていた。
「お頼みもーす・・」
八次の音声に、直ぐに年配の手代らしき男が現れた。
「どちらさんで?」
「備前福岡から参りました、八次と申します・・」
手代は、八次が懐から取り出した菊池武房の書状を不審気に受け取った。
「備前福岡なあ・・しばらく、こちらでお待ちやす」
八次が待っている間にも、四、五人の武士が門を潜った。馬を引いた武士の後を追うように、炭俵を満載した荷車が繋がり、来鍛冶の繁盛振りがよく分かった。
「どうぞ、こちらへ・・」
手代の案内で、来客用の建物の裏手に足を踏みいれてみると、右手に長屋風の鍛冶場が三棟、左手に大小の炭小屋、中庭の奥には、しめ縄を巡らせた井戸が見えていた。
刀鍛冶の来は、来国吉が高麗から日本に帰化し開祖となった。二代目の国行も既に老齢に差し掛かっており、開祖国吉は随分前にこの世を去っていた。
「おお、この太刀、間違いなく父上の作じゃ・・」
国行は八次の刀を見るなり、言い切った。
来国吉の刀に銘はなかったが、細身で輪反りの姿と、その地鉄の肌合いから、国吉の作であることに疑いがなかった。八次が国吉の太刀の来歴を語ると国行は頷きながら呟いた。
「父上は良き時代の鍛冶じゃった・・年に数振り打てば、六波羅が食わせてくれた・・」
国行が言う六波羅とは、平氏政権を指していた。
平氏は政治の中枢を京都六波羅に置き、宋との貿易に力を入れた。物資の移動と共に多くの渡来人が日本に帰化し、特に、刀鍛冶の来国吉は平氏政権から大切に扱われた。国吉が打った太刀は平氏一門の手に渡り、源平合戦の中で、多くが土に戻るか海の藻屑となって姿を消していた。吉兵衛の来国吉も、平氏が屋島の敗戦から西に落ちる際に、研ぎに出していた一振りが置き忘れられたものだった。
「国行様、それがしも何時かは、父君のような太刀を打ちたいと思い、京に上って参りました。・・」
「ご事情は、菊池の御館様の書状で承っております。・・ところで、御自分の刀はお持ちか?」
来鍛冶の棟梁として当然の質問だった。八次が来鍛冶で刀を打つ限り、出来た刀は来の刀である。八次の腕に難があれば、手伝いをさせる事はあっても、刀鍛冶として小槌を握らせる訳には行かなかった。
「恥ずかしながら、これが、それがしの一振りにて・・・」
八次は腰から短刀を外して国行に手渡した。国行が短刀を見ている間、八次は生きた心地がしなかった。国行が納得しなければ、来鍛冶への弟子入りさえも怪しかった。
「良き刀じゃ・・・八次殿が気の済むまで、居られたら宜しかろう」
国行は、快く八次の逗留を許してくれたが、八次には、来の鍛冶場は居心地が悪かった。国行は温厚な働き者で弟子達も親切だったが、京言葉と来客の多さに閉口した。それに、八次としては、田舎武者の菊池の御館様や季長の方が肌に合っていたようだ。八次は、菊池屋敷の長屋に居を構え、来の鍛冶場と行き来しながら修行に明け暮れることになった。
来国行には、二男、一女があり、長男国俊二十九歳、次男国末二十五歳、年の離れた娘、き乃は、まだ十二になったばかりだった。漆黒の髪に隈取られたき乃の小さな顔は雪のように白く、伏目がちの切れ長の瞳は何処か物憂げだった。立ち居振る舞いは控えめで、めったに口を開く事はなかったが、何故か、八次にはすぐになついた。き乃は、八次を「ハチ殿」と呼び後をついてまわった。
「ハチ殿は、なにゆえ京に居るえ?」
「ハチは、刀が好きでござるゆえ・」
「男衆は、皆、刀が好き・・き乃には、わからん」
「何故で、ございましょうな。・・きっと、刀の精に憑かれておるのでございましょう」
「刀の精かえ?」
そんな、童女との他愛も無い会話に、不思議な安らぎを覚える八次だった。
八次はき乃を連れて、度々、菊池屋敷を訪れた。き乃は、兄弟としては、年の離れた二人の兄しか知らず、弥二郎とは直ぐに仲良くなった。八次二十歳、き乃十二歳、弥二郎四歳。傍から見れば、三人は仲の良い兄弟に見えたに違いない。
三人は連れ立って良く川遊びに出かけた。来の鍛冶場の前を小川が流れており、その川は、西に二町下って天神川に注いでいた。その合流点は、広い砂洲になっていて、遊びの種には事欠かなかった。田舎育ちの八次は、弥二郎のために川に入って魚を捕り、き乃には岸辺の野菊を摘んでやった。
「八次、相撲じゃ・・」
弥二郎は見かけによらず活発で、川遊びに飽きると、八次に相撲をせがんだ。
「さあ、ござれ」
八次が肩袖を抜くやいなや、弥二郎は八次の太股に組み付いた。
「弥二郎様、押すだけでは敵は倒れませんぞ・・押すと見せて引き、引くと見せて押さねばの・・」
大男の八次の足に組み付いて歯を食い縛る弥二郎は、木に括り付けられた人形のようで、妙に可愛く、そして滑稽だった。