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刀剣小説 延寿 【蒙古襲来】  作者: KEN FOREST
第3章 竹崎季長という漢
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竹崎季長

日本の奮戦は、蒙古の野心を挫いたかに思われたが、翌年には、高麗人を使者に立てて、再び日本の服従を迫った。蒙古との戦いを目前に控えた武士にとって、文永の役を生き延びた武者は心の拠り所であり英雄だった。その中にあっても、一番駆けの竹崎季長と言えば実績、知名度抜群で、特別の恩賞があって然るべきだった。

鼻高々で凱旋した季長が、村人の大歓迎を受けて三ヶ月。待てど暮らせど鎌倉からの恩賞の沙汰が無かった。季長の自慢話を嬉々として聞いていた村人も、「只のホラ話か」と、疑い始めていた。


「・・おかしかなあ・・赤布まで結んで上げた手柄ばい・・その上、景資殿が生き証人・・おかしかなあ・・」


一番駆けの大手柄を挙げても恩賞が無いとなれば、武家社会の根底を揺るがす深刻な事態である。季長は考えも及ばなかったが、幕府は恩賞を与えたくても、肝心の土地がなった。防衛戦争では恩賞に充てる領土獲得は望めない。ちょっと考えれば、子供でも分かる理屈だったが、季長には、そのちょっとが無理だった。


「行って、鎌倉に掛け合うてくるけん・・」


痺れを切らした季長は、親戚一同が止めるのも聞かず、鎌倉幕府との直談判を強行した。領地を質種にして手に入れた鎧兜を僅かの銭に替え、従者一人を連れ歩いて鎌倉へ向かった。肥後から鎌倉まで、徒歩で二ヶ月の距離である。喰うや食わず、乞食同然で辿りついた季長は、肥後の守護にして幕府の恩賞奉行、安達泰盛の館を訪ねた。


「・・なに?・・恩賞の沙汰が無い?・・・」


安達泰盛は、季長の話を聞いて絶句して見せたが、内心では、

(困った男じゃ・・鎌倉まで出張りおって・・)

と困り果てていた。しかし、一番手柄の季長に恩賞を与えなければ、御恩と奉公で築きあげられた幕府御家人制度が崩壊してしまう。


「何かの手違いじゃ・・明日にでも執権様に・・」


執権様とは北条時宗のことで、恩賞奉行自らが、時の最高権力者と季長の恩賞について交渉してくれると言う。


「かたじけない・・はるばる鎌倉まで来たかいがあり申した・・・」


単純な季長は、泰盛の言葉に小躍りして喜んだ。

 季長の登場で困ったのは、鎌倉幕府である。恩賞に当てる土地も無かったが、蒙古襲来は西国の辺境で起こった小さな事件としてやり過ごしたかった。次の蒙古襲来は目前に迫っており、田舎武者への恩賞の沙汰どころでは無かった。しかし、恩賞奉行の安達泰盛に「一番駆けの御沙汰や如何に?」と正論を吐かれては、幕府も知らぬ振りも出来なかった。

さんざん頭を捻った挙句、誰が思い付いたのか、検地を実施して恩賞のための土地を確保した。検地とは、農地の面積や収穫高を正確に把握する実地調査のことである。

鎌倉時代、開墾による農地の拡大、あるいは、単位面積あたりの収穫高の向上で、表向きの土地台帳をはるかに凌ぐ農業生産力があった。その差を幕府が召し上げ、季長を始めとする手柄のあった百人余りの御家人に恩賞を与えた。恩賞を手にした季長等は良かったが、血と汗の滲んだ土地を取り上げられた地方領主は堪ったものではなかった。さらに、小弐景資や菊池武房には一片の恩賞も与えられず、鎌倉幕府御家人の中に不満の種を蒔くこととなった。


待望の恩賞手形を手にした季長は、帰る途中、菊池武房の京屋敷に立ち寄り、そのまま京に居座ってしまった。西国武士にのみ課されていた異国警護番役が、文永の役の後は、全国の御家人に適用され、番役を課された武士達は、京を通って博多へ向かった。京に長居することになったのも、九州へ向かう御家人への対蒙古戦法の伝授だった。別に、幕府からの要請があったわけではないが、自然にそうなってしまった。


「鉄砲に馬は驚き申すが、大した事はござらぬ・・・」


蒙古軍と戦った経験の無い者にとって、英雄竹崎季長の心強いセリフである。

季長の言う鉄砲とは、火を吹きながら飛来し爆発する見たこともない武器だった。陶器に黒色火薬を詰めた鉄砲は、それ自体の殺傷能力よりは、爆発音で馬が暴れたり、大量の煙を発するなど、心理的効果が大きかった。


「問題は、弓じゃな・・」

「弓と申されると?・・」

「一〇〇間先から飛んでくる・・」

「一〇〇間とは、また、大げさな」


いつもの、会話である。一〇〇間と言えば、二〇〇m。日本の木と竹で作られた弓では想像も出来ない蒙古弓の威力だった。

季長は、蒙古弓の詳細を説明するのが面倒になっていた。相手が「大げさな」という言葉を吐いたら、天神川の河原に出て蒙古弓を引いてみせれば良かった。樫板を狙えば簡単に打ち砕き、空に向かって放てば青空に吸い込まれて行方知れずとなった。

これで、大抵の武士は肝を潰した。肝を潰す分には一向に構わないが、中には、完全に腰が引けてしまう武士もいる。いざ蒙古軍と対峙した時、怖気づいて逃げられては、日本武者団の存亡に関わる。武者団の崩壊は、即、日本国の滅亡を意味していた。


「なあに、弓矢合戦の間は死んだ振りをしておいて・・頃を見計って切り込むのよ・・」


ここで、季長は左頬の矢傷をなで、米の研ぎ汁で作った偽酒をあおって見せる。酒がまるでダメな竹崎季長、精一杯の演出である。


「それで?」


季長の話を聞いていた全員が膝を乗り出し、生唾を飲んだ。

源平合戦から八十年、平和な時の流れが、武士の気概を腐らせ始める頃だった。武士としての面目や誇りは有り余る程持っていたが、肝心の度胸も、度胸を育む戦の経験も無かった。


「存外・これが弱い・・」

「弱い?・・・どう弱い、竹崎殿・・」

「・・・・」


ここで、季長は、一寸、相手を焦らしてやる。

武士としてこんな気持ちの良い事は無なかった。竹崎季長、九州は肥後の田舎武者。手勢と言えば、今でも十騎足らずの下級武者。その季長に、全国の武士が精神的に屈服せざるを得なかった。


「第一、小さい・・まあ、元服したての童子ぐらいじゃな・・蹴れば倒れ、吠えれば逃げ散る」


季長の話に聞き入っていた武士達に生気が戻り、目に力が宿ってくる。


「二に、鎧を持たん・・革を着ておるだけじゃ・」

「何故、鎧を着ておりません?」

「わからん・・・」


この質問の答えに、季長は何時も窮していた。

鎧の違いは主力武器の違いである。蒙古軍の主力武器は弓。それも、二〇〇m以上の射程を持つ高性能の弓。弓矢合戦の防御手段は、盾であって鎧ではない。蒙古軍は弓矢合戦で負ければ、壊走する。仮に、肉弾戦になっても、革鎧を着ていれば、鉈のような蒙古の剣は防ぐことができた。結果、蒙古軍には、重くて運動性に劣る鉄の鎧を着る習慣が無かった。

それに対し、日本武者は、弓矢合戦の後は、薙刀か太刀による肉弾戦。骨まで切断する日本刀で斬られれば、小さな傷であっても只では済まない。必然、日本の鎧兜は、日本刀と同じ鋼板を太い糸で繋いだ頑丈なものになった。

季長は、続ける。


「何故かは、分からんが・・蒙古の鎧は紙のようなもんじゃ」


季長は口元だけに歪んだ笑みを浮かべた。武士達は、季長の氷のような眼差しに耐えきれず話題を変えた。


「で、竹崎殿は、先の役で、何人斬られた?」

「首を落としたのが三・・・」


言いながら腰から傷だらけの短刀を抜いて、首を掻く真似をしてみせた。


「十人まで斬ったのは、覚えておるが・・・」


真っ赤な嘘である。実際に、季長が斬ったのは五人。五人斬って立ち往生していた所を、菊池武房に助けられていた。しかし、斬った数は別にして、季長の言った事は概ね間違っていなかった。

鎌倉時代の日本武者の体格は蒙古軍を遥かに凌いでいた。当時を記した蒙古側の記録に「倭人は化け物のように大きく、十人がかりでも手に余った」とある。敗戦の言い訳に、誇張して記録された事は否めないが、体格で優位に立つ日本武者が肉弾戦を有利に展開した事は確かである。


文永の役が終わると、八次が暮らす福岡村は空前の活況を呈するようになった。それまで鍬や鋤、斧や鎌を製造していた鍛冶でも、来るべき蒙古の襲来に備えて刀やヤジリを作った。鍛冶の中で特別な存在だった刀鍛冶は一般化し、福岡村は日本刀の一大産地として全国に名を馳せることになった。

平安時代、貴族の太刀は儀式用で、豪華な拵えの中身は鉄板である場合もあった。武士の台頭に伴い、太刀は再び武器としての機能を取り戻し、反った姿に美しい刃文を持つ日本刀の原型が出来上がった。

平安末期、後鳥羽上皇は、御所の内に鍛冶場を開き、全国の刀鍛冶を集めて日本刀を打たせた。上皇自身も槌を握って太刀を鍛え、菊の御紋を銘として刻んだ。上皇の相槌が一文字鍛冶であれば、太刀には「菊の御紋」と「一の字」が刻まれ、有名な「菊一文字」として今日まで伝っている。

八次が理想とする日本刀、品格ある姿と美しい地肌、鉄を切っても刃こぼれしない強靭さ、そして、馬の首さえ手応え無く切り落とす切れ味。この三拍子が揃った究極の日本刀は、平安末期には完成の域に達しており、貴族や守護・地頭などの上級武士の間で珍重された。

文永の役の後、太刀の需要は上流階級から、蒙古兵と直に刃を交えなければならない下級武士に移っていった。蒙古襲来を生き延びた武者が太刀に求めたのは、第一に鉄を叩いても折れない強靭さ、第二に敵を斬り続けても鈍る事のない刃持ちの良さであった。

時の流れと共に、日本刀の神秘性は次第に薄れ、蒙古を斬るための実用的な機能のみが求められた。日本刀に実用性だけを求めるのであれば、値段は安い方が良いに決まっている。


「福岡村の一文字は、値の割には良い刀を打つ」

「福岡村の一文字は、鉄を切っても刃こぼれせん」

「福岡村の一文字は、注文通りに刀を打つ」


下級武士にとって、備前の刀は「美味い」「安い」「速い」の三拍子が揃った大人気商品となった。太刀を求める客は押し寄せ、福岡村一帯は、戦争特需に沸き返った。鞘や柄を作る鞘師、ハバキという口金や装飾金具の金属加工が専門の白金師、ツバを作る鍔師。終には、女郎屋や市まで立つ賑わいを呈した。今日まで続く岡山県瀬戸内市の「福岡の市」の始まりである。


八次に限らず、名のある刀鍛冶は漏れなく、「刀の精」に憑かれている。刀の精は「何時の日にか、一世一代の名刀を創り出せる」という幻想の海に刀鍛冶を沈め続ける。一山を丸裸にして炭を焼き、山中を徘徊して砂鉄を探し、得られた鉄の百分の一しか日本刀にはなり得ない。さらに、良質の鉄を焼こうとすれば、山の一つや二つは、あっという間に禿山と化す。最良の松炭で、鉄を沸かし、叩き延ばしては折り曲げ、また、叩き延ばす。これを繰り返して日本刀の刀身を鍛造するが、その過程で殆どの鉄は火花となって中空に消えて行く。

良い刀を本気で望めば、銭は幾らあっても足りたものではない。日々、現実と妥協しつつ、鎌や鍬を叩き出し、ナマクラ刀を打っては小銭を貯める。刀鍛冶は、あと一貫文、もう一貫文と小銭を貯め続けるが、内に棲む「刀の精」が、我慢できなくなる。「刀の精」にそそのかされた刀鍛冶が、「今度は、いけるだろう」と思った瞬間、一文無しに転落する。それほどの禁欲生活の挙句、出来上がった刀の出来が良ければ祝い酒、悪ければヤケ酒である。これを、永久に繰り返しているのが古今東西の刀鍛冶である。この刀鍛冶の生き様が、只の鉄塊を名刀に変えた、と言っても言い過ぎではない。

急速な時代の変化の中で、吉兵衛こと、福岡一文字吉弘の刀鍛冶としての弱点が露呈した。吉兵衛は、刀鍛冶としては合理的で現実的すぎた。合理性の基準になるのは、数字である。時間、労力、そして銭。銭は合理性の根幹を成す値であり、非合理性の象徴である「刀の精」とは水と油、根本的に相容れない価値観である。

吉兵衛は、大酒呑みでも無ければ、貧乏神を同居させてもいなかった。当時としては、高床式の立派な家に暮らし、酒も嗜む程度。鍛冶場でも命を削るような作刀はせず、注文に応じて、それなりの刀を打っていた。文永の役の後は、吉兵衛の弟子や一族、ひいては、福岡鍛冶集団全体が、首領の影響を受けることになった。

八次が、渾身の短刀を打ち上げたのは文永の役の直前、経済という銭の流れが、理想に生きてきた刀鍛冶の心を蝕み、日本刀が、神秘的な芸術作品から、実用的な工芸品に身を落としてゆく変化の時代である。吉兵衛は、銭の力の趣くまま、福岡鍛冶を采配して、大量の武具を生産するようになった。それまで、鎌や斧に使われていた二級品の玉鋼は刀に化け、鍋や釜の粗悪な鉄は矢じりとして大量に使用された。

福岡の街の辻々には、刀を並べた即売会場が設けられ

「一文字の切れ味、とくと、ご覧あれ」

掛け声と共に、鉄の板を切って見せるのである。

良く鍛えられた日本刀が鉄を切断しても刃こぼれしないのは当然の事であるが、田舎武者を騙して砂金を巻き上げるには十分な効果があった。田舎武者は争って福岡の刀を買い求め、次には、辺りにたむろする白金師や鞘師の餌食となった。

さすがの吉兵衛もこの頃になると、一文字の証である一の字さえ刻むことを禁じるようになったが、時の流れは止められず、福岡一文字と称する大量の紛い物が世に出回ることになった。

 

(わしは、こんな刀を打つ為に、ここに居るのでは無い・・)

八次が幾ら嘆いても、どうにもならなかった。


「お師匠様、私はこれで良いのでしょうか・」

「何が不足じゃ?・・好きな刀も打てるし、暮らし向きにも困ってはおらんではないか・・」


吉兵衛は、八次から目を逸らした。

世間の目から見れば、大多数の福岡鍛冶も、八次の暮らしも、何不自由の無いものだった。特に、吉兵衛の場合は、功成り名を遂げた福岡一文字派の首領である。しかし、八次の目にはそうは映らなかった。この一年、吉兵衛の鍛冶場に火が入った事もなければ、槌音が響いた事もなかった。八次が一人前になったのを境に、吉兵衛の目からは生気が失われ、急に老け込んだようだった。「刀の精」から見限られた刀鍛冶の末路である。


「お師匠様は、何故に刀をお打ちになりませぬ?」


八次は、吉兵衛の目を真正面から見据えた。


「やれるだけの事はやった。・・・それなりの一振りもある・・」


口先だけの真っ赤な嘘である。八次は、吉兵衛の奥の奥にある心の淀みを見て、さらに一歩踏み込んだ。


「お師匠様の一振りとは?」

「知れた事よ・・先ごろ、執権様にお買い上げいただいた太刀に決まっておるではないか・・・」


また、吉兵衛の嘘である。いかに年老いて目が悪くなったとは言え、福岡一文字吉弘の最上作が、あの太刀では無い事ぐらい、吉兵衛自身が一番良く分かっていた。


「あの太刀でございますか・・」


八次は滅入るような気持ちで肩を落とした。

吉兵衛は、肩を落として塞ぎこんだ八次を哀れに思ったのか、ボソリと口を開いた。


「八次、お主も憑かれておるようじゃの・・・八次、京へ行け・・それしか、手はあるまい・・」

「京でございますか?」

「京じゃ・・お前の求める太刀は京にある・・そこで、待っておれ・・」


言い置いて吉兵衛は奥へ姿を消した。随分間があって、吉兵衛は鍛冶場の白装束に衣を改め、烏帽子の紐を顎でキリリと締めて姿を現した。両腕には、古びた麻布で包まれた細長い箱が抱かれていた。


「そこへ直れ、八次」


吉兵衛の声に力が戻っていた。威厳を取り戻した吉兵衛の眼差しに、八次は、居住まいを正し、両手を板張りの上に着いて頭を垂れた。

コトリと音がして八次が顔を上げると、黒ウルシの地に金彩でモミジを描いた美しい刀箪笥が置かれていた。箪笥とは言っても、刀を保管する細長い箱である。その刀箪笥を見た瞬間、八次は全てを理解した。目前の箱の中に、師匠、吉兵衛の生き様を変えた刀の精が棲んでいた。


「わしの夢であり、刀鍛冶としての魂が、その中に入っておる。ぬしに呉れてやろう」


八次が顔を上げた時には、吉兵衛は踵を返し部屋を出るところだった。八次にとって、この後姿が、吉兵衛こと、師匠、福岡一文字吉弘の最後となった。

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