文永の役
文永一一年(一二七四年)十月五日、蒙古・高麗連合軍四万が九百隻の軍船に分乗し対馬を襲った。対馬は朝鮮と九州とを隔てる海峡の中程に点在する島々の総称である。その対馬群島と九州博多の中間あたりにポツンと浮かんでいる小さな島が壱岐島である。
宗一族に率いられた対馬守備隊八十騎は、蒙古の大軍に一騎打ちを挑んで、瞬きの間に全滅。あわてて森の奥に逃げ込んだ島民は狩り出された挙句、全員が殺された。蒙古軍は勢いを駆って九日後には壱岐島を占領した。
壱岐では、島に住む農夫も漁師も、果ては女子供、老人まで、守備隊と運命を共にしていた。鋤や鎌を手に加勢した男集は、指を切られ、手足を切られ、挙句には舌まで抜かれるなど、激しい拷問のあげく全員が惨殺された。子供は奴隷として連れ去られ、女は手の平に穴を空けられ、その穴に通した縄で蒙古船の船べりに数珠つなぎに飾られた。
壱岐を占領した蒙古の一部は、長崎の平戸、佐賀の伊万里の村々を襲いながら博多に向かい、主力の大船団は、十月二十一日、壱岐の瀬戸の浦から博多に向けて出港した。
博多防衛の最前線、筥崎八幡宮の本陣には、「蒙古船団、博多接近」の報が、続々と寄せられていた。現在、筥崎宮は博多港の東五〇〇mの福岡市街地に社を構えているが、当時は、博多湾に面した広大な松林の中にあった。
筥崎宮の境内に張られた陣幕の中、日本軍の総大将、少弐資能が、暗い面持ちで顔を上げた。
「ついに、来おったか・・」
少弐資能、建久九年の生まれというから、齢、七十七歳の高齢である。丸めたばかりの頭を黒頭巾で覆い、紫色の大鎧の下から覗く純白の衣が死装束のように思えた。
対馬守備隊の全滅、引き続く壱岐島の悲報は、翌々日には資能の下に届けられた。両島守備隊の運命は覚悟していたが、島民の惨状を聞くにつけ、己の不甲斐なさと残虐な蒙古への憎しみに資能の胸は激しく震えた。
「なんとも酷き振る舞いかな・・鬼神となって蒙古を喰らい尽くさん」
資能は、辛くも生き延びた島民の目の前で、己の白髪に脇差の刃を当てて、髪を下ろしたのだった。
資能が陣幕の中を見回すと、血の気を無くした武者の顔が並んでいた。鎌倉から派遣された武者達は、華美な鎧に身を包み、一様に細面の色白で、公家のような匂いがあった。空ろに見開かれた目は、縋るような眼差しで資能を見詰め、青ざめ、粉を吹いた唇は半開きのまま震えていた。
その鎌倉武者達は、ほんの昨日まで
「来れるものなら来てみよ、坂東武者の恐ろしさ、骨の髄まで教えてくれるわ・・」
と豪語してはばからなかった。
坂東とは箱根の東側、現在の関東地方を指す。坂東武者は平氏を倒した源頼朝の支持基盤であり、かつては自他ともに認める勇猛な武者団であった。源平合戦から八〇年余り、平和な時の流れは、坂東武者から気骨を奪い、無用な誇りと華美な鎧だけを残した。
(昨日の坂東武者は、何処へ行った・・)
資能が、心の中で舌打ちをして立ち上がると、鎌倉武者達は釣られるように腰を浮かせた。
「各々方は、陣屋にて、しばし待たれよ・・誰かおらぬか!」
浮き足立つ武者達を残して、資能は幔幕を跳ね上げた。
「ここに」
資能の目の前に若武者と呼ぶには、今だ幼い孫の資時が平伏していた。
少弐資時、元服を済ませたばかりの十二歳だった。資時は幼少より、利発で覇気に富み、武芸にも優れていたが、武家の三男坊。いかに才気があって武勇に優れていようが、長子相続が武家の習いである以上、資時が表舞台に立つ機会は望めなかった。
資時を覆い隠すような大人物の鎧兜は、元服の祝いに資能が贈ったものだった。
「すぐに、一人前の武者になりますゆえ・・」
資時は、子供向けの鎧ではなく、大きく重い本物を欲しがった。
(・・けなげな奴じゃ・・その鎧が、体に馴染むまで生きていてくれ・・)
資能は、資時の姿をしばらく見下ろしていたが、思いを断ち切るように顎を上げ、海に向かって一歩を踏み出した。
「資時、ついてまいれ」
筥崎八幡宮の四方を囲んだ赤塀に設けられた小ぶりの門を潜ると、赤松の林を抜けた西日が資能の瞼を焼いた。風に揺れる松林の中、海に向かって砂を踏む資能の足取りは重かった。
(かくなる上は、武者らしく散るまでよ・・)
何度言い聞かせても、悔しさに震える自分自身が情けなかった。
八年前、蒙古の使者が日本との国交を求めて大宰府の鎮西探題を訪れた。鎮西探題は、朝鮮の「高麗」、中国の「宋」との外交窓口であり、その長官が太宰少弐、少弐資能であった。この頃、蒙古は既に高麗を滅ぼし、中国の大部分を支配下に収め、宋国を中国南部に追い詰めていた。高麗や宋との関係が深かった日本にとって蒙古は敵国に当たるが、敵に回すには余りにも恐ろしく強大な国であった。
当時、博多の街には、蒙古から逃れてきた多くの宋人や高麗人が身を寄せていた。
「どこそこの国は、蒙古に抵抗したため、赤児ともども根絶やしにされた・・」
「どこの何がしは、蒙古を裏切ったために、車裂きにされた上、一族郎党が焼き殺された・・」
帰化人が伝える身の毛もよだつ蒙古の噂は、博多の町衆のみならず、近隣の民百姓まで震え上がらせていた。
資能は、蒙古の使者を大宰府で国賓としてもてなし、蒙古との平和外交を促す手紙を添えて蒙古国書を鎌倉に送った。ところが、国書末尾の「国交が叶わぬ時は、兵を用いることもいとわず」の文言が、鎌倉幕府の誇りを逆なでした。時の執権北条時宗は、国書を無視する方針に決定、当然、資能の平和外交路線も黙殺されることになった。
資能は鎮西探題の要職にあったが、鎌倉幕府における立場は微妙なものだった。資能の父、武藤資頼は、源氏の基盤である坂東の生まれでありながら、平氏政権の時代には平氏に味方し、源平合戦で平氏不利とみるや寝返って源氏に投降していた。以来、武藤資頼に猜疑心を抱く者も少なくはなく、その子資能にも冷ややかな目が向けられていた。
「さすが、武藤の倅よ・・今度は、蒙古に鞍替えか・・」
蒙古との平和外交を主張する資能に対して侮蔑を交えた陰口が絶えることがなかった。
結局、鎌倉幕府は、蒙古使節を二ヶ月間も大宰府に留め置いたあげく、返書も持たせぬまま追い返した。以来八年、蒙古との戦いを覚悟した資能は、鎌倉幕府に援軍を請い続けたが、援軍どころか、「少弐殿の臆病なことよ」との風評が流れて来るばかりであった。
結局、資能に与えられた兵力は、西国の武者一万騎余り。その上、九州では平氏の影響が今だ色濃く、小弐一族は、鎌倉幕府の薄汚い手先に映った。博多、ひいては日本国を守るべき少弐資能は、孤立無援の中で蒙古軍四万を迎え撃たねばならなかった。
戦場で命を散らすのは武士の本懐。しかし、鎌倉から派遣された武者を見るにつけ、資能の心は悔しさと苛立ちにかき乱された。
(かくなる上は、武者らしく散るまでよ・・)
資能は、いま一度、胸に呟いて夕陽に顔をあげた。
筥崎宮の松林を抜け、防塁とは名ばかりの石積の上に立って見ると、博多湾の左手に浮かぶ能古島が、黒々としたシルエットになって目の前に迫っていた。キラキラと小波にきらめく海原に目を細めた資能が、手をかざして目を遣ると、能古島の右奥に志賀島が見えていた。晩秋の日差しを受けた志賀島の紅葉は赤く燃え、澄み切った群青の空のもと、木々の一本一本まで見えるような気がした。
「・・博多の秋は、美しいのお・・・」
呟くように洩らした資能の声を、海を渡ってきた一陣の風が遠くに運び去った。
志賀島を眺めていた資能の目の端が、能古島の縁に白い物を捉えていた。小さく輝く白い何かは、見る間に大きくなり、やがて全貌を現した。蒙古船団を率いる巨船の帆だった。一つ、また一つ。巨大な帆が、能古の島の背後から姿を現し、夕日を背に受けた白い帆は、黄金色に燃え上がっていた。
「資時、これへ」
小さな資時が、大鎧を鳴らして、資能の前に片膝を付いた。
「資時・・明日の夕日は、見れぬやも知れぬ。・・せめてもの、爺からのはなむけじゃ・・」
資能は背負った矢筒から、一際大きな矢を抜き取った。黒と白の鮮やかな鷹の羽を植えられた朱塗りの鏑矢が、資時の目の前に差し出された。
「・・じじ様・・」
資時は、一度、大きく目を見開いたが、唇を噛んで鏑矢を押し頂くと、頬を真っ赤にして涙をこらえた。鏑矢は、開戦の合図に放たれる笛を仕込んだ一番矢で、全軍を代表する武者に与えられる最高の栄誉である。
秋の西日が輝きを失い、青い闇が迫り来る頃には、蒙古船団九〇〇艘が、博多湾を埋め尽くした。青い闇が漆黒の帳に変わるにつれ、蒙古船の舷側に下げられた灯火は、博多湾を華やかな光の海に変えていった。
資能が筥崎宮に戻ってみると、本陣は死んだように静まり返っていた。赤々と燃える篝火は境内を照らし、塑像のように立ち尽くす武者の群れは、資能から目を逸らしたまま道を空けた。水を打ったような静けさの中、篝火の爆ぜる音を縫って幔幕を潜ると、鎌倉武者達が資能を取り囲んだ。
「少弐殿、蒙古軍四万というのはまことか」
「いかにも!」
オウム返しに答えた資能の語気には、あからさまな棘があった。この場に及んでも腰の据わらない武者どもを目にして、資能の堪忍袋の緒が切れかけていた。
「まさか・・四万とは大げさな。幕府御家人あわせても・・」
「だまらっしゃい!・・いかにもと、申しておるではないか!」
資能、年は七十七、歯止めの効かぬ老境に入ってもいたが、積年の我慢が限界に達していた。老武者の怒気と火を噴かんばかりの眼光に、鎌倉武者達は鎧を鳴らして後じさった。
「この期に及んで、敵の数など何の意味がある!数を云々するには遅すぎるわ・・」
資能の言葉を軽んじてきた鎌倉武者は、返す言葉も見つからぬまま唇を噛むより他はなかった。しかし、この時の資能に対する逆恨みとも言える歪んだ憎しみは、鎌倉武者の中で暗い炎となって燻ぶり続けることになった。
博多湾を埋めた大船団を前に、武者達は、湾岸に築かれた防塁の上に陣取り、あらん限りの篝火を焚いて蒙古軍の上陸に備えた。夜半を過ぎると、蒙古船団の灯火は、一つ、又、一つと、明りを落とし、東の空が白み始める頃には、薄っすらと水面を覆い始めた朝霧が、蒙古の大船団を包み込んでいた。
日の出と共に、沖に停泊していた五隻が、霧の帳を引き裂きつつ、筥崎宮めがけて漕ぎ寄せた。重量四〇〇トン、長さ四〇m、帆の高さ三〇m、砂浜で待ち受ける武者達の目には、筥崎宮の社が迫るほどに映ったであろう。四〇〇トンの船と言えば、日本近海を航行するフェリーほどの巨大さである。
赤く塗られた舷側から突き出された四〇本の櫂は、一糸乱れぬ調子で海を掻き、極彩色の旗をなびかせながら箱崎の砂浜に迫っていた。
「グヮァーーン」
突然、一発の銅鑼の音が、張り詰めた緊張の糸を断ち切った。銅鑼の音を合図に、博多湾を割るような大音声が、霧の奥から湧き起こった。鐘を打ち鳴らす金属音は、武者の耳を刺し、太鼓の皮の震るえは、鏡のように凪いでいた水面を波立たせた。馬は驚き跳ね回って武者を砂浜に振り落とした。防塁の上で弓を構えていた郎党どもは、膝を折って両手で耳を塞ぎ、青ざめた額に脂汗を浮かべて顔をしかめた。
浮き足立った騎馬武者の間を縫って、葦毛の馬に跨った少弐資能が進み出た。鎧兜は勿論、太刀さえも佩かず、墨染の衣に細い鞭だけを手に悠然と駒を進めた。資能は、波打ち際で手綱を引き絞ると、いきり立つ馬の首を優しく叩きながら、目の前に迫る巨船の帆柱を見上げた。資能から蒙古船までの距離、五〇m余り、双方の顔がはっきりと見える距離だった。
船べりで鐘や太鼓を打ち鳴らしていた蒙古兵達は、高齢の資能の姿を見るや、盛んにはやし立てたが、資能は、淡々と馬の首を穏やかに叩き続けた。やがて、浮き足立っていた日本軍は落ち着きを取り戻し、不思議なことに、蒙古兵までもが銅鑼を叩く手を止め、静けさの海に飲み込まれていった。
「資時、前へ」
凛とした資能の声が、朝の冷気を割って水面に響き渡った。
騎馬武者の列から、栗毛の馬に跨った小さな資時が姿を現した。資時は、無人の野を行くように波を分けて、蒙古船の間近まで駒を進めた。ゆったりとうねる波は馬の腹を洗い、手が触れるほどの近さに、蒙古船の舳先がそそり立っていた。資時は、大弓を真正面に構えると、ゆったりとした仕草で背中の矢筒から鏑矢を抜き取った。
引き絞る弓に合わせて顔を上げる資時。その目は、舳先から見下ろす蒙古兵を睨みすえていた。資時の目を見た蒙古兵の毛穴と言う毛穴が収縮した。女のように細い顔に切れ長の目、細められた目の奥から揺らめき立つ青い炎が、蒙古兵の心を凍らせていた。
「ヒョーゥー・・・」
蒙古兵の頬をかすめた鏑矢は、切ない声を放ちながら虚空を駆け、帆柱に飾られた軍旗を見事に切り裂いていた。矢をよけた蒙古兵が無様に尻餅を突くと、砂浜に並んだ騎馬武者の喝采とどよめきが、地鳴りのように蒙古船を推し包んだ。
大弓を脇に抱え、悠然と駒を返す孫の姿に、資能は、誇らしくもあり、今日にも散りゆく青い命が哀れでもあった。
「あっぱれじゃ・・資時、誇りに思うぞ」
すれ違い様、声を掛けた資能に、資時は、堂々と会釈を返し騎馬武者の列に戻った。
波打ち際で馬を廻した資能は、居並ぶ武者を見渡して声を張り上げた。
「童子に遅れるでないぞ!・・全軍、弓引けい!」
騎馬武者の後方、防塁の上で弓を構えていた郎党が、一斉に弦を引き絞った。
「ゴウッ」
大気を切り裂く千本の矢は、轟音を上げながら蒙古船団に襲い掛かった。しかし、蒙古船を狙った矢は、舷側に突き立つばかりで、船縁に身を隠した蒙古兵を傷つける事はなかった。
直後、蒙古船団から、砂浜に並んだ騎馬武者に向かって膨大な矢が放たれた。船縁に装着された弩から放たれた矢は、紙のように武者の鎧を貫き、喉をえぐった矢は、羽根の位置まで食い込んでいた。一度に、十本もの矢を受けた馬は、泣き叫び狂いまわった挙句、砂を巻き上げて横倒しになった。瞬きの間に、白い砂は赤黒い血に染まり、起き上がろうと空を蹴って悶える馬と、呻き声をあげる武者で満ちた地獄の浜と化した。蒙古の矢は、倒れた武者や馬にも容赦はなく、やがて浜辺に命ある者は無くなった。
主人の最後を盾の陰から見ていた郎党は、一斉に盾も持たずに砂浜に走り出た。蒙古の矢を物ともせず主人の遺骸に辿り着くと、涙ながらに首を切り落として持ち去った。
当時の日本では、戦場で首の残った死骸は、よほどの小物か、一族から見放された武者に限られ、主人の首を持ち帰るのは郎党の最後の務めだった。
幸か不幸か、郎党の命を懸けた高潔な振る舞いは、蒙古兵の目には、おぞましい蛮行にしか映らず、心の奥で小さな鬼が目を覚ますことになった。
「倭人は、仲間の首を刈っている・・」
蒙古軍に圧倒された守備隊は、筥崎宮の本陣を守るために、防塁を棄てて松林の中に陣を敷き直した。直後、資能の下に伝令が転がり込んだ。
「蒙古軍、百道浜から上陸!」
伝令は背中に数本の矢を受け、肩口から流れ出た血が、大鎧の白糸を赤く染めていた。
百道浜はモモチハマと読み、博多湾の中央付近、現在のヤフードーム一帯で、筥崎本陣からは西に四㎞ほど離れた広大な砂浜である。
「しまった!」
資能の顔からは血の気が失せ、全身から冷たい汗が吹いて出た。
蒙古軍の筥崎攻撃は陽動作戦で、船団の主力は深夜の内に防備の手薄な百道浜に移動していた。資能達が筥崎海岸で苦戦している間に、数百隻の蒙古船が百道浜に漕ぎ寄せ、万に及ぶ蒙古兵が上陸を開始していた。
石の防塁のある筥崎海岸では、一時的にせよ、蒙古軍の上陸を阻むことができたが、百道浜は盾を並べただけの貧弱な防衛線で、蒙古軍の上陸を阻止するのは難しかった。
百道浜から大軍の上陸を許せば、大宰府を守る最後の砦である赤坂本陣(現福岡城)は四方から攻められて一溜りもなかった。資能は、全軍に向けて赤坂本陣に集結するべく伝令を発したが、指示に従う者は僅かに過ぎなかった。後の世であれば、重大な命令違反であるが、当時は、御家人制度を土台とする鎌倉武家政権の時代である。
御家人制度では、全国の御家人、即ち武士は、「御恩と奉公」の関係で、将軍と直接結び付いていた。将軍のために戦場で手柄を立てるのが武士の「奉公」であり、恩賞として領地を与えるのが「御恩」である。その恩賞を与える権限は幕府の恩賞奉行だけが握っており、現場指揮官に過ぎない資能の命に従って討ち死でもすれば、恩賞どころか犬死にも等しかった。
武士は戦あっての武士。戦で手柄を立てるのが武士の家業であり、世に出るための唯一の道だった。源平合戦が終わると、その肝心の戦が長い間途絶え、奉公の機会を奪われた武士達は、一種の閉塞感の中で生きていた時代でもあった。そこに、降って湧いたような蒙古襲来。暴力と恩賞に飢えた獣の中に大きな肉塊が放り込まれたようなものである。
博多に集結した武者達は、ここぞ奉公の機会とばかりにいきり立ち、あたかも獲物を求める狼のように、大将首を狙って戦場を勝手に彷徨っていた。
「蒙古軍、百道上陸」の報が流れるや、武者達は持ち場を捨て、先陣を争って百道浜に馬を走らせた。駆けつけた武者は、先駆けの功名を争って一騎で蒙古軍の眼前まで進み出て、所定の口上を叫び始めた。
「我こそは肥前の御家人・・」
口上も済まぬまま、あわれ、針ねずみにされた騎馬武者は落馬し、馬は、血を噴出しながら狂いまわった。一騎、また一騎、血まみれになった武者と横倒しになった馬が、日本武者団と蒙古軍との間に無残に横たわっていた。
百騎余りが倒されて、ようやく愚かさを悟った日本軍は、騎馬武者の一騎打ちから弓矢合戦に切り替えた。騎馬武者は馬を降り、弓を抱えた郎党部隊の前列に陣取った。蒙古軍と日本軍の距離おおよそ百m。日本軍の弓矢合戦の間合いとしては、まだまだ距離があった。
日本軍が、盾も持たず矢も番えぬまま蒙古軍に向かって陣を進めるや、蒙古軍は大空に向けて一斉に矢を放った。空を覆い尽くした数千本の矢は、澄み切った百道の空を暗くするほどの数であった。驚いて空を見上げた日本軍に、蒙古軍の矢が土砂降りの雨のように降り注いだ。目を射抜かれて狂いまわる者、全身に矢を受け、立ちながらに息絶えた者、最初の一斉射撃で、数百人が地に臥していた。
日本人にとっては思っても見なかった蒙古弓の威力だった。短弓と呼ばれる蒙古の弓は、大さは和弓の半分程であったが、飛距離三百m、有効射程は優に百mを超え、和弓の倍以上の威力があった。その上、短弓は、速射性に優れ、操作も容易だったため、蒙古弓は、圧倒的な破壊力で日本軍を完膚なきまで叩き伏せた。
当時の和弓は、折れやすい木製本体に竹を一枚添えだけの伏竹弓の時代で、有効射程は五十メートル程度であった。対する蒙古弓は、鯨の髭を幾重にも張り合わせた弾力性に富む本体に、獣の腸を加工した弦は強靭なもので、威力、命中精度、速射性、あらゆる面で和弓を凌駕していた。因みに、日本の弓が、現代和弓と同等の威力を有するのは、戦国時代に、竹と木を複雑に張り合わせた弓胎弓が開発されてからである。
百道浜で日本軍が苦戦している間に、手薄になった筥崎海岸からも数千の蒙古兵が上陸し、日本の防衛線を次々に突破していった。このまま、百道浜と筥崎から蒙古軍の上陸が続けば、挟み撃ちに合った日本軍が壊滅するのは時間の問題だった。
「景資を呼べ!」
資能は筥崎宮を捨て、赤坂本陣に引き上げる途中、しんがりで奮戦していた三男の景資を呼び寄せた。
長男の経資は穏やかで、良く言えば実直、悪い見方をすれば凡庸、とても、手柄に狂奔する荒武者どもを統率する器量はなかった。それに対して弟の景資は、博多守備隊一万、名を知らぬ者などいない、剛で鳴らした日本一の弓取りだった。
「景資、百道浜から敵が上がった。赤坂は、わし等で防ぐ。百道浜の指揮を執ってくれぬか」
「承って候」
聞くが速いか、景資は幔幕を跳ね上げ、二人の従者がどうにか抑えていた灰色の荒馬に飛び乗った。