刀の精
弘村が庭に出て夜空を仰ぎみると、雪の乗った長塀の上に糸の様な眉月がかかっていた。藍色の蒼穹に敷き詰められた星は手が届くほどに近く、弘村の吐く白い息は、梢の雪と一つになって消えた。弘安五年正月、冷気が肌を切るような夜だった。
「わしは、何のために京まで来た・・」
弘村は太刀を包んだ錦の袋を胸の前で握り締めた。
弘村が袋の紐を解くと、優雅に反った太刀が姿を現した。弘村は、辺りに人の気配が無いのを確かめると、ゆっくりと鞘を払った。闇の中にあっても、刀身は雪明りで青の深い色を湛えていた。刃文は直線の直刃で、白く細い鋼の帯が切っ先に向かって真っすぐ伸びていた。
「美しい・・」
弘村は、それまで何度、この言葉を呟いただろう。声に出すこともあれば、心の中で呟く事もある。傍目から見れば、仏師が、寺の御本尊を仰いで「ありがたや」と唱えるのに似ていなくも無い。しかし、仏師は、自分が彫った仏像に「ありがたや」とは唱えないし、唱え得るだけの仏を自分が彫れるとも思ってはいない。ところが、刀鍛冶と言うやからは、何時の日にか自分自身で「美しい」と唱え得るだけの刀を打つ事ができると信じているところが、けな気でもあり、哀れでもある。
弘村は長い間、刀身を見ていたが、深く長いため息を残し、なごり惜しげに太刀を鞘に戻した。肩を落として鍛冶場に戻って行く弘村の後ろ姿を、妻、き乃は寒椿の陰から見ていた。き乃が袂で涙を拭いて椿の陰から足を踏み出すと、枝に乗っていた雪が落ち、夜目にも鮮やかな寒椿が姿を現した。
弘村が京に上ったのは鎌倉時代、中頃のことで、日本史上の大事件、蒙古襲来とほぼ同じ時期である。弘村は備前福岡村の生まれで、幼名を八次といった。今日、福岡と言えば九州の福岡市を指すが、当時の福岡は、現在の岡山県、瀬戸内市あたりの地名である。備前福岡村は日本一の刀の産地で、その歴史は奈良時代までさかのぼることができる。しかし、八次自身は刀とは無縁の幼少時代であった。父親の仕事は木こりで、山深い渓流のほとりに家があったというから、刀鍛冶で賑わう福岡村からは幾分離れていたようである。
家業の方も、木こりとは名ばかりで、八次の父親は、枝落としや下草の始末ばかりの下働きであった。当然のように台所回りは苦しく、日頃、口に入る物と言えば、木の実や山菜が主で、稗や粟さえも滅多に口にする事は無かった。
鎌倉時代になっても、庶民の家は弥生時代と同じ竪穴式住居で、八次の住まいも家と呼ぶには余りにも粗末な代物である。地面に穴を掘って太い枝を三角に組み、カヤを被せただけのあばらだった。一家五人、あばら家での腹を空かした暮らしではあったが、それなりに平和で穏やかなものだった。
八次、十二歳。突然、父親が倒木の下敷きになってこの世を去った。残されたのは、病弱な母親と八次を頭に子供ばかり三人。当時、女手一つで家計を支えるのは不可能で、一家心中するか、子を捨てて女郎屋に身を沈めるしかなかった。
一家の柱を失くし、木偶人形のように動かない母を見て、八次は木こりの親方の戸を叩いた。
「親方、おらに仕事を・・水汲みでも草履取りでも、なんでもしますけえ・・お願えしやす・・」
八次は親方と目が合うや、敷居を跨ぐ前に土間に額を押し付けた。
「・・ハチよ、そりゃ無理な相談だわ・・わっぱのぬしを雇うて、どうなる・・」
親方は哀れだとは思ったが、首を横に振るしかなかった。木こりの親方風情では、役にも立たない子供の面倒を見る甲斐性など無かった。
「後生だ、親方・・あれ以来、おっかあは、伏したままだ・・小せえ奴らは、もう三日も食ってねえ・・親方、後生だー・・」
終いには、突っ伏したまま声を上げて泣き始めた。
無理も無かった。ここで親方に見捨てられれば、一家四人、餓死するのを待つか、その足で、あばら家に火を放つしかなかった。
奥に戻りかけた親方も、さすがに心が痛んだのか、ワラで結んだ八次のまげをしばらく見下ろしていた。
「ハチ・・おめえ、何ができる?・・」
一家心中を覚悟していた八次は、神仏にも縋る思いで親方の顔を見上げた。
「・・オラの研いだ鎌はよう切れると、お父は言うてくれた・・・」
父親を思い出したのか、八次の目からまた大粒の涙が溢れ出した。
じっと八次の顔を見ていた親方は、おもむろに腰に下げた山刀の皮ひもを解き始めた。山刀とは、木こりや猟師など山野で生きる男達が、肌身離さず身に付けている短刀の事である。山に入れば、斧のように大枝を断ち、仕留めた獲物の皮を剥ぐ。川のほとりでは、魚を三枚に下ろし、挙句には、カミソリ代わりに髭まで剃る。
が、何と言っても、手負いの猪や熊との最後の戦いの場で、山男達はこの山刀に己の全てを預けるのである。山男にとって、この時の山刀は、一騎打ちに臨む武者の太刀と同じ重みがある。当時の合戦は、弓矢による消耗戦の後、武者は己の全てを一振りの太刀に賭け、最後の一騎打ちに臨む。その時、武者が太刀に寄せる思いも、手負いの熊と対峙した山男の山刀への思いも同じものである。
「ほれ、・・研いでみな・・」
親方が下げ緒ごと山刀を差し出すと、八次は、主家から刀を拝領する武士のように、片膝を着いて山刀を押し頂いた。
目の前で山刀の鞘を払った途端、八次の表情が一変した。一度大きく見開かれた目は、遠くを見るように潤いを帯び、口元には笑みの様なものまで漂っていた。何かに取り憑かれたようで、不気味と言えば不気味。見方によっては、村外れの弥勒菩薩の御顔にも思われた。
突然の八次の変わりように、肝を抜かれた親方は、柄にも無く落ち着きを失った。
「・・ど、どうした?・・ハチよ・・」
「・もんげえ・・」
備前の方言で「すごい」のことであるが、親方は意味が分からなかった。
「・・な、なにが、もんげえ・・」
「何がって、親方・・きれーじゃ・・もんげえ、きれーじゃ」
八次は、命綱である親方の事も、餓死寸前の家族の事も忘れて、うっすらと錆びの浮いた山刀に心を奪われていた。八次は知る由も無かったが、その山刀は、名刀の誉れ高い福岡一文字の一振りだった。
落ち着きを取り戻した親方の声には穏やかな響きがあった。
「ハチ・・おめえ、砥石は持っとるか?・・」
「へえ・・お父から貰った白いやつなら・・」
「それじゃ、駄目だな・・白い砥石じゃ鎌は研げても、山刀は無理じゃ・・」
親方は土間の隅に置かれた木箱の中から三種の砥石を取り出し、山刀の研ぎ方を事細かに教えてくれた。錆を落として形を整えるための粗砥、切れ味を出す中砥、中砥石の擦り傷を消し、艶を出す仕上げ砥の三種類である。
八次は、その夕刻から寝食を忘れて、一昼夜の間、山刀を研ぎ続けた。親方の期待に応えることより、福岡一文字の山刀そのものに魅せられていた。言って見れば、日の沈みかけた親方の土間で、八次は「刀の精」に取り憑かれた。以後、八次に取り憑いた刀の精は、よほど居心地が良かったのか、八次が最後の息を吐くまで、八次の中に居座り続ける事になる。
八次が研いだ山刀は、切れ味が違った。硬くなった枯竹を叩き切った後でも、生肉を豆腐のように切り分ける事ができた。さらに、山男達が喜んだのは、刃持ちの良さだった。
「ハチの研いだ山刀は、三年持つ・・」
三年は大袈裟だったが、噂はたちまち山男の間で広まった。
八次一家は餓死の危険からも、一家心中の悲惨さからも救われた。母親は床を離れて猫の額ほどの畑に出るようになり、弟も妹も屈託のない子供らしい暮らしを取り戻した。
相変わらず貧しさに変わりはなかったが、あばら家で一家四人、肩を寄せ合う暮らしに何の不満もなかった。好きな刃物を研いでいれば、一家が飢えることはなく、八次は、自分の天職に心底満足していた。しかし、八次に取憑いた「刀の精」は、そんな八次を放って置いてはくれなかった。
「八次と言うのは、お前か?」
ある日の午後、あばら家の入口に、恵比寿様のような顔をした恰幅の良い男が立った。黒い絹の着物に、艶やかな紺色の上着を羽織り、鹿皮の袴に足袋まではいていた。腰には小ぶりの短刀をさし、長い太刀を杖の代わりに握っていた。
「へえ・・八次は、おらですが・・」
八次の目は、男の顔や豪華な衣服より腰の小さな刀に注がれていた。
腰の短刀の柄は白い鮫革、鞘は革紐で巻き上げ、その上から赤い漆がかけてあった。八次は何かに憑かれたように、その美しい刀から目を逸らす事ができなかった。八次の無邪気な顔を見て、男が逆光の中で笑った。
「で、御用の向きは?」
八次は、我に返って顔を上げた。
「おお、そうじゃった。・・わしは、大鍛冶の源衛門じゃ・・」
男の名を耳にした途端、八次の目は点になり、口は呆けたように開いたままになった。やや間があって、八次は、激しく頭を土間にこすり付け、叩きつけられたカエルの様に体を低くした。備前にあって大鍛冶の源衛門の名を知らぬ者などいない。特に、木こりや猟師といった連中にとってみれば、男は神に近い存在であった。
大鍛冶とは昔の製鉄業者の事である。和鉄と呼ばれる日本の鉄は、砂鉄を木炭で溶かして鉄の塊を作る。文字にすれば僅かであるが、実際には、気の遠くなるような時間と手間、そして莫大な銭を必要とした。
砂鉄の沈殿した川底が、何百万年の間に隆起して険しい山塊に変わる。大鍛冶は、その山を切り崩しながら地層に含まれる砂鉄を掘り当て、集めた砂鉄を木炭で溶かして鉄の塊を作る。できた鉄塊は文字通り玉石混合、上質の鉄は太刀に、質の劣る鉄は農機具などの日用雑器に使用された。今も昔も、鉄は生活の基盤であり、文明を支える最も重要な金属である。その鉄を西日本一帯に独占的に供給していたのが、大鍛冶の源衛門だった。
この時代の製鉄法は、山の斜面に溝を掘って土の屋根を被せ、トンネル状の登り窯を作る。数日間、トンネルの土が溶けるまで炭を燃やした後、砂鉄と炭を交互に加えながら延々と燃やし続ける。古文書によれば、鉄の塊ができるまでに百日を要し、その炭を焼くため一山が裸になったと伝えられる。
当然、大鍛冶は炭の材料である木材を確保するため広大な山林を所有する必要があった。現在の岡山県から島根県に至る山林の全ては源衛門の持ち物で、この辺りの木こりや猟師などは、そのおこぼれで生計を立てている、と言っても言い過ぎではなかった。勿論、八次の家の敷地や畑も源衛門からの無断借用である。
八次にとって大鍛冶の源衛門は、この世に実在する神に近い存在だった。その生神様が、突然、あばらやの入り口に立ったのである。八次は、何か悪い事でも仕出かしたのかと、生きた心地はしなかった。
「八次よ・・心配せんでも、ええ・・」
源衛門は、穏やかな声で歩み寄ると、八次の目の前で胡坐をかいた。八次が恐る恐る顔を上げてみると、染み入るような恵比寿様の笑みがあった。
「どうじゃ・・わしの刀を研いでみんか」
源衛門は腰に差した小刀を、八次の目の前に差し出した。刀を目の前にした途端、それまでキョロキョロ落ち着かなかった八次の目が据わった。
「へえ・・」
無意識に手を延ばしかけた八次を見て、また源衛門が笑った。
「八次よ・・そんな手で触られたら、自慢の鮫革が台無しじゃ・・」
慌てて、八次が自分の手の平を見てみると、刃物の研ぎ汁で真っ黒だった。
鮫革は、刀の柄に巻く硬い突起で覆われた滑り止めの皮革である。鮫革は鮫の皮ではなく、実際は南洋産のエイの皮で、中国からの輸入に頼る貴重品だった。
「すんません・・」
八次が手を洗って戻ってみると、小刀は、刀身、柄、鞘の三つに分けられて布の上に並べられていた。八次が初めて目にする本物の刀だった。八次が研いできた山刀は、柄は刀身に固定され、鞘は木を削って蔓が巻かれた粗末な物ばかりだった。
ところが、どうだろう。八次の目の前に置かれた刀は、鮫革の柄は眼を刺すほどに白く、革を巻いた上から赤い漆をかけられた鞘は深い光沢を放っている。青みを帯びた細身の刀身には、ゆったりとした刃文が波打っていた。
「・・きれーじゃ・・もんげぇ・・」
「どうじゃ、驚いたか・・」
源衛門は満面に笑みをたたえて、鼻から息を吐いた。
「この鮫革はな、本来なら天子様の手に渡るはずじゃった・・ところがじゃ・・」
源衛門の話は八次の耳には届いていなかった。源衛門はその事も知らず、鮫革の由来を延々と述べまくった。源衛門の話が鞘に移ったところで、八次は堪らず口を開いた。
「・・御大臣様・おらは、刃物の事しか分からねえ・・」
源衛門は、少々ムッとしたようだったが、首を振って表情を緩めた。
「そうよな、鮫革もウルシも、お前にとっちゃ猫に小判か・・ほれ・・」
源衛門は、刀の茎と呼ばれる柄に差し込む部分を持って、八次の目の前に刀を差し出した。
刀が目の前に迫るや、八次の全身の毛孔と言う毛孔が一気に収縮した。やがて、額からは冷たい汗が流れ落ち、冷たくなった背筋から震えが這い登っていた。静止した世界の中で、八次の魂は肉体から抜け出し、青みを帯びた刀身に吸い込まれ始めた。
「どうした・・」
源衛門が幾ら問いかけても、八次の耳に届くはずもなかった。耳の奥では、小さなセミが鳴き騒ぎ、八次の目に映るものと言えば、空中に浮いている青い刀身のみ。それ以外、全ての物の輪郭がボンヤリと滲み始め、この世そのものが消えかけていた。
「これ・・いい加減にせんか!」
源衛門は、刀を下ろして言葉を荒げた。
目の前から刀が消えると、妖しい世界は、風船が弾けるように音を立てて消滅した。突然、この世に引き戻された八次は、反射的に土間に額を押し付けたが、脳裡には、妖しい輝きを放つ刀身が焼きついていた。地鉄は僅かに紫色を帯びた濃紺で、微細な鉄の粒子が春霞のように漂っていた。雪のように白く、ゆったりと波打つ刃文は、積み重なった綿の花を思わせた。
八次は、土間の上で身を固くしていたが、心の奥は自分でも驚くほど落ち着いていた。
「御大臣様・・その刀は」
「これか・・」
源衛門は、面白くなかった。八次が鮫革より刀自体に心奪われたのも面白くなかったが、小僧の妙に落ち着いた背中がしゃくに障った。
八次は大胆にも、返事を催促するかのように顔をあげ、源衛門の目を覗きこんだ。八次の目を見ている内に、源衛門の苛立ちは次第に影を潜め、不思議なことに、八次が長年の友だったような親しみを覚えた。
「この刀はな、福岡村の鍛冶が打ったものじゃ・・ナカゴに銘があったと思うが・・」
源衛門は、あばら家の破れから射し込んだ日の光に、ナカゴをかざした。
「そうそう・・吉弘じゃった・・」
「ヨシヒロ・・」
刀に銘がある事を知らなかった八次は、不思議そうな表情で源衛門の目に問いかけた。
「そうじゃ・・吉弘と言う名の刀鍛冶が打ったということよ・・」
源衛門は八次の目を見ながら刀を手渡した。八次は吉弘の文字は読めなかったが、文字の上に刻まれた鋭い横筋に目が留まった。刀のナカゴに刻まれた横筋は、福岡一文字派の象徴で、源衛門の短刀は福岡一文字吉弘の一振りだった。
「親方の山刀と同じじゃ・・一の字がある・・」
「ほう・・親方の山刀にも一の字があるのか?」
それまで、生き神様にとって刀など何の意味も無かった。
大鍛冶は、領地のために太刀を取って戦う必要も無く、鉄を独占しているかぎり身を守るべき敵もいなかった。源衛門は刀鍛冶から贈られた刀を捨てる訳にもゆかず、鞘や鮫皮に趣向を凝らして身に付けているに過ぎなかった。しかし、八次を見ているうちに、飾り物の小さな刀が源衛門の中で存在を主張し始めていた。
「へえ、あんにはあんじゃが・・肌のあんばいが大分違うようで・・」
「そうか・・どちらが良い刀であろうかの」
「親方には悪いけんど・・天と地ほどの差が・・」
「そうか・・天と地ほどのな・・わっぱにしては目が利くようじゃ・・」
木こりの山刀と御大臣様の刀では差があって当然だが、源衛門は機嫌を良くした。
「八次・・わしに、ついて参れ・・山で朽ちさせるには惜しい奴」
こうして、「刀の精」の思惑通り、八次は家族に別れも告げず、その足で山を降りていった。