山裾の村
プルセルポナ神殿は、新興の神殿だ。
つい百年ほど前にできたそれは、元々シアス神殿の分派で、ただの出張所でしかなかった。
それをシアス様の眷属だったあの女が貰い受けたのだ。
神殿の割譲は権能の譲渡を意味する。大した権能も持たない弱い神だったあの女は、そうして死者の主たる地位を得た。
人間は鰓を持たない。
ひとたび荒れればいくつもの命を飲み込む海を人は恐れ、死と結びつけた。
アンリタリテ神殿からほど近いその神殿のことを、親近感を持って捉えていたのはそのためだ。海に近い死者の神殿。それはまるで、海の性質を補強するかのようだと思った。
しかしそれも、管理者がシアス様であった頃の話。
頭の弱いあの女。ただシアス様の眷属であっただけの若輩に、死者の神殿はふさわしくない。
侵攻は二度目だ。一度目は権能の特異性に屈した。洞窟を埋める死霊の群れに、陸を二日進軍した魚人部隊はなすすべもなかった。
二度目の今回は、事前に相手の神殿を弱体化させることに成功した。なんということはない。少し希少性の高いモンスターを見せて、『高位召喚』の結果だと自慢しただけだ。
『召喚』には『下位召喚』と『高位召喚』がある。確実に指定したモンスターが手に入る『下位召喚』と違って、『高位召喚』ではどれだけ希少な素材を費やそうとどんなモンスターが手に入るかわからない。成功して強いモンスターを得たとしても、こちらに自慢し返すのを見て対策すればいい。
思惑どおり、あの女は神殿のモンスターを消費して『高位召喚』を行い、失敗した。
魚人部隊には浄化の特性を持つ三叉鉾を持たせた。
死霊のはびこる神殿は、それ以外に防衛性能を持たない。おそまつなものだ。
数多の死霊が消費されて消えた今、自軍が負ける要素はどこにもなかった。
*
「かかったわね。その部屋はおとりよ!」
仕掛けを起動し、道いっぱいある大きな岩を通路に転がす。行き止まりの小部屋に閉じ込められた魚人たちは、なすすべなく轢き殺された。
『なんで…どうしてあなたの神殿にそんな仕掛けが!?だいたい以前の侵攻から、こんな短期間でそれだけの罠を設置する神力を稼げるはずがないのに!』
神威板から高飛車女の声がする。いつもわたしのことをばかにするその声が狼狽していることに溜飲が下がる。
「ふふん。あなたが思っているほどこのプルセルポナ神殿はやわじゃないってことよ。わかったらさっさと撤退なさい。もうあなたに使えるコマは残ってないわ」
致死性のある罠は高いだとか敵が侵入した後でも手動でなら装飾品を動かすことはできるだとか使うべきは重力だとか言ってオクスハルトの組み上げた仕掛けは、見事に役割を果たした。
『…覚えてなさい。これで勝ったと思わないことね!』
負け惜しみを叫んで女は通信を切った。勝利だ。
「勝った。勝ったわ!」
誰もいない祭壇でくるくると回る。祭壇へ続く道を薄っぺらな壁で隠して、罠の部屋に敵を誘導したのもオクスハルトだ。敵は気づきもしなかった。
「それにしても、お腹が空いたら動けなくなるなんて、やっぱり人間は弱くてだめね」
*
「ますたぁっ!ますたぁ!お気を確かに!」
山道を落ちるように駆けながらセランが叫ぶ。揺れはほとんどない。スピードはジェットコースターくらい怖い。
プルセの『召喚』に巻き込まれて3日目。空腹でダウンした俺は、セランに背負われて山を下っていた。
プルセ曰く、「食料とかないわよここには私とゾンビしかいなかったもの。『交換』?権能の属性に左右されるからそれも無理だと思うけど。これならどう?【ゾンビ化の屍肉】ですって」らしい。
飲み水は神殿のパーツに【湧き水】というのがあったので助かった。一見普通の女の子にしか見えないセランもその点ゾンビで、飲み食いは必要ないらしい。絶食して3日。立つだけでふらつくようになった俺は近くの村を目指すことにした。
「誰か!誰かますたぁにお食事を!」
山を降りきって平地に着いたセランは叫んだ。
森が途切れたところから見渡す限りが畑になっていて、作業をしていた数人の内一人が訝しげな顔でこちらにやって来た。おばあさんだ。
「あんたらどうかしたのかい。一体どこから」
「お食事がなくて!ますたぁが!」
「はぁ。しんどそうだねぇ。ちょっと待っておいで」
おばあさんは離れて行き、俺は畑と道の間にある段差に降ろされた。揺れはほとんどなかったが、スピードが辛くて酔った。
「死なないでください」
「平気だって。腹が減ってるだけだって」
セランが隣に寄り添う。
プルセの『召喚』に巻き込まれて3日目。初日にわけもわからず『召喚』したゾンビのセランは、今では普通の女の子と見分けがつかない。
「ほらこれお飲みよ」
戻ってきたおばあさんが素焼きの徳利に入った飲み水をくれた。
「ありがとうございます」
「こんなとこにねぇ。どこから来たんだい」
「ちょっと遠くの土地から」
「こんな辺鄙なとこへねぇ」
おばあさんはしきりに訝しがったが、言うほど不審には思っていないようだ。セランの着ているセーラー服を不思議そうに見ている。
「これは何を作ってるんですか」
あたりは一面緑色だ。
「芋だよ」
「わけてもらえませんか」
「持ってったって食べられないよ。灰汁を抜かないとね。家まで来たら食べられるのもあるよ」
「それをいただきたいです」
「いいよ。歩けるかい」
「少しなら」
立ち上がろうとしたところをセランに横抱きにされた。
「セラン。セラン歩ける」
「だめですますたぁ!セランにおまかせを!」
「はぁー。都会の若い子はよくわからないね」
どうやらおばあさんはセランの格好を都会の若者の着る変わった扮装と解釈したらしい。ちなみに俺の服は初めての外出から戻ってきたセランに血みどろにされたので、ゾンビポイントで交換した『粗布の服』になっている。安かったかわりに付与効果は何もないただの服だ。セランのセーラー服は当人が着替えたがらなかったのと、洗ったら血も汚れもきれいに落ちたのでそのままだ。
案内されたのは床の半分が土間になった狭い小屋だった。中は一部屋しかなく、外壁は石と土でできている。屋根は板と藁だった。
脚に巻かれた帯をほどいて板の間に上がるおばあさんを眺めていると、入口からおじいさんが顔を出した。
「なあメイハばあさん。今誰か来なかったか」
そのおじいさんが、セランの顔を見て目を見開いた。
「お、お前レーネか!?」
「セランです」
「おま、あ、死んだんじゃなかったのか!」
「はあレーネ?あの子かい?なんだってそんな。あの子はこないだ死んだんだろう」
「顔を見てみろ!」
「はぁー?うん?そうかい?うん?あんたレーネかい?」
「セランです」
「しくった。そうか。死体も近くの村から来るよな」
「おい、おいちょっと来い!」
おじいさんは仲間を呼んだ。周りの家々から出てきた老人たちが順にセランの顔をしげしげと見て、驚愕する。
「死んでなかったんだ。間違えたんだ」
「そんな間違いがあるか」
「誰か知らせに」
「身寄りはないんだろう」
「聞いたろ。どんなだったか。確かに事切れて」
「だってここにいるじゃないか!」
「ますたぁ。お食事が出てきません」
「そうだな。うん」
「誰かわかる奴を」
「だから死んだはずなんだって」
「よし」
セランの頭を抱き寄せて、囁く。
「何も言わずにずっと泣いてろ」
何も問い返すことなくセランは静かに涙をこぼした。
「みなさん」
混乱を極める老人たちに話しかける。
「おいどうした」
「泣いてるぞ」
「だから死んでなんかなかったんだって」
「聞いてください。こいつは実は、レーネさんの生き別れの妹です」
「妹だって?」
「そう」
はらはらと涙を流すセランは表情をぴくりともさせないが、それが却って悲しそうに見える。
「とある理由で一緒に暮らすことができず、つい最近までそんな姉妹がいることも知らなかったんです。存在を知ってひと目見ようとここまで旅をしてきたのに、まさか亡くなっているとは。ところでこんなときにすみませんお腹が空きました食べ物をください」
「ああはいはい。ごめんよ、待たせたね」
最初に俺たちを案内してくれたおばあさんが奥から煎餅のようなものを持ってきてくれた。硬い。割ろうとして苦労していると、器と徳利を渡された。水に漬けて食べるものらしい。
「まさかあの子にそんな家族が」
「天涯孤独だったとばかり」
少しだけふやけた煎餅を齧る。味がしない。食感はそれほど煎餅に似ていなくて、粘り気のかなり強いはんぺんのような、不思議な舌ざわりがした。
「可哀想にねぇ。生きている内に会えたらよかったのにね」
おばあさんがそう言ってセランの膝を撫でた。
「レーネさんは、どうして亡くなられたんでしょう」
「魔力不足でね。こんな辺境にいると。可哀想なことをしたよ」
つまりそれがセランの死因だ。
「この村にはお墓がないから、死んだ後は死者の神殿に捧げたんだ」
「ああ、なるほど」
そして捧げられた遺体はゾンビにされたと。非道い話だ。
「落ち着いたら案内するよ」
「いえ、結構です」