七十七話 神殺し
* * * *
「────もういいだろう。いい加減、諦めたらどうだ」
ローザの声が、朗々と響き渡る。
諦めを促す言葉だった。
ローザから追い掛けられていたリクと偽名を名乗っていた男、グランは漸く足を止めた。
否、止めざるを得なかった。
「袋の鼠だぞ」
彼が逃げ込んだ先は、数刻前までひと気で溢れかえっていた場所────〝闘技場〟。
『武闘宴』の開催場所であった。
戦う事に適してはいるが、間違っても逃げ込むべき場所ではなかった。
何故ならば、ローザの能力は主に風を操る事。そしてその技量は、〝天旋〟という二つ名と共に広く響き渡っている。
事実、この広い〝闘技場〟を囲う風の結界を、息を吐くようにローザは展開していた。
頭上の景色は、オレンジ色に染まる夕暮れではなく、視覚化出来るほどに濃密な物量の風の塊────結界に覆われている。
故に、ローザはそう告げていた。
「……お前との鬼ごっこに付き合ってやれる程、私も暇ではないのでな」
懸念が多過ぎた。
〝ゴッズホルダー〟であるシュガム。
そして、恐らくまだ何人かいるであろう〝闇ギルド〟の人間。
そして何より、今回の一件にエルダス・ミヘイラまで噛んでいる時点で嫌な予感しかしない。恐らく────裏にまだ何かある。
下手をすれば、ローザであっても手に負えない程の何かが。
だからこそ、こんなところで時間を浪費している場合ではなかった。
「……だが、解せんな」
けれど。
彼の名前がグラン・アイゼンツであったからなのか。
ローザは口を真一文字に引き結んだまま、何も答えようとしないグランに向けて、眉根を寄せながら言葉を投げ掛ける。
「どうしてお前は、名を二つも持っている?」
そう言って、ローザはアレクから託されていたグランの荷物を放り投げた。
中の荷は、既に確認済み。
だからこそ、気になった。
彼がアレク達に名乗っていたリクという名前。それは恐らく、咄嗟に出てきた偽名などではない。
中の荷を見る限り、彼はリクであり、グランでもあった。
きっとどちらか一方は、偽って名乗っているのだろう。
けれど実際に彼はリクであり、グランでもあった。
シュガムの反応。
これまでレッドローグに位置するギルドのギルドマスターとして収集してきた情報の数々が、それが正しいと側で囁いている。
「一体、お前は何者だ。そして、本物のグラン・アイゼンツはどこにいる」
「────どこにもいないさ」
問うた理由は、間違いなくグラン・アイゼンツがヨルハに無関係な人間でなかったから。
加えて、ローザの中で彼がグランである可能性が極めて低いと考えたからだ。
髪や目の色などを変色させる魔道具────オウィディの耳飾りを疑って下さいと言わんばかりに彼が使用している事も拍車を掛けていた。
「……。グラン・アイゼンツはもう、どこにもいない。それが答えであり、私が今こうして、此処にいる理由だ。ローザ・アルハティア」
取り繕う理由はないと判断したのか。
それは、ローザをここで消すという意図の下に口にされたものだったのかもしれない。
ともあれ、グランは────リクは、諦めるようにそう告げた。ローザが欲する答えを己は持っていないと。
だが、その言葉のせいで煩雑に混ざり合う。
何かしらの事情があって、彼がグラン・アイゼンツの名を騙っている事は確かとなった。
しかし、その答えを口にした彼の声音には、どうしてか友愛の情が滲んでいた。
悪意をもって騙っていた人間とは思えない程に、込められていた。
だから、分からない。混乱する。
ローザが、更に顔を顰めてしまうのも仕方がない事であった。
「貴殿は、どう思った。この世界を。私は、反吐が出るほど、腐り切っていると思う」
脈絡のない質問のように思えた。
この時、この場所で、追い詰められているのはローザでなく、リクだ。
それもあって、その言葉が時間稼ぎをする為のものという可能性がローザの頭の中でちらつく。
「グランの奴も、よくそう言っていた。この世界は、間違っている。腐り切っている。そんな言葉を、よく言っていたよ」
けれど、無用な時間稼ぎと全てを切り捨てて終わらせる事をローザはしなかった。
その言葉に、僅かながら意味があると思ったが故に、思いとどまった。
「……そうだな。私もそう思う。お前らのような、人の命を当たり前のように弄べる人間が溢れかえる世界なぞ、腐り切っていると言わざるを得ない」
「違うさ。ローザ・アルハティア。それはただ、人間が醜いというだけだろう? 私が言いたいのはそうじゃない。私は、この世界が腐り切っていると言っているんだ」
唇を微かに卑しく歪めるリクは、ローザの言葉に嘲笑に似た色を乗せて返す。
お前のような人間に、この感情は分からないよなと、リクは心の中でローザの反応が仕方がないと思うと同時、僅かに侮蔑していた。
「それはもう、どうしようもないまでに。だから私は壊すんだ。この世界を。この箱庭を。その為なら、どんな汚濁だろうが呑み干してやる。どんな罵倒であっても、受け入れてやる。それが私の唯一の生きる目的であり、親友と交わした果たすべき約束であるから────」
目には決意が。
妖しく煌めいていた。
嘘をついている様子はない。
恐らく、これは嘘偽りのない真なのだろう。
その親友とやらは、物言いからしてグラン・アイゼンツの事なのかもしれない。
だが、であるならば辻褄が合わなくなる。
「……では、お前は何故、グラン・アイゼンツの名を騙っていた」
「簡単な話だ。グラン・アイゼンツの名を騙っていれば、グランに縁のある人間が自ずと寄ってくる。たとえそれが悪名だろうと、間違いなく。だから、騙らせて貰った」
しかし、アレク達の動向を追っていたローザが見る限り、実際に縁のあるヨルハと出会っても彼が彼女を害する様子は一切なかった。
寧ろ、その逆だった。
「現実、私の目論み通り、グランの妹に会う事が出来た。手段は決して褒められたものではないが、まあ、私はグランと違って根っからの善人ではないのでな。あいつも、私に頼んだ以上、こうなる事は承知の上だっただろうさ。だが、約束通り、ちゃんと託してきた」
彼のこれまでの行動は、悪行といって差し支えない。それにグラン・アイゼンツの名を使った事で、ヨルハにまで害が及ぶ可能性は十分にあった筈だ。
にもかかわらず、あえて敢行した理由。
その上で尚、託したいものとは何だったのか。どうして、グラン・アイゼンツはいないのか。
分からない事だらけだ。
「お前は一体、何を────」
「なぁに、してるんですかあ? さっさと〝人工魔人〟を出して、始末しちゃって下さいよお。ねえ? グラン」
「……ノイズか」
問いを投げるローザの声が、軽薄な印象を受ける声に遮られる。
声の出どころへ視線を向ける。
来た時には誰も居なかった筈の観客席に、黒髪の見慣れない男がいた。
グランの名を騙る彼が、逡巡なく名を呼んだ様子を見る限り、仲間なのだろう。
ノイズと呼ばれた彼は、ひょいと身軽に高さのある観客席から飛び降りて、ゆっくりと歩み寄って来る。
「私はシュガムから、宰相殿に呼ばれていると言われてやって来た。呼んだ張本人が見当たらないから、こうして時間を潰していただけだ」
「宰相殿なら、逃げちゃいましたよぉ? あの方は特に、そこの戦争人を怖がってますからねえ。連れてきた人間がグランであると知って、相当貴方にお怒りでしたが」
────戦争人。
教職より更に一つ遡った己の立場を口にされた事で、ローザは溜息を吐いていた。
「構わんさ。どうせ、用済みになれば消される人間だ。今更、幾ら嫌われようが関係ない」
その物言いからして、隠そうともせずに口にされている宰相が消される未来は遠くないのだろう。
「それと、ローザ・アルハティア。一つ、訂正しておかなくてはいけない事がある」
「……訂正だと?」
「ああ。貴殿は袋の鼠と言ったな。それは違う。本当の袋の鼠は、貴殿だ。ローザ・アルハティア」
直後、ぶわりと〝闘技場〟全体を覆う風の結界に合わさるように、闇色のナニカが猛烈な圧を以てして一瞬にして広がった。
「本来の予定とは異なるが、あのローザ・アルハティアをどうにか出来るのであれば、多少、予定は狂ってしまうが構わないだろう」
地面に。虚空に。観客席の至る場所に。
一斉に浮かび上がる複数の魔法陣。
立場上、様々な魔法を目にして来たローザだからこそ、それが何の効果を齎すものであるのか。然程の時間も要さずに理解した。
「言うなれば、ここは檻だ。それも、我々が大量の〝人工魔人〟を造り上げる為の、な」
一目では気付けないようにと徹底的に、隠形の魔法でひた隠しにされていた設置魔法。
そこには、転移魔法に似た術式も組み込まれていた。
「……『武闘宴』の会場に堂々と仕掛けていたとはな。いや、そっち側に宰相がついているならやれん事もないか」
チッ、とローザは舌を鋭く打ち鳴らす。
灯台下暗し。
道理でダンジョンへの入り口が幾ら探しても見つからない訳だと一人、納得をした。
しかし、本来であれば『武闘宴』の参加者全てが、迷宮病溢れるダンジョンに強制転移させられ、彼らの手駒となる手筈だったのだろう。
ならば、これは考えようによっては幸運と捉えるべきではないか。
己が先に向かう事で、それを防げる可能性が生まれるのだから────。
だが、釈然としない疑問がひとつだけ残っている。
この男は、〝人工魔人〟と呼んだソレを無数に造り出して、一体何をする気であったのだろうか。
国を乗っ取るつもりだったのか。
はたまた、虐殺を好む嗜好の持ち主か。
戦争を起こしたかったのか────。
「違うな。ローザ・アルハティア。私はそんなものに興味はない。言っただろう。私は、この世界を。箱庭を壊したいのだと」
ローザの内心を見透かしたリクは、先程告げた言葉をもう一度、繰り返す。
浮かんだ魔法陣が作用し始める中、リクはそう語った。
決して短くないこれまでの人生経験。
教職にも就いていた事もあり、ローザは人の感情にも聡かった。だからこそ、分かる。
分かってしまう。
この言葉に、一切の虚偽や取り繕いはないと。紛れもなく本心から告げられている言葉だと。
何らかの他の目的を果たす為、隠れ蓑としてその狂人染みた目的をあえて掲げているのではなく、本当に彼はそれを成すつもりで口にしている。
狂気としか言いようがない危うい煌めきを瞳の奥に湛えながら、リクは告げた。
「────私はな、この世界をつくった『神』を殺したいんだ。例え、それでどれだけの代償を払う事になっても。その先に待ち受ける己の未来が、どれだけ凄惨で、どれだけ罪深く、血に塗れていようとも、な。それを成す為に私は。その為の準備を私は、してきたのだから」
その果てに、『地獄』と呼ばれる場所に落とされる事になろうとも、それすらも許容してこの男は突き進んでいる。
そこに、後悔の念は微塵も見受けられなかった。
そしてその言葉を最後に、ローザの視界の景色が移り変わった。
* * * *
「……『神』を殺す、か。ああ。そちらの話に私はてんで疎いのだがな」
魔法ならば、まだ分かった。
剣技を始めとした技術でもいい。
ローザはそれら全てに、知見がある。
それも、一つ一つが専門家に引けを取らないほどの知見だ。
けれど、『神』のような形而上の存在に限り、てんで疎かった。
それは、ローザ自身が〝望む者〟と呼ばれる人間に当て嵌まらない事。加えて、彼女自身が、『神』の存在を全否定する側の人間であったから。
「とはいえ、その事は兎も角、これからどうしたものか」
今回の件に関わっている人間は粗方、理解をした。先程まで言葉を交わしていたリク。
そして、ノイズに、宰相。
〝ゴッズホルダー〟のグラサン男、シュガム。
主として動いているのはこの四人だろう。
中でも、リクの身柄を優先的に押さえるべき。間違いなく彼こそが、迷宮病を意図的に引き起こし、罪のない冒険者を殺戮した張本人だろうから。
何より、『神』を殺すと宣っている事も気になる。彼の言葉を信ずるならば、迷宮病を引き起こしたこれまでは、いわば下準備。
『武闘宴』でさえも、下準備の一部であった筈だ。とすれば、あいつは何をしようとしている……?
国の心臓ともいえる宰相の立場にある人間を唆し、彼らは一体、何を────。
「……複雑な考え事は好きじゃないんだがな」
出来れば、そういう事は誰かに全て丸投げしたい。そんな性格であるローザは、溜息をついて思考を放棄した。
〝闇ギルド〟の人間が何を企んでいるのか。それを予想していては、幾ら時間があっても足りやしない。
だったら。
「今は、敵側の人間の正体が割れた事で満足しておくか。ひとまず、アレク達の下に」
幾らライナを向かわせているとはいえ、〝ゴッズホルダー〟の名は伊達じゃない。
その中でも、〝ゴッズホルダー〟と正体が割れている連中ほど、得体が知れない。
なにせ、希少な〝古代遺物〟ほど、その価値は高い。
それを目的に、狙われる機会も彼らは少なくない。しかし、それら全てを振り払っているからこそ、正体が割れている。
恐らく、あのグラサンはアレク達では荷が重い。そう思った刹那、ローザが強制的に転移させられた場所────薄暗いダンジョンの中。
色濃く地面に落ちていた彼女の影から、一体の能面をつけた人形が這い出てくる。
そして、その人形に刻まれていた魔法陣が眩く発光。次の瞬間、能面の人形は姿を消し、その代わりと言わんばかりに
「────だぁぁぁぁあ!!! 転移魔法なかったらまじでヤバかった!!! 丈夫にも程があるだろ、あのグラサン!!! ……って、なんでダンジョンの中っ!?」
大声が響き渡る。
それは、ライナの声だった。
シュガムの前では、脂汗こそ額に滲ませていたが、努めて冷静に振る舞ってはいたものの、実のところ心臓はバックバク。
四人掛かりであってもものともしないシュガムの前から逃げ出したい気持ちでいっぱいだったライナは、ここぞとばかりに言葉を吐き出していた。
オーネストから、『騒音コンビ』と呼ばれていたのは伊達じゃない。
「……端的に言えば、まんまと誘き寄せられた。あいつら、『武闘宴』の会場に仕掛けを施していたんだ。そんな訳で、ダンジョンに飛ばされた。ただまあ、得るものも沢山あった」
疲れた様子で、ローザは淡々と口にする。
「まず、裏切り者は恐らく宰相だ。それと、アレクに頼んでいた件だが、ダンジョンに繋がる転移陣は闘技場にあった」
リクを追う中で知った情報であると理解をするけれど、一体、どんな話をしたのだろうか。
「……だが、お前達よくあの化け物を相手にその程度の傷で済んだな」
現在進行形で、シュガムに斬られた傷を言葉にして頼むより先にクラシアに治して貰っていた俺を見て、ローザは呟いた。
「相手の気質に救われた部分が大きい、かな」
己の力を過信している側の人間ではあった。けど、シュガムの場合はこちらに対する驕りや侮りというより、ただあれは戦闘を愉しみたいという気質の人間だから、どうにか時間を稼げただけだ。
「もう一度」となると、恐らく今回稼いだ時間を経るより先に死人が出る。
それは、間違いなく。
「何より、助けて貰ったから」
「助けて貰った……?」
「あの人、ローザちゃんの知り合いって言ってたけど、ライナさんみたいに、いざと言う時の保険で呼んでくれてたんじゃないの?」
「いや、私はライナを除いて誰も呼んで────」
クラシアの言葉受けて、ローザは言葉を返そうと試みたものの、途中で取りやめる。
〝ゴッズホルダー〟を止められる人間で、今このタイミングで首を突っ込んできそうな人物。該当する人間に、ローザは心当たりがあった。
「……あい、つ、レッドローグに来ていたのか。なら、人に手紙を寄越す必要など、」
そして、また言葉が止まる。
「いや、待て」
「どうしたの? ローザちゃん」
「どうしてあいつが、ここにいる? ここに、来た? あいつは今、『裏ダンジョン』とかいうものの攻略に精を出していて、アルカナには一切興味は────……ああ。いや、そうか。そういう事か。今回の件が、それと繋がっているのか。説明不足にも程があるだろうが、くそったれ……!!」
ヨルハの問い掛けに答える事なく、ローザは言葉を忌々しげに吐き捨てる。
全てに合点がいった。
そう言わんばかりの態度であったが、俺達は何が何だが全く分からなかった。
「えっ、と、いまいち事態が分からないんだけど、一体どういう事なんだ? ローザちゃん」
「要するに、お前の師匠が限りなくポンコツだと言ってるんだ」
「お、俺の師匠……?」
ローザは、エルダスの事を言っているのだろうか。いや、そもそもどうしてここでエルダスが急に出てきたのか分からない。
ただ、ローザがとてつもなく苛立っている事はよく分かった。
「だが、そのお陰で連中の目的が漸く分かった。だとすると、『神』を殺すと宣っていた事も強ち、ただの妄言という訳でもないのか」
ぶつぶつと呟きながら、ローザが一人、理解を深めてゆく。
その際に、『神』を殺すだ、ふざけるな。今度会った時は張り倒してやる。などと、不穏な言葉も幾つか聞こえては来ていたが、
「恐らく奴らは、このレッドローグの地に、呼び寄せるなり、召喚するつもりなんだろうさ。もしくは、それに類似した何かをするんだろうな。ああ。きっとだから、あいつは人造ダンジョンコアを造る核を探せと伝えてきたんだろうな。放っておけば、『神』が降りるから」
「……呼び寄せるって、まさか」
「人造されるダンジョンコアを用いて、あの馬鹿どもは『神』を殺す機会を強引につくるつもりだ。それが総意なのかは知らん。だが、私と言葉を交わしたあいつは、本気でそれを成すつもりだろうさ」
「……『神様』なんて、そんな。本当にいるかも分からないものの為に────」
「あいつらはやるぞ。例え、どれだけ愚かしいと分かっていようとも、あいつらはやる。それが、〝闇ギルド〟の連中だと知らんお前らでもあるまい」









