七十六話 謎の男
けれ、ど────。
「……へっ」
────浅い。
剣の柄越しに伝わる肉を斬った感触。
しかし、斬り裂いたにしてはあまりに軽過ぎるその感覚に眉根は寄り、続け様に聞こえてきた喜色に塗れた声の存在ゆえにほぞを噛む。
あと一歩。
踏み込みと振るう速度が足りていなかった。
現実、俺の目の前からは喜色に染まった微笑が聞こえ、鼓膜を揺らした。
「俺を傷付けられる人間はそういねえ」
斬り裂く寸前でライナが展開した鋼糸から逃れ、シュガムは一歩後ろに距離を取った。
だから、肝心の一撃は内臓に届いておらず、シュガムの左目から一条に傷を刻むだけに留まっていた。
滴り落ちる鮮血。
致命傷を与える事は叶わなかったが、それでも右目分の視界は潰した。
尋常な思考であれば、焦燥感に駆られている事だろう。しかし、俺の双眸に映り込むシュガムは心からの愉悦をニィ、と吊り上げた口角に刻んでいた。
「く、はっ、いいぜおどれら。最っ高に最高だよ。殺し合いってのはこうでなくちゃ楽しくねえ。一方的な蹂躙を、殺し合いたぁ言わねえ。そもそも、そんなんは楽しくねえからな」
滴る血をシュガムは手の甲で拭う。
「四対一。まあ、こんなもんか」
────こんくらいで漸く、戦いらしい戦いになるか。
ぽつりと独り言のように溢された一言。
しかし、戦闘音が一時的に止んでいた今に限り、シュガムのその呟きはどこまでもはっきりと聞こえていた。
しかも、その言葉が挑発目的でなく、嘘偽りのない本音でしかないのだと受け取れてしまった。直後、筆舌に尽くし難い悪寒にさえ襲われる。心なし、シュガムが纏う雰囲気も移り変わっているような気すらした。
「随分と大口を叩くねえ」
周囲にはまだ、ライナさんが展開した人形達が指示を待って直立不動で停止している。
背後には補助に長けたヨルハと、クラシア。
俺の魔力もまだ余裕がある。
更にはレガスにオーネストだって此処へやって来る。普通に考えれば、詰みだ。
策を弄してどうにか打開を図る。
それがシュガムに許された最善だろう。
ライナの言葉には同調する要素しかなかった。
けれど、そうは思えど、実際に同調する事は出来なかった。どうしてか、出来なかった。
「たりめーだ。そもそもおどれら、この程度で本当に俺が〝伝承遺物保持者〟なんて大層な名前で呼ばれると思ってんのかよ?」
直後、忽然と消えては出現を繰り返していたシュガムの得物が彼の手に収まる。
「そもそも、剣を生やす程度の能力で〝伝承遺物〟なんて呼ばれてりゃ、この世に存在する〝古代遺物〟は全部特別扱いだろうよ」
つまりは、能力はまだ出し切っていないと。
しかし、だったら何故、目を斬られるという状況下になって尚、出し惜しみをしたのか。
「決まってんだろ。能力を使っちまうと、俺が楽しめねえからだよ、アレク・ユグレット」
困惑する俺の表情から内心を読み取ったのか。頭の中を覗きでもしたのかと疑いたくなるような言葉が飛んでくる。
そして。
「まぁ、本来のコイツの能力を見りゃあ、俺の言いたい事は粗方分かんだろーよ」
つーわけでだ。
そんな前口上を挟んだのち、
「んじゃま────枯れろよ、〝狂華月〟」
先程とは異なる言葉が紡がれた。
転瞬、シュガムの足下に形成されていた影がぶわりと広がり、肌寒い空気が噎せ返るような死の気配で満たされる。
それは、普通の影よりも暗く、濃い不安を煽るような遠い黒だった。
どうしてか。
ふと、無数の〝死霊系〟が跋扈していた〝タンク殺し〟64層の事が不意に思い起こされた。
けれど、その理由はすぐに判明する。
漂う空気に気配。
これまで培ってきた己の中の勘が、確かに告げている。これは。
「〝狂華月〟の本来の能力は、俺が〝狂華月〟で斬り殺した人間を屍骸として召喚するっつーもんだ。厳密に言やぁ、血を吸った事のある死人を屍兵として召喚する能力なんだがな」
異様なまでに伸びた影から這い出るように、音を立てて肉が削げ落ちた骨しかない手がかかる。呪詛のような怨嗟の声すらも、影から聞こえて来た。なんだこれは。
「ただ、分かるだろ? そんな能力を使ってみろよ。間違いなく、剣士としては楽しめねえ。それどころか、戦いらしい戦いにすらならねえ事ばかりだ」
だから、使わないのだと。
だから、使わなかったのだと。
────一方的な蹂躙を、殺し合いとは言わねえ。
過ぎるシュガムの発言。
その意図が漸く分かった。
「俺はただ、心逝くまで殺し合いを楽しみてえだけなのによ」
尋常な人間にはおよそ理解出来ない想望。
暗く翳るシュガムの瞳は、不気味な色を湛えていた。
「でも、だから期待してたんだぜ。あのメレア・ディアルを退けたおどれらには」
〝剣聖〟メレア・ディアル。
剣士であるならば、誰もが一度は耳にした事のある傑物の名前。確かに、彼であるならば目の前のシュガムに対してですら、真面に相対する事だって出来た事だろう。
そんな彼を俺達が退ける事が出来たのは本当に、偶然の産物。
十回に一回勝てる程度の確率を、運良く手繰り寄せたに過ぎない。
もう一度戦えば、まず間違いなく俺達が負けるだろう。
「しかし困ったもんだよなあ? 壊れねえ頑丈な得物を漸く見つけたと思えば、とんだじゃじゃ馬でよぉ~。本来の能力を使おうとしねえ俺を見兼ねて身体能力を制限しやがるとか、どんだけ能力を使わせたいんだか」
……いつだったか。聞いた事がある。
〝伝承遺物〟と呼ばれるアーティファクトは、〝古代遺物〟というより、呪具に近いという話を。
使用者に使われるのが得物の役目だ。
にもかかわらず、使用者を縛り付ける得物なぞ、聞いた事もない。
それこそまさに、呪具という他ないだろう。
「だがまあ、意外とこれが都合良かったんだわ。だって、よぉ?」
────強過ぎる人間が剣で楽しもうと思ったならば、身体能力を制限されたくらいで丁度良いんだよ。これがな。
炯々と俺を射抜くシュガムの瞳は、獲物を前にした肉食獣のように血走り、喜悦を湛える。
そして、目にも止まらぬ速さで肉薄を遂げたシュガムの眼前に形成される刃圏から逃れるように、俺は距離を取った。
確実に、躱した。
そう確信していたにもかかわらず、胸元付近の衣服は真一文字に斬り裂かれていた。
「……ッ」
元々手の付けられなかった速度が、更に手が付けられない事になっている。
目の前の現実から逃避するのではなく、素直に受け入れる。だが、正攻法じゃ無理だ。
これは、魔法師の傍らに剣士の真似事をしている俺でどうにかなる相手じゃない。
けれど、それでも。
「────やるしかないんだよな」
多少の小細工など、この手の連中相手には吹かれる灰の如く役に立たない事を俺は知っている。ただの魔力と思考と時間の無駄だ。
全ての逡巡を切り捨てる。
そして俺は、大気を切り裂いて迫る凶刃に対して合わせるように剣を振るう。
自分より上位に位置する剣士と打ち合うのは、幸いにもこれが初めてじゃない。
だから、己がすべき事。
ここで行うべき戦い方について、瞬時に理解出来た。
「……面白え。これでも尚、引かねえか」
「後ろに通すわけにはいかない。ローザちゃんのところに向かわせる訳にもいかない。だったら、立ち向かう他ないだろ」
それがたとえ、どれだけ勝ち目の薄い戦いであっても、引き受けたからには己の役目を果たすまで。
「ぶはっ、良いねえ。そういう意地を張れる奴は、嫌いじゃねえぜ俺ぁよぉ~~ッ!!」
直後、重い衝突音を伴ってどちらともなく得物が弾かれ、火花が周囲に散り落ちる。
そしてすぐ様、宙に一瞬だけ現れる光。
錯覚かと疑ってしまう程の微細の光は、刺突する剣身から反射された光だ。
それを、どうにか身を捩る事で回避。
しかし、まだ終わらない。
思考の時間すら許さないと言わんばかりに繰り出される猛撃、猛進。
その勢いは最早、防ぎ切れる領域になく、どうにか最低限の裂傷にとどめながら後退するのが精一杯。
とてもじゃないが、防戦から攻撃に転じる余裕も、隙もあったものではない。
「こ、の……ッ」
躱す。躱す。躱す。躱す。
身を翻し、経験則を頼りに視界に映り込むより先に身体を動かす。しかし、それでも完全に躱すとはいかない。
加えて、シュガムが優勢故か。
影から這い出る屍兵の数は増える一方。
これでは……ジリ貧だ。
本来の目的である時間稼ぎはどうにか出来てはいるが、それでも状況は「最悪」へと着実に近付いている。
故に、行動を起こす必要があった。
多少の傷を許容してでも相手の骨を断つ為の行動を────!!
「〝雷神の────」
バチリ、と雷電の音が立つ。
だが意識をそちらに向けた事で、シュガムへの対応がコンマの空白が生まれた分、遅れてしまう。
その間に凶刃が差し込まれた。
張り巡らされた神経の一部が腹と共に斬り裂かれ、激痛が駆け巡る。
悶絶する程の痛みを顔を歪めながらも、耐える。ここまでの相手に無傷で済むと思っている方がどうにかしている。
そう言い聞かせる事で、俺はどうにか前へ一歩踏み出す。
そして空には黄金の波紋が、数える事が億劫になる程に出現。展開。
直後、ず、ず、ずと魔法陣より姿を覗かせる鋭い矛先。
それは、雷電を纏う巨大な槍だった。
まるで、かつては存在したとされる巨人が手にする得物のような。
言うなれば────神話物の再現だった。
「────憤激〟────!!」
告げた後、矛先をシュガムへと定め、それらはそのまま流星の如き速度で以て飛来を始める。
「ク、クク、ははは!! はははははははは!!!! おいおいオイ!? おどれ、俺を殺す為に街の人間ごと巻き添いにする気かよッ!? だが、その覚悟もいいなぁッ!? ぶはっ、最高に楽しいじゃねえか、えええ!?」
込めた魔力量。展開した規模。
それらを考えれば、レッドローグの王都の一部が軽く更地になるであろう威力だ。
ただ。
「さす、がに、一言くらい声掛けてくれてもいいと思うんだけど、っ、なあ!?」
それは、ライナが居なければの話。
彼が、人形を用いて強固な結界魔法を行使出来る事実を俺は知っていた。
そうでもなければ、こんな真似はしない。
そして、しゃらんと錫杖を鳴らしたような音が彼方此方から聞こえてきた。
「────〝聖光覆う六芒星〟────!!」
眩い光が丁度、人形達が集っていた六箇所より天に向かって曲線を描くように伸び、光は上空にて交わる。程なく、薄い膜のような結界が周囲一体を覆うように展開された。
これで、周囲への影響は限りなく最小に。
だが、まだ足りない。
かつて〝リミットブレイク〟という反則技を使った際に、当然のように大魔法を剣で斬り裂くという離れ業をやってのけた規格外がいたという経験を踏まえれば、これでもまだ足らない。
満足に対処出来る状況さえも与えるな。
「────……っ!」
ク、と愉悦に歪むシュガムの表情が凍りつく。その理由は単純明快。
「あたしはアレク程の魔力はないけど、それでも適正には恵まれてたの」
────〝凍ル世界〟────。
不意に吹かれた肌を撫でるような風はひどく冷たく、足下はいつの間にか、ぱきり、ぱきりと音を立てて凍り付いていた。
影から這い出る屍兵も、〝凍ル世界〟によって動きが阻害されている。
しかし、まだ終わらない。
「〝暗転〟」
まだ、シュガムに自由は許さない。
黒々とした影に同化するように、シュガムの足下へと更に展開されていた魔法陣。
それは、一時的に相手の視力を奪うヨルハによるデバフ魔法。
彼の視界から、一瞬だけ色が失われ─────だが、その一瞬で十分だった。
直後、視界を灼くほどの光が稲妻と共に迸り、辺りに電撃を撒き散らしながら周囲一体を消し飛ばさんばかりの衝撃が広がった。
保有する魔力の大部分を消費。
喘鳴が漏れ、肩で息をする俺の耳朶を不気味な音が掠める。
喉の奥を震わせるような笑い声。
「────クク」
「……全く、どんだけ頑丈なんだよ」
不意打ちを重ね、数の有利すらも最大限利用して尚、駄目なのか。
これでもまだ、立ち上がるのか。
不気味極まりない愉楽の滲んだ声音に呼応するように、局地的に「闇」が溢れ返ってゆく。
それは、先程までとは比較にならない程の濃密さでもって辺りを瞬く間に席巻した。
「やめだ」
「……は?」
「やめだやめだ。おどれら、最高過ぎる。グランのヤロウを追い掛けるのはやめろよ。ノイズのヤツにも、頭にも渡さねえ。おどれら、俺と心逝くまで殺し合おうぜ」
立ち上る砂煙が次第に晴れてゆく。
そこには、右腕一つで先の攻撃を防ぎ切ったのか。右腕部分のみ、服は焼け焦げ、焼け爛れた皮膚が痛々しくも姿を覗かせるシュガムの姿があった。
同時、溢れ返る「闇」が檻を模るように、壁を形成してゆく。それはまるで、俺達を閉じ込める為のもののよう、な。
────いざとなれば、〝転移魔法〟で逃げればいい。
安易にその考えに逃げられない。
〝ラビリンス〟では、その頼みの綱が使えない時があったではないか。
何よりこの「闇」は、無性に嫌な予感を増幅させてくる。
「充、分時間は稼いだ!!! 逃げる!!!」
元より倒し切れるとは思っていなかった。
ここまでの痛手を負わせたのだ。
働きとしては充分過ぎるだろう。
後は、オーネスト達と合流してから────。
「ぶはっ、おせえよ。もう手遅れだ」
そして真っ暗闇が俺達を覆い被さり、おどろおどろしい空間に閉じ込められた────そう思った刹那、ぴしり、と亀裂が走った。
汚濁とも称すべき闇色の壁から、壊音が聞こえた。
「……ぁ?」
剣を青眼に構え、どちらかが死ぬまで終わらねえ殺し合いをしようぜ────。
獰猛な笑みと共にそんな感情をぶつけて来ていたシュガムの表情が、不快に歪んだ。
彼自身も、この状況に理解が追い付いていないようであった。
「よく頑張った。ここからは、その剣士の相手は僕が引き受けよう。だから、君達はローザちゃんのとこに行ってあげて」
どこか、懐かしさを覚える口調だった。
けれど、何かしらの影響か。
その声はノイズ掛かっているように聞こえて、誰のものなのか判別が付かない。
声のした方へと振り向くと、そこには外套を目深に被り込んだ男がいた。
手には得物らしい得物すらなかった。
彼はあの「闇」の壁を、どうやって壊したのだろうか。
「……誰かな、君」
「悪いけど、名前はちょっと言えなくてね。僕はローザちゃんの知り合いで、訳あって此処へ駆け付けた。今言える事はこれだけかな」
一瞬、ライナの知り合いかと思ったが、疑問を投げ掛けている様子からその可能性は消えた。
「……まぁた、新手かよ。しかも、随分と面白そうな新手じゃねえか」
クイ、と人差し指と中指をシュガムは動かし、未だ足下に広がる影から屍兵を呼び出す。
「〝縛〟」
「ああ?」
薄透明の糸のようなものが何処からともなく出現し、屍兵の動きが硬直。目にも止まらぬ速さで縛られた。
直後、ざり、と彼が靴底と地面を擦り付ける音を生み出した直後、その糸を導火線として屍兵がいた場所に火柱が轟と音を立てて勢いよく打ち上がった。
「────ここは、逃げる」
俺自身が魔法師だからこそ、外套の彼の技量が今のやり取りだけで痛いくらい理解出来てしまった。
何気ない様子で行われた先の行動も、一切の無駄を削ぎ落とした洗練され尽くしたものである事も。
だから仮に彼が敵であったとしても、シュガム以上にどうしようもない事も。
逃がしてくれるのなら好都合。
ここは、間違いなく逃げるべきだ。
「うん。それでいい」
「何勝手におどれらで話を進めてんだ。俺がおどれらを、今更逃がす訳ねえだろうがよおおおお!?」
俺達を逃すまいと唇を下品に変形させながら、シュガムは俺達に向かって肉薄。
しかし、それを阻むように外套の男がその間を割って入る。
手には黒に染まった杖が忽然と出現しており、握られていた。
先端には小さな鉱石が埋め込まれた極々ありきたりな杖だった。
瞬間、交錯した事で凄絶な衝突音が響き渡り、その衝撃によって風が吹き荒ぶ。
「……っ、おいおい。冗談だろう。なんでおどれがこんな場所にいやがるよ?」
衝撃によって捲れ上がった外套。
あらわになった相貌に覚えがあったのか。
シュガムは驚愕を声音に滲ませる。
だが、そうして生まれた一瞬の空白によって〝転移魔法〟の展開が終わる。
そして俺達は、逃げるようにその場を後にした。
「オッドアイの白髪に、その〝伝承遺物〟。……声だけは隠形の魔道具を使って誤魔化してるみてえだが、隠してえなら全部隠してこいよ!! なあ────ッ!? エルダス・ミヘイラ!?」