五十九話 楽園
* * * *
樹があった。
大樹と形容すべき、大きな、大きな樹があった。そこには、本能を掻き乱す程の輝きを帯びた果実が実っていた。
そして、その側に人影が一つ。
子供らしきシルエット。
全てが靄がかっており、そのシルエットが男であるのか。女であるかの判別すらつかない。
やがて、彼女は、実る果実に手を伸ばし、それを掴み取る。
同時、彼の手の中に収まった果実から、溢れんばかりの煌めきが一層強く放たれる。
思わず言葉を失うほどの神秘。威容さ。
魔性の魅惑を以て、一身にそれは居合わせた人間、すべての視線を集める。
『————この果実を天に捧げれば、どんな願いでも叶える事が出来る』
誰かが言う。
無機質な声だった。
恐らく、視界に映る彼女が口にしているのだろうが、顔の輪郭すらもまともに見えていない。全てに靄がかっていて、分からない。
『この運命の果実を食せば、どんな強さであっても手に入れる事が出来る』
強さ。美しさ。寿命。それこそ、なんでも。
『汝、この楽園に立ち入り、黄金の果実を欲すか?』
そして、差し出される。
手にする果実を、欲しいならば受け取れと言うように。
しかし、幾ら差し伸ばせどそこには届かない。
そもそも、楽園と呼ばれたこの場に、彼女以外の生命体は存在しないのだから。
意思だけが浮遊し、交錯し、邂逅していた。
ただ、それだけ。
『ならば、手順を踏め。これは、報酬。ぼくの選定に付き合ってくれた者達への報酬だ』
そして、眩い程の輝きを内包した黄金の果実を手の中に収めながら、彼は背を向けた。
『望む者よ。望みを叶えたくば、楽園へと至れ。多くの困難を乗り越え、エデンへと至れ。ぼくは勇者達の来訪を待ち望んでいる————』
周囲に光の粒子が突如として出現する。
さながらそれは、海の底から空気が浮上してくるかのような。
刻々と粒子の量と速度は増してゆき、大樹と彼女の姿が隠れてゆく。
『ダンジョンを攻略し、ダンジョンコアを集めろ。それが、楽園へ至る道を照らしてくれる筈だ』
その言葉を最後に、視界は光の粒子に覆い尽くされ————強制的に引き寄せられていたヨルハの意識はぷつりと途切れ、現実へと引き戻された。
* * * *
「……クラ、シア?」
寝かされた状態のまま、ヨルハが目蓋を開く。
真っ先に映り込んだ光景は心配そうに見詰めてくるクラシアの顔。
そんな彼女の顔をぼんやりと眺めて、そして、ゆっくりと意識を失う直前の記憶がよみがえる。
直後、ズキンと鋭い痛みがはしった。
「……痛っ」
慌てて上体を起こしつつ、右の手で頭を押さえる。
脳裏に過る靄がかったシルエット。
鼓膜にこびりついた無機質な声。
夢にしてはあまりに鮮明。
何より、このタイミングである。
とてもじゃないが偶然とは考え難く、この原因を作ったであろうダンジョンコアへとヨルハは視線を寄せた。
「……急に倒れたけど、どうしたのよヨルハ」
「なんか、急にいっぱい情報が流れ込んできて、それで、夢? を見てた」
「夢?」
何もかもが、判然としない。
ただ分かるのは、壁に埋まったダンジョンコアを取り出そうと触れた直後に覚えの情報がヨルハの頭の中に一気に流れ込んできた事。
そして、気絶してしまい、夢を見ていた事。
黄金の果実。楽園。勇者の来訪。
今まで一度も聞いた事のない言葉の数々が思い起こされる。
「よく分からない樹があって、人? がいて、黄金みたいな実があって」
頭の中がまだ整理出来ていないせいか。
ヨルハは思い浮かんだ順に、ぽつぽつと言葉を口にする。
「それより、クラシアは何ともなかったの?」
ヨルハにあのよく分からない夢のようなものを見せてきた元凶————ダンジョンコアは既に取り外されており、側に置かれていた。
恐らくはクラシアが急に倒れた己に代わって取り出したのだろう。
そう結論付けて問い掛ける。
「……別に、なんとも無かったわよ?」
————だからこうして、急に気絶したヨルハの心配をしているのだし。
付け加えられた言葉に、確かにと納得をしながら、ヨルハは眉根を寄せた。
「ボク、だけ……」
何か条件でもあったのだろうか。
そんな事を考えた折、ふと浮上するある疑問。
「あっ……ね、ねえ、クラシア! ボクってどのくらい意識失ってた……ッ!?」
随分と長い間夢を見ていた気がする。
そんな感想と共に浮かぶ、時間経過の事実。
クラシアの性格からして、ダンジョンコアを手に入れたからとヨルハを置いてアレク達の下へ向かう————という事はまずしないだろう。
……今は何よりも急がなくちゃいけなかったのに。
そんな自責の念と共にヨルハは焦燥感に駆られながらクラシアに尋ねるも、彼女は何故かきょとんとした表情を浮かべていた。
「全くよ」
「まっ、たく?」
「ええ。ヨルハが倒れたから急いで駆け寄ったけれど、気絶してたのは精々一分程度だと思うわ。あたしがダンジョンコアをヨルハの代わりに取って、今こうして戻ってきたところ」
「そっ、か。そっか、そっか。良かったぁぁぁ」
時間をあまり掛けてられないと自覚していた分、自分のせいで。と思ってしまった反動か。
肺に溜まっていた空気を全部吐き出す勢いで、ヨルハは安堵の溜息を吐いた。
「良かったって……全然良くないわよ、ヨルハ」
すぐに意識を取り戻したからまだ良かったものの、急に地面に倒れたヨルハを目にしたクラシアからすれば、「良かった」の一言で済ませられる問題ではなかった。
「確かに、身体には異常が見られないけど、急に意識を失うなんて絶対に普通じゃないから」
パーティーの中で基本的に回復役を担うクラシアは、治癒に関しての知識が頭抜けて多い。
それもあって、大体の症状については対処法なり、そういった知識を持っているのだが、そんなクラシアでさえ、今回ヨルハが倒れた理由は皆目見当もつかないでいた。
故に、目が覚めた事をこれ幸いとばかりに、アレク達の下へ戻ろうとするヨルハをクラシアが強引に止める。
「クラシア?」
「本当に大丈夫か、あたしが診てるから。だから、もう少しだけ待って」
「でも」
「ヨルハ」
「……分かっ、た」
分かってくれと伝えるように、ジッと真摯な眼差しを向けてくるクラシアの態度に観念してか。
立ち上がろうとしていたヨルハの身体が脱力する。
助けに向かいたい気持ちは山々。
けれど、それ以上に荷物になるような事があってはならないと冷静に認識出来ていたのだろう。
抵抗らしい抵抗は殆ど無かった。
何より、ヨルハ自身も先の夢について不可解に思ってたからこその同意か。
それから、数十秒ほど治癒魔法を掛けてみたりとクラシアがする中。
不意に、ざあっ、と物音が立った。
そして、筆舌に尽くし難い悍ましさを感じ取り、クラシアとヨルハの首筋が僅かに怖気立つ。
ただ、それは身に覚えのある怖気ではあったが。
「……〝死人の嘆き〟」
クラシアが呟く。
そこかしこに生まれていた小さな影。
それらがまるで意思でも持ったかのように、ざわざわと蠢く様子。加えて先の本能が感じ取った怖気。
そこから答えを導き出し、正解を口にする。
亡霊のような気味の悪い黒く蠢く霊を使役し、時には影に身を潜め、およそ神父らしからぬ戦い方を好む棺持ち。
「貴方も、オリビアさんを助けに来てくれたんですね、ヒツギヤさん」
「————いやいや、おれはレヴィエルに首根っこ掴まれて来ただけっすよ。その言い方は買い被り過ぎっすねえ」
ずずず、と溶け込むように影に身を潜めていた人物が、ヨルハの声に応じるように姿をあらわにする。
キャソックに身を包んだ丸坊主の男性。
背負う棺がトレンドマークの彼の名を、Sランクパーティー〝ネームレス〟所属、ヒツギヤ。
祈ったところで、善行をしたところで神は助けちゃくんねえす。
そんな罰当たりな台詞が口癖の一風変わった神父兼、冒険者であった。
「……オリビアさんは大丈夫なの?」
クラシアが問う。
ここに居るという事は、ヨルハとクラシアを先へ向かわせたオリビアと既に鉢合わせした事だろう。
「そっちはレヴィエルは行ったんで大丈夫でしょうよ」
「……あぁ、そういう」
「一緒に来てる他の面子も、今は〝闇ギルド〟の連中に絡まれてるっぽいっすけど、じきに終わらせて合流すると思うんで、そっちの心配は一切いらねえっす。なんで、それよりも————」
他の面子とは、ルオルグを含めた〝ネームレス〟の面々の事だろう。
そして何を思ってか。
やや言い淀むヒツギヤの言葉にクラシア達とヨルハが眉を顰める事数秒。
「君らのお仲間の方が色々と急がなきゃいけないかもしれないっすね」
「アレクと、オーネストを?」
「ええ。いくら二対一とはいえ、相手はあの〝剣聖〟。一筋縄でいく筈がねえですから」
〝剣聖〟。
それはオリビアの探し人の名であった。
しかし、ヨルハとクラシアの記憶の中にある彼らの相手は、〝闇ギルド〟所属の男であった筈。
何より、その彼が〝剣聖〟であったならば、あの時オリビアは間違いなく引く事はしなかった。
とすれば、ヒツギヤの言う〝剣聖〟は新手という事か。
「助力したい気持ちは山々だったんですがね、向こうにそれを断られちゃいまして。ま、元々助力出来そうな状況でもなかったんすけども」
ヒツギヤが空笑いをする。
「それより、どうかしたんすか? それ」
そして、視線を座り込んだ状態のヨルハへ。
何かあったのかと捉えたヒツギヤが、そう言葉を掛けていた。
「ううん。何でもないよ。ちょっと足が滑って転んじゃったとかそんな話だから」
どう返事をしたものかと悩むクラシアが反応するより先に、ヨルハ自身が真っ先に答える。
気丈に振る舞うヨルハの態度から、本当に彼女の言う通りであると判断をしてか。
ヒツギヤは、「そっすか」と平淡な声音であっさりと流した。
「見た感じ、ダンジョンコアも手に入れたみたいですし……これから君らはどうするんすか? 一応おれ、レヴィエルからもお仲間さん達からも君らの事を頼むって言われてるんすけど」
要するに、何かをするつもりならば手を貸すぞとヒツギヤは告げていた。
「勿論、助けに向かうよ。こうしてダンジョンコアも手に入った事だしね」
しかもただのダンジョンコアではなく、特にダンジョンの難易度が高いとされるノースエンドに位置するフィーゼルのダンジョンコアである。
「パーティーリーダーとして、ちゃんと助力しに向かわなきゃ。ボクらのパーティーは、みんなで乗り越えてこそだからね」
だよね? クラシア。
目尻を下げて同意を求めるヨルハの言葉に、先の倒れる瞬間を目にしていたからか。
クラシアは、僅かに唸るような声をあげるけれど、やがて嘆息し、……えぇ、そうね。と観念するように同意の言葉を口にする。
「成る程。んじゃま、そういう事ならおれが君らをお送りしましょうか?」
言葉の後、一層強く影が蠢く。
ヒツギヤは、悪霊と影を扱う冒険者であり、その能力を用いる事で〝転移魔法〟と類似した効果を得る事が出来るのだ。
ただし、あくまでも能力の応用でしかない為、本来の〝転移魔法〟とは異なり、様々なデメリットも存在していた。
「その必要はないわ。〝タンク殺し〟に潜った際に、ロキのクソ野郎から便利な魔法を教えて貰ってるから」
「ロキから便利な魔法を……。まぁ、あのクソ野郎の引き出しは、フィーゼルの中でも随一とも言えますからねえ」
「そういう事」
人を揶揄う事に楽しみを見出し、そこに心血を注ぐとんでもない性悪クソ野郎。
それが、ロキ・シルベリアという人物である。
そして、何が役に立つか分からないから。
という準備の良さ故に、使えるものは何だろうと取り入れておくという思考回路を持っており、引き出しの多さはヒツギヤが言ったように随一なのだ。
ただし、その引き出しの大半が正規の手段で得たものでないところが、ロキがクソ野郎と呼ばれる所以であるのだが。
やがて、足下に大きく浮かび上がる魔法陣。
その紋様と色合いに心当たりがあったのだろう。
「〝転移魔法〟っすか」
ヒツギヤが一目で看破。
その回答に、展開を始めた張本人であるヨルハは側においていたダンジョンコアを手にしながら首肯を一度。
「御国の秘術を掻っ攫ってくるとは何ともまあ、あいつらしいっすねえ」
面白おかしそうに笑う。
ヒツギヤの中でもロキならば、どこぞの国から秘術の一つや二つ、掻っ攫っていてもおかしくないという認識があったのだろう。
そこに驚く様子というものは一切なかった。
程なく、粒子が魔法陣からぽつぽつと浮かび上がる。そして、それは視界を覆い尽くしてゆく。
「いくよ、クラシア。それと、ヒツギヤさんも」
「おれの事はお構いなく」
「……はぁ。いつでも良いわよ」
出来ればもう少し休ませたかったんだけど。
そんな心境を表情に滲ませるクラシアの態度にヨルハは苦笑いを浮かべながら、手のひらを広げ、指先に集中を向ける。
完全に相手の虚を突けるのは、転移をした直後。その一瞬だけ。
だから、そこをちゃんと突けるように備え、そしてその確認をクラシアにも取っていた。
そして————直後。
もうすっかり慣れつつある浮遊感と酩酊感に襲われながら、移り変わる景色と共にヨルハとクラシアは喉を震わせる。
ヨルハが手にするダンジョンコアは、所有者の魔力を跳ね上げる事を始めとして、様々な能力向上の効果を齎すもの。
それ故に、一瞬の間隙を突かんと行使されたヨルハの魔法は、普段とは比べ物にならない程に強化されていた。
多くの実力者が揃って得体が知れない人間と口にする〝剣聖〟をして、動きを一瞬ばかし止めてしまう程に。
「縛れ————〝拘束する毒鎖〟————」