五十一話 グロリア
落下に要した時間は————幾分か。
薄明かりに照らされるそこは、どこか奇妙で、それでいて不気味な場所だった。
ヨルハの〝補助魔法〟のお陰だろう。
落下したというのに、これといった痛みはない。そして、下層に突き落としてくれた張本人はといえば、落下の際に離れ離れとなったのか。
あの五月蝿い声は一向に聞こえてはこない。
……ただ、空気を肺に取り込むと同時に鼻腔に入り込む濃密な鉄錆のソレは、誤魔化しようのない鮮血の香りであった。
「————ほんっと、やってられませんねぇ? 今日は実に、散々な日だ。邪魔に次ぐ邪魔。ええ、ええ、これぞまさに踏んだり蹴ったりというやつなんでしょうねぇ」
無性に、不快感を覚える粘着質な声音だった。
そして、その声は不思議とよく響く。
崩壊した72層と73層を区切る床。
その残骸が乱雑に散らばる場所に向かうように、刻々と音を増してゆく足音。
それは、声の主が近づいて来ているという事実を明瞭に表していた。
やがて視界に映り込む人影が一つ。
外套を被った男だった。
それも、血塗れの外套を被った男。
その姿は、あまりに異様過ぎた。
「〝核石〟喰いのバカは先に転移陣踏んでからというもの、中っ々、帰ってきませんしねぇ? 戻ってきたらこの怒りを晴らす為にぶっ殺してやろうと思っていましたがぁ————彼女と僕を引き合わせたその偶然に免じて、今回だけ目を瞑りましょうか」
男の視線が別の場所に向く。
続けられる声音には、憤怒とも、喜悦ともつかない響きが込められていた。
「〝剣聖〟と僕との相性を度外視しやがった上への文句はさておき、〝ラビリンス〟のダンジョンコアを取られておきながら、手ぶらで帰る事は些か躊躇うところでしてねぇ」
故に。
「行き掛けの駄賃程度にその身柄、攫わせて貰いますねぇ。ヨルハ・アイゼンツ————」
その言葉が最後まで紡がれる前に。
脳が身体に信号を送るより先に、俺の身体は動いていた。
……どうして、そこでヨルハの名前が出てくる。
一瞬のうちに思考を巡らせるも、その理由はちっとも思い浮かばない。
でも、それでも何を差し置いてでも今はヨルハを守らなきゃいけない。
そう思い、〝古代遺物〟を展開。散らばる瓦礫ごと地面を蹴り付け、外套の男とヨルハの間に割って入るように躍り出る。
オーネストは守りに向かうよりも、今すぐに排除すべきであると考えたのか。
別方向より、〝貫き穿つ黒槍〟を展開し、有無を言わせぬ間にその矛先を外套の男目掛けて突き出していた。
「〝血棘の楔〟」
しかし、外套の男は振り返りすらせず、一言呟くだけ。
ただ、次の瞬間。
外套にべっとりと付着していた血がまるで意思を持つように変形——棘のようなナニカを形成。
そしてそれが槍を絡め取るように動き、槍の軌道が逸らされる。
「〝ブラッドマジック〟……ッ!!」
通称、血魔法などと呼ばれる数ある魔法の中でも特に希少であり、異端とされる魔法。
使用者が傷付けば傷付くほど厄介になる魔法故に、異端魔法、などとも呼ばれている。
「〝血染めの霞〟」
続け様に言葉が紡がれ、そして男の手に収まる鮮紅色に染まった劔。
驚愕に声を震わせる俺の存在など知らないと言わんばかりに、上段よりソレは振るわれ、次いで響き渡る金属音。
「ぃ゛ッ!?」
軽く振るったように見えた。
しかし、剣越しにやってくるおよそ軽く振るったとは思えぬ重量感。その衝撃に思わず歯を噛み締め、そして歯列の隙間から、息が漏れ出る。
————化け物か、こいつ。
「……面倒臭いですねぇ」
正面からでは時間がかかると踏んでか。
直後、得物越しに伝わっていた圧倒的な重量感が失われ、目の前にいたはずの姿が掻き消える。
背後に回った。
そう認識するより早く本能に身を任せて身を捩り、やって来るであろう攻撃を躱そうと試みて尚、俺の身体を擦過する血染めの剣。
直後、擦過傷特有の焼けるような痛みに襲われ、堪らず表情が反射的に歪んだ。
そして、一秒が数分にも引き伸ばされたと感じる攻防が止み、クラシアがヨルハを連れて少し離れた場所に避難した事を確認しながら距離を取り、睨み合う。
一瞬のやり取り。
それでも、一連の動作によって着込んだ外套が捲れ上がる瞬間に、見覚えのあるタトゥーを視認していた。
今、〝ラビリンス〟の深層に彼らしかいないとは知っていたが、その上で俺は言葉を紡ぐ。
「……〝闇ギルド〟の人間か」
それも、きっと相当上に位置する人間の筈だ。
恐らく、力量だけで言えばSランクの人間と同格か、それ以上。
見た感じ、それなりに疲弊した上でこの感触である。
〝ラビリンス〟の深層にやって来る人間なのだから、それなりに強い人間であろう事は分かってはいた……が、それにしても先の発言といい、得体が知れなさ過ぎる。
「気を付けろ。そいつが厄介な奴の一人だ。『憤怒』のグロリア、名持ちの人間だ」
後ろでオリビアが答えてくれる。
————名持ち。
〝闇ギルド〟の中でも〝魔神教〟などというイカレた組織の中には名持ちと呼ばれる人間が7人存在している。
全員が全員、戦闘能力に長けているというわけではないが、誰も彼もが一筋縄ではいかない人間である事は言わずもがな。
そしてそのうちの一人こそが、目の前の人間————『憤怒』のグロリアなのだという。
「へぇえ。もしかしてコレ、君のお仲間ってわけですかねぇ?」
「付き纏われてるだけだ。ただ、メレアをぶち殺すにあたってお前は邪魔だ。故に、こいつらを利用する」
「成る程、成る程ぉ」
実に、貴女らしい答えだ。
オリビアの言葉は納得するものであったのか、気を良くしたようにグロリアは笑う。
けれど、それも刹那。
弾んでいた声が、ぱったりと止まる。
「ですが、気に食わないですねぇ? 僕を倒せるものと仮定するその思考回路は……実に気に食わない」
地を這うような声へと変わる。
目深に被った外套から見え隠れする瞳は、炯々としており、敵意が滲んでいた。
「とはいえ、お前らは実に運が良い。あの剣聖に色々と虚仮にされまして、溜まりに溜まった鬱憤を晴らす為のサンドバックをちょうど探していたところだったんですよねぇ」
そしてそのサンドバッグとやらを見つけたと。
そう言わんばかりの発言に、唇を三日月に歪めて、くはっ、と息を吐く男が一人。
「————はぁん。成る程。勝てねえから逃げ帰ってきたって時にオレ様達はてめえに出くわしたってわけだ」
「……あ゛?」
嘲笑すら交えながら、グロリアのその言葉に対して少しばかり距離を取っていたオーネストが煽りにかかった。
的確に痛いところを小突いたその煽り言葉を向けられ、赫怒の形相が浮かんだ。
「だってそういう事だろ? 身体は傷だらけ。その物言いからして、負けた腹いせにって事じゃねえか。背を向けて逃げ出すほど、惨めなもんもねえよなあ? ええ?」
次いで、同調を求めるようにオーネストの視線が俺に向けられる。
要するに————これに乗れと。合わせろと。
目で訴えかけられる。
理由は分からないが、あいつの目的は間違いなくヨルハ。であるならば、ヘイトは俺達に向けていた方がいい。
だから、
「……嗚呼、その通りだな。そんな腰抜け相手なら警戒する必要もなかったか」
俺もそれに乗る事にした。
そのやり取りを前に、背後にいたオリビアから、小さな笑い声が聞こえて来る。
そして挑発された本人はといえば、激情に支配されてか。目は血走っており、心なし身体は怒りに震えているようにも見える。
「見え透いた挑発だ……が、そういうのは最低限、実力が伴った奴がやるもんなんだよねぇ。さっきの小手調べで手こずってた奴の言葉じゃ、ねえんだよなぁあ゛!?」
手のひらが向けられた。
外套に付着する血が生き物のように蠢き出す。
加えて、グロリアの足下に浮かぶ赤色の魔法陣。まるで流れるように一切の無駄なくそれは展開され、しかし、それと同時に俺は目の前で円を描く。
「くたばり散らかせやッ!!!」
〝ブラッドマジック〟
その使い手は、世界全土を見渡しても両の手で事足りる程かもしれない。
だが————魔法だ。
それは紛れもなく、魔法の一つである。
ならば、跳ね返せない道理はない。
故に一言————
「————〝反転魔法〟————」
浮かび上がるは、白銀色の魔法陣。
己の鮮血を燃料として注ぎ込み、本来の火系統の魔法に手を加え、とんでもない爆発を生み出してそれが俺達に襲い来る……筈だった。
それが、眼前に大きく展開した〝反転魔法〟に、阻まれてさえいなければ。
「……あ?」
白銀の魔法陣に触れるや否や、放たれていた魔法がそのまま反転。
————一体全体、何が起きた?
そう言わんばかりに、素っ頓狂な声を漏らすグロリアに爆発の力が向かう。
そして理解が追いついていない彼を律儀に待ってやるほど現実は都合よく動いてはおらず、程なく耳をつんざく程の爆発音と、壁や床を抉る破壊音が轟き、火焔が全てを呑み込む。
遅れて充満する砂煙。
……間違いなく、無事ではないだろう。
堪らずそう認識してしまう程の威力であった。
「相変わらず、使い手が少ねえ魔法ってのは便利なもンだなあ? 無意識のうちに、それはねえと選択肢から外れてやがる。加えてその見た目だ。魔法師として認識して警戒しろってのは無理な話だ」
もしかすると、魔法師かもしれない。
もしかすると、知名度すら殆どないような限りなく〝固有魔法〟に近い魔法の使い手かもしれない。
そんな想像を一々していては、出来るものも出来なくなる。だから、思考から省く他なく、もしもの可能性を引いた時はその時で対応をするしかない。故に、オーネストは便利と言ったのだ。
……とは、いえ。
「だが、流石にこれでくたばっちゃくれねえか」
————でも、これで間違いなくグロリアの怒りは俺とオーネストに狙いを定められた。
舞い上がる砂煙に邪魔されながらも、仁王立ちする人影を目視しながら、言葉を紡ぐ。
次いで、びり、びりと服を引きちぎるような音が聞こえて来る。
所々が焼け焦げ、服としての役割をもはや果たしていないからと破り捨てたのだろう。
やがて収まる砂煙。
晴れてゆく視界の中に映り込んだのは、多くの縫い痕がくっきりと刻まれた相貌が印象的な、30程の男だった。
……ただ、先の爆発でついたと思しき傷は皆無。
どれもこれもが古傷のような傷痕ばかりであった。
魔法による防御が間に合ったのか。
はたまた、破り捨てた服による効果なのか。
……分からない。分からないけれど、悠長に考えている場合でない事は心なし、びりびりと周囲に伝播する殺意と憤怒の塊が否応なしに伝えてくれる————そんな事をしている暇はないと。
「……成る程なあ゛。〝反転魔法〟使えんのかよ、くそが」
吐き捨てられる。
そしてガリガリと乱暴に髪を掻きむしった後、
「このやり返しはぜってえしてやるとしてぇ、なら————先にこっち終わらせるかぁ゛?」
直後、再び魔法陣が出現。
次いでそれは、まるでヨルハが使う補助魔法のように、足下に浮かんだ魔法陣が、上へと平行移動を始める。
「〝血潮は燃える〟」
恐らくは、身体強化系。
先の魔法陣の役割を瞬時に予想し、グロリアの視線が一瞬ばかりヨルハのいる方向に向いた事を認識したからこそ、狙いを読んで先回りしようとした直後、
「……チッ、あンのバカッ」
何処からともなく、舌を打ち鳴らす音が響く。
続けられた言葉によって、それは俺の行動を責めて立てるものであったのだと自覚させられる。
「そいつの狙いはてめえだ! アレクッ!!」
叫ばれたオーネストの言葉。
しかし、それに受け答えするより先に、ヨルハ達の下へは行かせまいとした俺の視界の端に、グロリアの姿が映り込む。
気付いた時には、手にしていた血染めの剣が俺に向かって振るわれていた。
「、ッ!!」
「こっちは手っ取り早く片付けてえのにさあ゛? 魔法師の僕的にゃ、邪魔なんだよねぇえ反転魔法はさぁぁぁあ!!!!」
振るわれる一撃に、手にする得物をどうにか滑り込ませ————防ぐ。
だが、先程も身をもって経験した異様な程の一撃の重さは未だ現在。
故に呆気なく鍔迫り合いに押し負け、腕が跳ね上がり、無防備に。
もう防御は間に合わない。
そう思った瞬間、割り込む声が一つ。
「————串刺しになりやがれ」
風を巻き込みながら、豪腕によって繰り出される容赦ない投擲。
食らえば、血どころか肉すらも容易く抉り、骨は粉々に砕かれる事だろう。
そんな一撃が、言葉より早く飛来を始める。
土手っ腹に風穴を開ける勢いで放たれた一撃であったが、しかしそれをあり得ない挙動によって、身体を捩り、まるで来る場所が分かっていたかのように紙一重で回避。
無駄に言葉を叫び散らす様子とは裏腹に、一切の無駄を削ぎ落としたその回避技術は場にいた者誰もが舌を巻くほどのものであった。
「……っ、あい、つッ!?」
オーネストの驚愕と一緒になって、俺も目を見張る。狙い過たず放たれた筈の投擲を、身体の横に目でも付けているかのような無駄ない動きで避けられるものなのかと。
……けれど、そのお陰で一瞬だけ間が生まれる。
一瞬の間さえ確保出来れば、何とかなる。
故に、オーネストに感謝の念を向けながら立て直す。
「手を貸す」
それは後方より剣を抜き、グロリアに狙いを定めたオリビアの言葉。
これで————挟み撃ち。
多少己が傷を負う事になったとしても、相手にも少なからず手傷を負わせる事ができる。
そんな確信を抱きながら手にする得物を振おうとする俺の視界に、何故か映り込むグロリアの嘲笑。
三日月に歪められ、禍々しく吊り上がったソレはまごう事なき、喜悦の現れ。
「このタイミングじゃぁ、お前の〝反転魔法〟は使えねえよなぁあ゛?」
「し、ま……ッ」
あくまでグロリアは魔法でどうにかしようと考えていたのだ。剣ではなく、魔法で。
グロリアの一言でその意図に気付くも、防ぐには既に時が足りていなかった。
俺と、オリビア、オーネストの足下にピンポイントで一瞬にして広がる焔色の魔法陣。
どうにかして、虚空に〝反転魔法〟の魔法陣を描こうと試みるも、
「遅えんだよ————〝燃え上がれ〟————!!!」
直後展開される魔法によって、それは遮られる事となった。
転瞬、魔法陣より全てを呑み込まんと、勢い良く噴き出す炎の奔流。そして、火柱を想起させるソレに、三人とも呑み込まれる、筈だった。
しかし、魔法が当たる直前で俺達の姿は魔法陣の側から掻き消える事となっていた。
「ええ。そうね、遅いのよ。魔法の展開が」
その理由は、クラシアによる〝転移魔法〟。
いつの間に仕掛けたんだと叫びたくなる程の準備の良さのお陰で、次の瞬間には俺達三人の身柄はクラシア達の側へと転移させられていた。
続け様、必殺の一撃が決まったとばかり思い込み、達成感に浸っているであろうグロリアを嘲る一言も勿論忘れない。
そういうところが、オーネストに若干似ているんだよなと、つい抱いてしまった感想を胸に仕舞い込みながら、やがて吐き散らされるグロリアの言葉を俺は聞き流した。
「…………っ。こんの、クソアマが……ッ!!」









