百二十四話 意地
* * * *
「────アレク!!」
カルラの言葉を聞くや否や、背を向けて走り出した俺の名前をオーネストが叫んだ。
制止を呼び掛けた理由は、それ程までに俺の様子が深刻だったからか。はたまた、ユースティティアが〝神力〟と呼んだソレの力を限定的に得ている俺の加速が、オーネストすらも上回るレベルだったからか。あるいは、両方か。
「……急に顔色を変えて走り出して、どうしたって言うンだよ。それに、身体だってボロボロのままだろ」
殆ど反射的な行動だった。
だから、オーネストに説明をするという段階をすっ飛ばして、最悪の可能性を考えて一刻でも早く駆け付けるという結論に至っていた。
投げ掛けられた言葉を前に、俺は申し訳程度の冷静さを取り戻し、足を動かしながら口を開く。
俺の声は、震えていた。
「……学院長が言った、タソガレという名前。俺はそれに心当たりがある」
「……知り合いか?」
であるならば、オーネストにとってはこれ程単純な話もなかった事だろう。
けれど、実際は違う。
知り合いどころか、会った事すらない。
俺がただ、一方的に相手を知っている。
それだけの関係でしかないから、俺は即座にその言葉を否定した。
「いいや、会った事もない。でも、あんたも分かるだろ、アヨン。タソガレが一体誰なのか」
オーネストと並走するようについてきていたアヨンが、小さく溜息を吐く。
英雄願望者。
己の生涯を、〝英雄〟を誕生させる為に犠牲とした埒外の悪人が、禁術という誰でも即座にたどり着けるものにたどり着かなかった訳がない。ならば必然、ある程度の知識を得られる程度には足を一度は踏み入れているだろう。
「……〝毒王〟。禁術使いか」
ぽつり、と呟かれたそれは、まごう事なき答えであった。
「あぁ。多分、そのタソガレだ」
稀代の毒使い。
かの人物は、それこそ歴史書にすら名を残す程の人物であり、付けられた異名が〝毒王〟。
毒を用いる事で本来ならば人の手に余る〝禁術〟を幾つもたった一人で行使した逸話を残す人外の如き研究者。
それが、タソガレだ。
一瞬だけ人違いで、俺の考えすぎだと思った。
けれど、グランが毒を使う人間であった事。
筋金入りの出不精であるカルラが、旧知の仲のように話していた事。
極め付けに、本来の人間の寿命など知らんとばかりに生きているテオドールの存在。
それらの事実を踏まえた時、カルラが口にしたタソガレが〝毒王〟と呼ばれる毒使いでない可能性の方があまりに低く思えた。
だから、急いだ。
魔法についての知識を只管求めていた俺だからこそ、〝禁術〟と呼ばれる魔法が何故、〝禁術〟に指定されたのか。
それを、よく知っているから。
そんなものを、幾つも一人で行使してみせた人間がどれほど規格外な手法を用いて無理矢理に使っていたのかも知っているから。
「禁術って言やあ─────アレか」
オーネストの脳裏に浮かんだであろう光景は恐らく、レッドローグでリクの手によって発動された禁術────〝死告蛍〟だろう。
魔法学院であっても、〝人の手に負えない〟とされる禁術は決して教えては貰えない。
そこらの書庫では、禁術の存在こそ記された書物はあるだろうが、発動の手掛かり。本質について記されたものは全て人為的に焚書されているので手に入りようがない。
だから、オーネストの反応は「鈍い」のではなく、ある意味当然であった。
「だが、あの時はどうにかなったじゃねえか。それに、禁術をどうにかしたヨルハもいる」
誰の手を借りる事もなく、以前ヨルハは己のセンス一つで禁術を無効化した。
ならば、今度もと考えるその考えは決して的外れではない。
だがしかしである。
「……そうじゃない」
「ぁン?」
「そうじゃないんだよ、オーネスト」
禁術を止めるだけならば、ヨルハ達を信じるという選択肢もあっただろう。
なにせ、あそこにはクラシアとガネーシャもいるのだから。
ただ、今俺が何よりも深刻視している事柄は決して禁術などではなかった。
「……禁術ってのは、単に人の手に負えないから禁術なんて大仰な呼ばれ方をしてるんじゃない。禁術は、〝代償〟を必要とするから、禁術なんだ」
〝代償〟は、己が身であり、命であり、あるいは周囲へ被害を齎す何か。
故に癒えない傷跡として、国そのものに〝代償〟が刻み込まれている事も少なくはない。
タソガレという男は、様々な毒を使う事で強引に〝代償〟を用意し、己が身を始めとして様々な犠牲を許容してどうにか禁術を用いていた人間だ。
そんな人間が、禁術の効果の大小が捧げた〝代償〟の質によって左右される不変の真理を知らない訳がない。
「……学院長の言葉を信じるなら、致命的な何かをタソガレは〝代償〟に捧げてる。間違いなく」
カルラの口振りから察するに、タソガレもテオドールと面識があるのだろう。
ならば、侮る理由がない。
ここまでの大立ち回りをしてしまえるテオドールを相手に、手を抜くなど死んでもしないだろう。
だというのに、禁術の〝代償〟らしき痕跡がどこにも見受けられない。文字通り何もない。
なまじ知識がある人間だからこそ、この事実が不気味さとなって己に襲い掛かかってくる。
そして、それらの事実を頭の中で整理すると、嫌な可能性が浮上するのだ。
それこそが、今一番俺が恐れている事であって。
「成る程。理解した。だからお主は、焦っておるのか。『賢者の石』が使われたと疑っておるから」
この場において一番、禁術の代償に適した物。百人近い魔法師を犠牲にする事で完成した『賢者の石』は、周囲に致命的な被害を齎さずに済むという前提を考慮すれば、現状すぐに用意出来る代償物としては最上に近い。
これ以上、余分に存在しているかどうかはさておき、疑うなという方が無理な話だろう。
「……『賢者の石』が尋常なもンじゃねえ事はオレさまも分かるが……そもそも使われてたとして何が問題だ?」
倫理的な観点を無視すれば、オーネストの言うように一見すると問題ないように思える。
ただし、それはカルラからのあの一言がなかった場合に限り、の話だった。
「禁術は、文字通り禁じられた術よ。故、あれはその多くが人の手に余る。そんな御業だからこそ、正面から防ぐ事は本来土台無理な話である。それは、〝大陸十強〟などと呼ばれる埒外の化物共にも言える絶対の真理よ」
間近でユースティティア・ネヴィリムという化物を目にしてきたアヨンが、躊躇いなく言い切った。
策を弄せばその限りではないだろうが、無策で正面から防ぐ事はどんな人外であっても無理。それがアヨンの出した答えであり、俺の胸中にあった答えとも一致していた。
「ならば、確実に禁術を防ぐ為にはどうすれば良いか。そんなもの、答えは一つしかない。〝代償〟に選ばれる何かに対して予め、何らかの対策を講じる。これのみよ。そしてこのメイヤードにはお誂え向きとばかりに、犠牲に適した物があった。ここまで言えば、お主でも理解出来よう?」
────あえて『賢者の石』を使用させる状況をテオドールが作り上げ、その罠にタソガレが嵌まった。
これが、答えである。
とはいえ、タソガレも馬鹿ではない筈だ。
にもかかわらず、出し抜かれたという事は、気付かれないように細工されていたか。
はたまた、気付かれた上で尚、どうにか出来るだけの何かを周到に用意していたか。
そしてだから、カルラはああ言ったのだろう。何もかもが、対策されていたと。
「……今、メイヤードで『賢者の石』だけは使うべきじゃない」
ただ無効化されるだけなら問題はない。
しかし、あのテオドールだ。
己の邪魔をする人間に────それも、〝大陸十強〟を相手にそんな生優しい対応をする訳がない。彼ならば、使った瞬間に手痛い一撃を見舞える用意をしていた筈だ。
「にしても用意周到、過ぎるだろ」
テオドールがワイズマンの回収を急いでいた理由が、タソガレに先に『賢者の石』を使わせる為だったのではとすら今なら思える。
二重、三重に様々な展開に備えて策を用意し続けていたテオドールには、敵ながら天晴れと言う他ない。
誰ならばここまで綿密に、先の展開を予想出来るというのだろうか。
恐怖が首を擡げ、這い上がってくるような感覚を前に、俺は苦笑いを浮かべるのが精一杯であった。
「だからこそ、急がなきゃいけない」
ワイズマンは間違いなく、この状況を打破する為ならば己の命と引き換えにでも『賢者の石』を使うだろう。
そうする事で、本来の身体の持ち主であるメアが絶命を強いられる事になろうとも彼女ならば────強行するに違いない。
「……話は分かった。だがよ、その後はどうなる」
眉根を寄せながら、オーネストは言う。
「ヨルハ達は、この状況を打開する為にダンジョンに戻った。その為に『賢者の石』が必要だった場合、使わねえならそもそもの解決にならねえ。結局、そこで躓くぞ。それとも、代わりの手段があンのかよ」
『賢者の石』を用いた事で終わりを迎えるか。使わずにテオドールの思い通りに事が進んで終わるか。
言ってしまえばそれだけの違いでしかない。
結果的に、何も変わらない。
オーネストの言葉は反論のしようがない正論だった。
「……なくはない。でも何にせよ、何も知らないまま『賢者の石』を使う事だけは避けなきゃいけない。だから、まずは止める」
「そこは嘘でもあると言っとけよ。弱気じゃ、出来るもンも出来なくなンぞ」
気から負けてどうするよと責められながら、苦笑いを浮かべる俺をよそにオーネストは視線を側にいたアヨンへ向ける。
「……ところで、アレクの傷。アレどうにかなんねえのかよ。さっきは魔法でぱっぱと治してただろ」
折れたままの俺の腕と、今も尚、開いたままの身体の傷についてだろう。
治して貰えるならば、治して貰いたい。
そんな気持ちでいたが、そう都合の良い話はないようで、アヨンからの返事は色良いものではなかった。
「勘違いをしておるようだが、儂の〝逆天〟は回復の魔法ではない。これは、事象の逆天を強制的に引き起こす魔法よ。使用者たる儂には効果がない以上、そう何度も本来使えるものではない」
複雑な魔法であればあるほど、消費される魔力の量も跳ね上がる。
俺にしてくれたように、アヨンが自分自身に魔力残量の〝逆天〟を用いれば────と思ったが、使用者には使えないという事はつまり、そういう事なのだろう。
「正直、今日はあと一度使えれば御の字程度よ。テオドールの相手が残っている状態で、儂が魔法を使えなくなるのはまずかろう?」
声の調子。顔色。
何一つ変化を見せていなかったから気づけなかった。
だが、言われても見ればその通りだ。
事象の〝逆天〟をする魔法が、そう何度も乱発出来る訳がなかった。
そんなことが出来るならば、彼女自身が英雄になるという結論に至っていた事だろう。
「故────」
だから、アヨンの決定に従うという旨の返事をしようとした瞬間、彼女の言葉が不自然に止まると同時に俺の足まで止まった。
金縛りのような術に嵌ったからではない。
視線の先に、俺の知る人間がいたからだ。
俺とよく似た様子で全身傷だらけ包帯まみれで、しかしいつものお調子者めいた様子など投げ捨てた────ロキがそこにいた。
「やあ」
明らかいつもと様子が異なっているのに、発言だけは普段通りを取り繕っているように思えて、そのチグハグさが異様に目立っていた。
「ロ、キ」
チェスターがロキの姿に化けていた事から、最悪、命を落としている可能性まで考えていたから、真っ先に安堵した。
けれど何故、ここに居るのか。
それが分からなくて、すぐさま俺の表情は困惑に染まった。
……いや、そもそも目の前のロキは本当に、ロキなのだろうか。
「……その様子だと、もうチェスターには会ったみたいだね」
その様子と指摘を受けて気付く。
反射的に俺は、一歩距離を取って警戒心を露骨にあらわとしていた。
「ああ、それが正常な反応だ。〝人面皮具〟による区別なんて、本来出来ようがないから。それに、こんな場所で待ち構えてる奴を、疑うなという方が無理な話だ」
俺達の行動が何処で漏れたのか、それは分からない。だが、目の前のロキがロキに化けたチェスターである可能性がある以上、一刻も早くヨルハ達の下に向かわなくてはならない俺達は多少手荒になろうとも────
「だから先に、証明をしようと思う。僕が、僕である証明を」
すぅ、と息を吸い込み、やがてロキは俺────ではなくオーネストを睨め付け、これ以上なく殺気を昂らせる。
これは、まずいと思った俺は慌てて臨戦態勢を取ろうと試みるが、どうにもそれは勘違いだったようで。
「てんめえ!? あろう事か僕の携帯してたポーションにあのハバネロくん混ぜやがったな!? くそが!? 死ねよ!! まじで死にかけただろうが!? このボケ!!」
ぱりーん。と、恐らく万が一の為に残しておいたであろう真っ赤に染まった液体を容器ごと地面に叩き付けながらロキは憤る。
「アレク。あれ、本物だわ」
「……だろうな」
飯屋でオーネストの幸運に嵌められ、ヨルハの好物であったハバネロくんを食べさせられていた隙にしでかしたのだろう。
面白半分でロキが携帯していたポーションに混ぜて、あひゃひゃと笑うオーネストの姿があまりに容易に幻視された。
「……まぁ、この恨みはいつか十倍にして返すとして。君ら、ヨルハちゃん達を追ってるんだろ。チェスターを止められなかった罪滅ぼしって訳じゃないけど、僕が案内する」
ロキが背を向ける。
ついてこい。という事なのだろう。
「案内するだあ? 別に、傷だらけのてめえに案内されずとも、」
────自力でどうにかなる。
目の前のすぐそこに、ダンジョンへの入り口は見えている。
道に多少は迷うだろうが、俺以上に満身創痍な状態のロキは回復に専念しとけと言わんばかりにオーネストが言葉を吐き捨てた瞬間だった。
「…………チ」
ぐにゃり、と空間が歪む。
空の光景だけを巻き込んでいた筈のテオドールによるソレが、遂にはここまで辿り着いていたらしい。
ダンジョンの入り口も、堰を切ったように揺れる水面のようにぐにゃぐにゃと曲がり始める。
「僕は、ガネーシャの居場所が分かる。あいつ、逃亡ばっかりするからそういう時の為に印をつけてあったからさ。だから、ヨルハちゃん達の居場所も分かるって訳。それと、僕はこの先を通ってやって来た。道案内としては、それなりに役に立てると思うよ」
「…………分かった」
ロキの言葉を突っぱねられるだけの何かを俺は持ち合わせていなかった。
だから、棚に上げるようではあるが、今にも倒れそうなロキに頼る事を許容する。
今は、悩む時間も。先の行動に対して言葉を尽くす時間すらも惜しかった。
やがて、躊躇いなく歪みの先へ足を踏み入れたロキの後を追うように俺達も続いた。
「これは」
奇妙な光景だった。
人の手一つ加えられていない大自然の緑溢れた光景と、ダンジョン本来の景色。
それらを、無理矢理に接合したかのような景色だった。
何処もかしこも継接ぎで、異なるパズルのピースを強引に押し込んでどうにか形として保たせているとしか思えない。
ただ、俺達の驚愕理由はそこじゃなかった。
この緑の景色。本来ならば全く以て見覚えのなかった筈の木々、花々。それらを俺は一度だけ見た事がある。
────〝楽園〟。
そう呼ばれていた場所で、一度だけ俺は目にしていた。
場所ごとの空間転移。
その事は分かっていた筈なのに、いざ目にすると絶句する他なかった。
そんな時だった。
「……出来れば、チェスターの事は恨まないでやって欲しい」
絞り出すように、ロキが言う。
どれだけそれが難しい事か、分かった上での言葉なのだと彼の表情を見れば一目瞭然だった。
「あいつはどうしようもなく、救いたかっただけの人間だから」
「……ハ、そんな人間は、そもそも誰かを傷付けようとはしねえよ」
一言にとどめられたオーネストの言葉。
しかし、言葉にこそされなかったがこの期に及んで何を言うんだか、と呆れの感情を主張するように遅れて溜息が聞こえてきた。
オーネスト自身、言葉を尽くしてロキの考えの間違いを正してやる気はないのだろう。
己の身体の状態。この窮状。
全てにチェスターが関与していると理解した上でそう口にする人間などつける薬がないと一瞬で諦めてしまったから。
「それを言われては、返す言葉もないんだけどさ」
「────ところでお主、随分と面白い〝古代遺物〟を持っておるな?」
漂い始める剣呑な空気。
こんな時にまで喧嘩をされる訳にはいかなかったので、俺は半ば強引に会話に割って入ろうとして────しかし、まるで狙ったかのようにアヨンまでもが口を開いた。
視線の先には、ロキの手に抱えられていた古びた本が一つ。
慌てていたから気にしていなかったが、確かにロキにしては変な物を持ち歩いていた。
「……僕も気になってたんだけど、アレク君。その子は?」
どう説明したものか。
馬鹿正直に〝逆天〟のアヨンと言うべきか。
しかしそんな事を今言えば、ロキが混乱する事は間違い無いだろう。
けれど、嘘をつけばロキは嘘だと即座に見抜くだろうし……どうすればいいのか。
「儂の名前は、アヨン。今は偶然、目的が一致しておる故にこうして協力関係を結んでおる」
「アヨンちゃんか。オーケー。まあ、普通の子じゃない事は一目瞭然だけど、今はその物騒な名前については触れないでおくよ」
俺の苦悩とは裏腹に、呆気なくアヨンは己の名を明かしていた。
アヨンなんて珍しい名前は、それこそ悪名高い〝逆天〟のアヨンを除いていないだろう。
だが、ロキはあまり気にしていないようだった。否、今は気にしても仕方がないと割り切っているだけか。
「お察しの通り、これは普通の本じゃない。これは、記録の〝古代遺物〟であり、チェスター・アナスタシアの『保険』だよ」
足を動かし、駆けながら会話は続く。
出てきた言葉に、俺は思わず眉を顰めた。
「『保険』、だと?」
「あいつは元来、何も信じてない。恋人だろうと、聖人と呼ばれる人間だろうと、己が吐いた言葉を除いて一切の例外なく、心の底からは信用しない。だからあいつは、何をするにせよ『保険』を作る。いつ、誰に裏切られてもいいように」
「……それを取りに戻ってたって訳か」
「いや。本当はチェスターを探してたんだ。あいつの事だから、『保険』を取りに戻ると思っていたから。でも、あいつはいなかった。恐らくは、チェスターでさえも予期しない出来事に見舞われたか……もしくは、怪我を負って動けなかったか」
どうして『保険』の場所を知っていたのだ。
そんな疑問に見舞われたが、ロキとチェスターは知らない仲ではない。
だから分かったのだろうと思う事にした。
それからは無駄口を惜しんで走って。走って。走り続けて。
ロキが、「あと少しだよ」と告げると同時、額から一筋の汗が滴り落ちた。
決してそれは、疲れからくるものではないと告げるように遅れてアヨンの足が止まる。
「まあ、そう上手くはいかぬよな」
観念したような口調だった。
この場においてロキだけが、その行動に困惑する。
彼女の言葉で、己の勘違いでない事を確信した俺は溜息を吐いた。
続け様、時間はないのに何を立ち止まっているのだと責める間すらロキに与えず、俺も口を開く。
「先に行っててくれ、ロキ。それと、オーネストも」
「……あいよ。いくぞ、〝クソ野郎〟」
「……は? え、ちょ、何して」
いつになく物分かりの良い返事だった。
状況をいまだ把握できていないロキの首根っこを掴み、オーネストは先を急いでくれた。
「なあ、アヨン」
「なんじゃ」
「どうして、ここまで協力をしてくれるんだ」
まだ、ほんの少しだけ時間が残されている。だから、聞いてみる事にした。
「それは、愚問でないか?」
その為の対価を差し出したろうに?
愚問極まりない俺の問いに、アヨンは嘲るような笑みを張り付けて返事した。
「ああ。相手があんたじゃなかったら、こんな馬鹿らしい質問はしなかったと思う」
こうして、善意とも言える協力という行動に引っ掛かりを覚える事もなかっただろう。
「あんたは、〝英雄願望者〟だ。あんたの求める〝英雄〟像は、どんな窮地であっても覆し、弱者の味方となってくれる存在だろ。だから本来、あんたはここまで甲斐甲斐しく世話を焼かない人間の筈だ」
アヨンは、〝英雄〟を欲しているのだから。
不屈の精神と、限界を超えた力で困難を乗り越えて、〝英雄〟に至ってくれと願っている人間が、ここまで手を貸す事は矛盾している。
「だから、どうしてって思ったんだ」
二心あるなら納得も出来る。
でも、その素振りは見受けられなかった。
「…………。贖罪、のようなものなのやもしれんな」
嫌なところに気付きおると言うように苦笑いをこぼし、アヨンは答えた。
「テオドール。あやつは、儂が殺した奴によく似ておる。儂が、〝英雄〟に仕立て上げた奴に、よく似ておる」
性格の事を言っている訳ではないだろう。
容姿についてでも、ないだろう。
テオドールのあの慟哭を耳にしたからこそ、その似ているが、『境遇』だと理解出来た。
だからこそ、テオドールにとっての〝神〟のように〝英雄〟になる事を強いたアヨンが罪を意識するのも分からないでもなかった。
「自分の過去を、後悔してるのかよ?」
「まさか」
贖罪とつい先程口にした人間の言葉とは思えない返事だった。
「過去の行為は、何一つとして後悔しておらんよ。悔いてなどおらん。泥に塗れ、血に染まった生ではあったがな、儂は、儂にやれる最善を果たしたまで。己の力不足を呪う事はあっても、あの過去を後悔などせぬ。そんな事をしてしまえば、大義の為にと〝英雄〟を求め、その過程で死んでいった者達に申し訳が立たぬ」
死んだ人間の事など、有象無象に考えていると思っていた。
だから、その言葉は意外だった。
「……じゃあなんで、贖罪が出てくるんだよ」
「それは、」
悲しげに目を細めて言葉を紡ごうとするアヨンであったが、最後まで言い終わる事はなかった。
「────一人、足りないね。見たところ、君らが足止め要員のようだけど、一体、いつになったら理解するのかな。それが、無駄でしかないと。頼みの綱のユースティティアも、タソガレも。全員、僕には敵わない。だというのに、君ら程度が僕の足を止められる訳がないだろう?」
諦めを促すその言葉は、ひたひたと歩いて近づいてくるテオドールのものだった。
目に見える傷がある。
返り血か分からない血に塗れている。
だが、瀕死の重症を負っているにしては、声があまりに朗々と響き渡っている。
恐らく、その期待はすべきでないだろう────と、思考した瞬間だった。
「────、っ」
目の前に、テオドールの姿が映り込む。
動作の予兆は、何もなかった。
ふざけているにも程がある。
「いいかい、アレク・ユグレット。〝神力〟ってのは、こう使うんだ」
善意からくるレクチャーではない。
これは単純な、見下しであり嘲り。
お前は僕の足下にすら及ばないと突き放す為の行為で以て心すらも折りに来ているのだとすぐに理解した。
否、まともな抵抗らしい抵抗すら取れなかった俺は、頭で悠長に紡がれた言葉の意味を理解する事しか出来なかった。
「──────」
アヨンの叫び声すら聞き取れず、何が起こったのかすら分からないまま、勢いよく吹き飛ばされ、ダンジョンの面影を残した壁に衝突。
一瞬の意識の途絶。
痛いだとか、そんな次元の攻撃ではなかった。
先程まで〝獄〟という特別な空間にいたから、テオドールの力が制限されていたのだろうか。そんな考えが浮かぶが、仮にそうだとして、打開する作戦は今は何もない。
ただ、これ以上先に進ませない為に立ち上がる以外に選択肢など許されていないのだ。
たとえ、絶対に敵わないと悟ったとしても、時間さえ稼ぎ切ればヨルハ達が何とかしてくれると信じているから。
だから、痛む身体に鞭を打ち、口元にまでせり上がった血を吐き出して立ち上がる。
テオドールを待っていたあの刹那に編み上げていた魔法陣を起動させながら、俺は不敵に笑ってやった。
「なる、ほど。で、も、〝神力〟なんて大層な名前の力の割に、案外ショボいんだな。ほら、俺はまだ生きてるぞ、テオドール」
* * * *
「────やめろ」
声が響く。
それは、制止を求めるワイズマンの言葉。
既に幾度と繰り返されている発言だ。
しかし、応じる言葉は何も返ってこない。
「やめろと言っている。続ければ、死ぬ羽目になるぞ、クラシア・アンネローゼ」
「……五月蝿いわね。手伝う気がないならせめて、いい加減に黙ってくれる?」
誰の目から見ても一目瞭然な酷い顔で、クラシアはその忠告を一蹴した。
〝転移魔法〟で移動を果たした先は、アレクが神与天賦と唸る他なかった壁画のような魔法陣擬きが刻まれていた場所。
現状を覆すだけの手掛かりがあるとすれば、恐らくはここだけであった。
そして、その考えは当たっていた。
ただし、常人の理解の範疇を優に超えた術式の細部まで全て理解しなければ、どうにもならないという絶望を突き付けられる結果に見舞われてしまったが。
真っ先に諦めたのは、ヴァネサだ。
それにワイズマンも続き、ガネーシャも同意してしまった。
時間さえあれば、まだどうにかなる余地はあったかもしれない。しかし、時間すらないこの現状で、どうにかするのは土台不可能。
だから、可能な限りの人をこのメイヤードから逃そうという至極合理的な方法にワイズマン達はシフトしようとした。
出来うる限りの時間稼ぎを己らが行い、その間にクラシア達が他を逃す。
『賢者の石』も加われば、ある程度の時間も間違いなく確保出来る予定だった。
どこまでも正論で、反論の余地のない合理的な判断である。
けれど、その合理的な判断が実行に移される事はなかった。
他でもないクラシアが、拒んだからだ。
「……言われずとも、バカだと思うわよ。自分の事ながら、ええ。バカだと思うわ。きっと、アレクやヨルハ。オーネストに毒され過ぎたんでしょうね」
地面に只管、術式を描く。
理解を深め、先をゆく為に何度も描いては消して、描いては消して。その繰り返し。
同時進行で進め続ける演算。
魔法のように既に確立された魔法陣ではない錬成陣は、一から編み上げる必要がある。
だから演算を繰り返し、構築しなければならなかった。
故に、使えるものは何でも使おうとした。
〝大地の記憶〟と呼ばれる記憶を読み取る魔法を始め、それこそ外法と呼ばれるスレスレの手段まで。
その結果が、クラシアの今にも倒れそうな程に酷い表情に繋がっていた。
「……でも、仕方がないじゃない。それを受け入れたが最後、ワイズマンは勿論。本来の身体の持ち主だったメアって子も。姉さんも、あたし達を逃す為に犠牲になるんでしょう? なら、お断りよ。それに、あいつらから任された事に背を向ける気は更々ないの」
任されたというより、自分から任せろとクラシアが言い捨てただけに近い。
けれど、言ったからには責任を持って成し遂げるつもりでいた。
クラシアを除いた他の三人には、出来ない分野。補助に徹していたヨルハでさえも、レッドローグではその才の片鱗を見せつけていた。
お世辞にも戦闘が得意でないクラシアは、ここで意地を見せられないようなら本当の意味で置いて行かれるような気がしていた。
だから、意地を張る。
無茶と分かっているけれど、不可能を可能に変えてきたバカ共をよく知っているから。
だから次は、自分の番と信じ込んでガラにもなくバカな事を宣うのだ。
「ワイズマンがどれだけの天才だったか知らないけど、貴女如きの物差しであたしを語らないで貰えるかしら」
センスはなかった。
クラシアに、錬金術のセンスはなかった。
ただしそれは、クラシア本人が心の底から錬金術を嫌悪していたからだ。
だからまともに学ぶ気などなく、その間に彼女のベースは魔法一辺倒になっていた。
結果、魔法とは異なる錬金術に対して、クラシアはセンスがないと決めつけた。
しかし、よく考えて欲しい。
魔法において全ての適性に恵まれ、その天性を最大限に活かし、魔法ではアレク・ユグレットに限りなく肉薄し、補助魔法ではヨルハ・アイゼンツのすぐ後ろに。
当人は不得意と言うものの、弓を持たせればあのオーネスト・レインでさえもバカには出来ねえと言わせしめたクラシアである。
そんな化物の「センスがない」という言葉が、信用出来ないものである事は一番、側にいたヨルハがよく知っていた。
「言い忘れてたけど、貴女がそうであったように、あたしも一応天才なの」
普段ならば決して口が裂けても言う事はないであろう、オーネストを想起させるクラシアの傲岸不遜な言葉だった。
直後、クラシアが強く干渉した事で、刻まれた文字列。陣が反応し、眩く輝いた。
その反応こそが、クラシアの言葉が嘘でない事のこれ以上ない証明であった。
故に、ワイズマンの口から言葉が溢れた。
「お前は、化物か」
なんの事前知識もなく。
どころか、錬金術師でもない人間が、この錬金術師の到達点とも言えるモノに、干渉出来てしまった事実に唸らずにはいられなかった。
「────……ある程度は、理解したわ。構築陣も、規則と法則も。綻びを直すくらいなら、多分、何とかなるわ」
「さっ、すがクラシア……!!」
彼女ならば必ず出来ると信じていたヨルハまでもが称賛する。
「だからあと少し、時間が欲しいんだけど、ヨルハ。あと、何分保つ?」
ヨルハに錬金術の知識はない。
技術もなく、その才能は補助魔法一辺倒。
唯一の例外で、〝古代魔法〟擬きの結界を作り出せるようになったが、ヨルハに出来る事はそれだけだった。
だからヨルハは、そのそれだけに誰に言われるまでもなく徹していた。
この空間全体に結界を張り巡らせ、崩壊しないようにひたすら、ずっと。
「それは、愚問だよクラシア。ボクの中には、あと何分だろうと、保たせる以外に選択肢はないから……!」
「なぁに、安心しろ。最悪、わたしがこの素晴らしい〝運命神の金輪〟の力を使って、」
「うるさい黙れ」
「…………は、はい」
不穏な事を口にするガネーシャに、底冷えした声音でクラシアが一言。
流石のガネーシャも、それを前にしては最後まで言葉を言い切る事は躊躇われていた。
「……ただ、あくまである程度なのよね。やれるところまではやるつもりだけど、圧倒的に知識が足りてない」
魔法の知識で錬金術を補完する。
そんな離れ業にも、やはり限界がある。
一縷の希望をクラシアがワイズマンに向けるが、返ってきたのは左右に首を振る動作。
メイヤードを支えるこの錬金術については、全く知らず、力になれないという返事だった。
それからというもの。
刻々と時間が過ぎてゆく中、不意にガネーシャが違和感を感じ取った。
「……うん?」
耳が確かならば、それはひゅん、と何かが飛来する音。
遅れて何か悲鳴のような声と、筆舌に尽くし難い「嫌な感じ」が伴われていた。
生理的嫌悪に近いだろうか。
だからこそ、早くに気付けたのだろう。
やがて視界に映り込む男性の姿。
視界に映るソレを言葉に表すならば────人間ミサイルだろうか。
「が、ガネーシャ!!! ちょ、助けて!! 僕を受け止めて!! このままじゃ壁にぶつかる!!!」
声の主はロキ・シルベリアだった。
どうしてこんな事になっているのか。
理解不能であったが、ロキが助けを求めている事だけはガネーシャにも分かった。
このままでは壁に激突する事は避けられないだろう。
そうなれば、ただでさえ不細工な顔が取り返しの付かない不細工になってしまうに違いない。
それはあまりに可哀想な事である。
「しかしわたしには関係のない話だな」
だが、ガネーシャとロキの関係はあまりよろしいものではなく、躊躇いなくガネーシャはひょいと避けた。
それはもう、とても良い笑顔で、「お前マジか」と驚愕するロキをきちんと見送った上での行動で、数秒後。
強烈な衝突音と共にロキが壁に突き刺さる事となった。









