百十八話 ■■■■■
「……悪くはないな」
テオドールの提案は、ユースティティアと呼ばれた女にとっても悪いものではなかった。
彼女にとっても、「神」とは忌むべき存在。
嫌悪すべき外敵。唾棄すべきもの。
だからこそ、悪くはなかった。
しかし、込み上がった感情は、石を投げ入れられた水面のように一瞬の変化を齎すだけ。
程なくそれは、波紋一つない水面に戻る。
「だが、まだそれだけだ」
憎しみで前が見えなくなる時期は、とうの昔に過ぎ去っている。
何より、テオドールの言う通り、今のユースティティアはかつての〝正義の味方〟ではない。
だからこそ、彼女は差し伸ばされた手を取らなかった。
己の信じる正義の為、たった一つの悪すら許さず、己の道を貫いた〝正義の味方〟はもういない。
『大陸十強』。〝正義の味方〟などという大層な呼び名をつけられていたにもかかわらず、力及ばず己の道を貫けなかった弱者。
それが、ユースティティア・ネヴィリム。
けれど、それでも。
それでも僅かな意地を貫きたくて、彼女は〝獄〟を造り上げた。
それが、ユースティティアなりの意地であり、信念のあらわれであった。
彼女にとって、〝獄〟とは贖罪の証だ。
〝正義の味方〟であろうとした彼女は、徹頭徹尾、一切の疑念の余地すらなく悪の敵であり、弱者の味方であった。故に、たとえ欠片程の悪であれ見逃す事はしなかった。
そうしなければ、苦しむ弱者がいると身を以て知っているから。
だから、悪を滅ぼす為ならば、人倫にもとる行為であっても躊躇いなく敢行した。
そんな人間だったからこそ、自分を許せなくて、残る生涯全てを犠牲にしてまで罪人を閉じ込める〝獄〟という場所を文字通り、身を削って弱者の為に、最後の最後まで〝正義の味方〟であろうとした。
そこに、自分の感情など誤差程度にしかなく、自分の生は〝正義の味方〟になる為だけに存在していると他でもない自分自身が決めつけた。それが使命なのだと刻み込んだ。
故にこそ、カルラ・アンナベルはユースティティア・ネヴィリムを狂人と呼んだ。
人間性を欠落し、〝正義の味方〟としか生きられない。生きようとしない彼女を、壊れているとしか言い表す事が出来なかった。
全ては、かつての己のような────何の罪もない弱者の為に。
その想いがユースティティアの根底にあると知っているからこそ、狂うのも仕方がないと認識しながら、最後の最後まで理解を拒んだ。
そんな生き方は、人ではないとカルラは痛いくらい思い、見ていられなかったから。
「テメエの提案は結局、あの〝神〟を殺せる前提で成り立っているものだ。あの時は不意打ちだったとはいえ、アタシら十人を良いように弄んだヤツを、テメエ一人で本気で倒せると? カルラ一人殺せていないテメエが? 冗談にしても笑えないだろうが」
少なくとも、〝神〟を殺せると言い切れるだけの何かを見せない限り話にすらならない。
要するに、出直してこい。
それが、ユースティティアの言い分であった。
「……それは、きみを認めさせれば協力してくれるって考えていいのかなあ?」
テオドールの返答は、望んだものであったのだろう。
喜色に笑みながら、声のトーンが僅かにあがる。
「ああ、認められるだけのもんを見せてくれさえすれば、協力してやる。二言はない。あの〝神〟はアタシとしても目障りなんだ。気掛かりなのは、失敗してしまった場合。だから、勝算がある事を示してくれさえすれば、アタシは喜んで手を貸してやるさ」
ユースティティアが死ねば、〝獄〟は消えてしまう。罪人だけを残して、システムだけが消失してしまう。
本来ならば、悪人など、殺してしまえばいい話ではある。だが、ユースティティアに掛けられた呪いが、それを許してくれない。
だから、利用する他なかった。
手枷足枷、首輪をつけて、彼ら彼女らを利用する事で、〝正義の味方〟であり続けようと。
故に、勝算のない戦いだけは出来ない。
たとえそれが、己にとって不倶戴天の敵であったとしても。
故に、ユースティティアは勝てると思えるだけの判断材料を欲した。
腑抜けと罵られようとも、これはどこまで行っても取引でしかなく。
彼女はどこまで煎じ詰めても悪人を憎む〝正義の味方〟であるのだから。
「なあ、■■■■■。テメエはまだ、あの時のことを引き摺ってるのか」
ユースティティアの望み通り、勝算を示す為、踵を返したであろうテオドールだが、去り際に聞こえてきた彼女は声に、足を止めた。
「テオドール」
「ん?」
「今は、そう名乗ってるんだ。だから、テオドールって呼んで貰っていいかな」
「……成る程。見た目だけじゃなく、名前まで変えたのか」
声に感情はなかった。
無機質な、機械の声に近い。
だが、彼を知る人間からすればそれは、必死に感情を押し殺しているのだと一目で分かるものだった。
そもそも、でなければテオドールがこんなにも〝神〟を殺す事に躍起になっていなかっただろう。
「……それで、きみの質問なんだけど……引き摺ってるって? 当然じゃないか。そもそも、僕らの呪いだってそうだ。世界を守る為に引き受けたと言えば聞こえはいいが、その実情は、無理矢理に押し付けられただけだ。人よりも少し力を持っていたから。呪いに耐えられる人間だからと、押し付けられただけだ」
望んでもいない物を、強制的に押し付けられた。ダンジョンの奥底に押し込めた〝神〟の負の力が漏れ出て、世界を壊しかねなかったから。だから、負の力に耐え得る強い人間────『大陸十強』に押し付けた。
それが、呪いの実情だ。
ある者は、そのせいで大地に足をつける事が出来なくなり。
ある者は、記憶を失い。
ある者は、五感全てを失い。
またある者は、腐敗の呪いを植え付けられ、身体が朽ちる様を見せつけられながら死んで逝った。
そして、たった一人。
協力など土台無理な『大陸十強』を唯一、纏められた一人の少女は、贄としてその呪いの大半を引き受けて彼らの目の前で命を落とした。
〝神〟は、それ以外に道はないと少女を追い詰めて、責任感を強要して、そして最後は、少女が自分の意思でその命を投げ捨てた。
投げ捨てざるを得ない状況を作り上げた。
他の人間は、あいつの選択だと口々に言った。彼女の性格を考えるに、どんな過程を踏んでも結果は変えられなかったと諦念した。
そんな事はテオドールも分かっていた。
だが、それでも。
テオドールだけは、許せなかった。
「どうして僕達が、他人なんかの為に犠牲にならなきゃいけない? 放っておけば魔物が溢れる? なら溢れればいい。力ある者の義務? それがどうした。僕達だって、初めから力を持ってた訳じゃない。血反吐吐きながら、死に物狂いで生きて、それで得た力だ。なのになんで、何の努力もせずに震えてるだけの奴らの為に僕らが犠牲になり続けなくちゃいけない!? なんで命を賭けなければならない!? ……そんな奴らの為に、なんで、苦しみ続けたあいつが、最後まで苦しまなきゃいけなかったんだよ」
だから、テオドールは嫌いなのだ。
この世界そのものが嫌いなのだ。
己の自己満足を満たす為ならば、誰が死のうが関係などない。
こんな世界に最早、価値などないのだから。
「……誰かを犠牲にしなくちゃ存続出来ない世界なんて、滅んだ方がマシだ。少なくとも僕は、そう思ってる」
────他の奴らは違うみたいだけどね。
そう、言葉を残して歩き去ってゆく。
魔法学院を創設したカルラ・アンナベルをはじめとして、『大陸十強』の大半は、命を落とした彼女の意思を継いで、世界の為になる事を行った。
それが唯一の罪滅ぼしだと言わんばかりに。
ユースティティアも、その一人だ。
そしてだからこそ、テオドールの言い分も分からないでもなかった。
故に、何も言えなかった。
激情をあらわにするテオドールの言葉を前に、一切口を挟む事が出来なかった。
テオドールは悪人だ。
人の命を命とすら思っていない一等タチの悪い悪人だ。
そしてだから、かつての彼は〝操り人形〟として生きる事になってしまった。
それらの事情があったからこそ、余計に許せないのだろう。
そんな悪人に唯一手を差し伸べてくれた人間を、助けてくれた恩人を守れなかった己自身と、死を選ばせた〝神〟という存在を。
返せなかった恩の返し方を、テオドールは〝神〟を殺す事で精算出来ると決めつけている。彼女のような存在を、もう二度と生み出させないようにする為に。
それ以外に、道はないと断じている。
その様が、少しだけ痛ましくて。
黙ってテオドールを見送ったのち、小さな溜息を挟んでから口を開いた。
「────黙って盗み聞きとは、良い趣味をしている。まあ、誰なのかは大体見当はつくが、いい加減、出て来たらどうだ?」
テオドールが消えた〝獄〟の中。
静寂に包まれ、周辺には人一人存在しないように、思える。
気配は一切感じられない。
その隠形は魔力に聡い人間であっても気付けないだろう。
本能に敏感な、それこそ驚異的な勘を持っている人間か。
はたまた、事前に彼について知っており、その上で警戒している人間でなければ気付きようがない程の完成度。
「相も変わらず、研究者らしくない隠形だ」
これで、戦士ではなく研究者と言っていたのだから、本当にふざけている。
過去を懐かしむユースティティアに、これ以上は隠し通せないと判断したのだろう。
壁に隠れていた人物が、漸く姿をさらす。
予想通りの人物だった事に満足をしながら、ユースティティアは軽い様子で言葉を投げかけた。
「……しかし、今日は随分と客が多いな。■■■■■の次は、テメエか。近くにカルラもいるようだし、なにか。今日は、同窓会か何かか?」
ユースティティアはその場からすっくと立ち上がる。
だが、返事はない。
じっ、と閉口を貫いてユースティティアを見詰めるだけ。
それは、見定めているとでも言うべきか。
先のテオドールの発言を、ユースティティアはどう考えているのかについて。
本当に協力する気なのか、どうなのか。
答え次第では殺すと、深海を思わせる黒ずんだ瞳が告げている。
そして、目の前の人物はユースティティアに対してすらそれが出来るだけの人間であると彼女が一番理解をしていた。
だから、笑ってしまう。
その様子が、最後に言葉を交わした数百年前から何も変わっていなかったから。
「ま、それはないか。アタシ達が一応、曲がりなりにも纏まる事が出来てたのはあの子がいたからだ。死んだ今、仲良くお手手を繋いでやる理由はない。そうだろう────タソガレ?」
* * * *
時は少しばかり、遡る。
ダンジョンの中。
ずたずたに壊されたその場所で、二人の男が対峙していた。そしてその趨勢は、明らかなものであった。
「〝嫉妬〟とは、言い得て妙なもんだ。だけどな、おれと戦うにゃ、相性が悪りぃよ、チェスター・アナスタシア」
悪いどころではない。
考え得る限り、最悪。
アレクの父であるヨハネスとチェスターの相性は、それ程までにチェスターにとって不利に働いていた。
〝逆天〟のアヨンを対処すべく、アレクがダンジョンを破壊した後、ヨハネスとチェスターは同じ場所に飛ばされていた。
だからこその、このマッチアップ。
しかし、現状はあろう事か、チェスターが肩で息をし、身体は傷だらけ。
対してヨハネスは、殆ど一切の傷を負っていなかった。
その理由は、ヨハネスが言うように絶望的な相性問題にあった。
「……夢魔法のような特別な魔法は例外として、その他の魔法は例外なく模倣出来てしまう。そりゃ、自分の思うようにその後の展開を描けるだろうさ。誰がつけたのかは知らんが、〝ブックメーカー〟にこれ以上なく相応しいわな。だが、おれに魔法の才能はねえんだわ」
ヨハネスが扱う魔法を模倣出来ずとも、チェスターにはこれまでに模倣してきた魔法がある。だから、ヨハネスのその言葉は一見すると答えになっていないように思える。
しかし、彼の言葉は紛れもなくこの状況に陥った理由を言い表していた。
魔法の殆どを使えない筈の人間が冒険者として曲がりなりにも生きられていた理由は、それ以外の戦う手段があるからだ。
こうして立ち塞がれる理由は、それだけの自信を齎す何かがあるから。
魔法を碌に使えない人間だからこそ、魔法使いに対して、特に。
「だから、おれは剣一本で魔物や魔法使いと戦えるようになるしかなかった」
ヨハネス・ヴァン・イシュガル。
その名に含まれる王族の証であるイシュガル。彼の国は、万夫不当と謳われた剣士。
その血脈が代々受け継がれて来た剣の一族。
王族と一部にのみ知られる〝血統魔法〟と呼ばれる反則を除いて、ヨハネスには魔法の才能がなかった。代わりに、補って余りある剣の才能があった。
「要するに、借りもんの力しか使えねえお前はおれのカモって訳だ。というより、おれに魔法師をぶつける事自体間違ってるわな」
如何に過去の事とはいえ、魔法師を優に超える剣士となる為に英才教育を施されて来た人間に、形ばかりの大技魔法が通用しないのは当然と言えば当然であった。
そんな彼が、かつてロン・ウェイゼンを殺し切れなかった理由は、彼が影という珍しい魔法を使っていた事。
それを、一切の隙なく極めていた事。
彼自身が英傑と呼ぶに相応しい騎士であった事。
そして、彼の本来の戦闘スタイルである一対一に持ち込めなかった事。
それらがあったからこそ、殺しきれなかった。
同じ剣士故にヨハネスの手は読まれ、一を極めた魔法師でもあるロンは、あまりに相性が悪かった。
「まあ、相手が魔法師なら、お前の完勝だっただろうがな」
喘鳴の音。
返事をする余裕すらないのか。
はたまた、何かを企んでいるのか。
やがて、その答えと言わんばかりに魔法陣が四方八方を覆うように展開。
如何に模倣という反則を持っているとはいえ、全てが属性の異なる魔法で、撃ち放つタイミングも、絶妙な間隔でずらしている。
その技量は、見せかけの借り物の力とは思えない。その模倣は、本来の術者そのもの。
若しくはそれ以上なのだろう。
だがそれであるが故、ヨハネスに通じない。
戦いとは盤上の駒を動かすゲームではない上────魔法師は何があってもヨハネスと一対一で対峙する事は避けなければならなかった。
「……また、それか」
ヨハネスに直撃する寸前に、魔法がまるで自分の意思で弾け飛ぶように霧散する。
これまで幾度となくチェスターはヨハネスに攻撃を仕掛けたものの、たった一度として魔法が直撃する事はなかった。
絶対に、直撃する寸前で霧散してしまう。
それをチェスターは魔法の仕業と考えたが、あろう事か、ヨハネス自身が魔法は全く使えないと否定をしている。
ただ嘘だと思っていたが、事実彼は、魔法らしい魔法をだった一度として使っていない。
ならば何故と考え続けて────
「……成る程。漸く分かった。俺チャンの魔法が消える原因は、その剣か」
ヨハネスの右手には、一振りの剣が。
無骨ながら、柄と剣身の全てが黒に染まったそれは、不気味な剣であった。
「良いだろ? これ。〝喰尽〟って言うんだ。一応これでも、〝古代遺物〟だぜ?」
勿体振る様子もなく、ヨハネスは答える。
その理由は、慢心でも何でもなく、
「これは、周囲にある魔力を強制的に発散させるもんなんだわ。お前が随分と疲れてる理由もこれが原因だよ。魔法、発動しにくかったろ?」
魔力の強制発散ともなれば、本来、魔法を発動する事すら難しい。
にもかかわらず、チェスターがどうにか形に出来ていた理由は、彼が尋常でない魔力を注いでいたからだろう。
メアを奪われた事で焦りを覚え、一刻でも早く────。そんな感情から後先考えず、全力を尽くしていた。
それが、今のチェスターの疲労に繋がっていた。
そして、その事実を認識してしまったからこそ、チェスターの額に冷や汗が流れ落ちる。
その能力ならば、使用者であるヨハネスは一切の魔法を使えないだろう。
だが、魔法をそもそも使えない人間からすればそんなものは欠点となり得ない。
それこそ、かつてのロンのように、側にアリア・ユグレットという魔法師がいるという状況を無理矢理に作り出し、〝喰尽〟を使わせないように立ち回らない限り、ただの魔法師ではヨハネスには勝てない。
『大陸十強』のカルラがヨハネスにある程度の信頼を寄せている理由が、そこに全て詰まっていた。
〝喰尽〟を手にしているヨハネスは、それこそ一対一の状況に限れば下手をすればかつての『大陸十強』にさえ勝てる可能性があるから。
「悪りぃが、お前に勝ち目はねえよ。チェスター・アナスタシア」
勝ち切れないと悟るや否や逃げ出したロンの時とは異なり、ここに逃げ場は存在しない。
だから、彼から情報を引き出そうとして。
「そう、かもしんねー。確かに、少しどころじゃねーくらい相性が最悪だ。でも、だとしても。俺チャンが諦める選択肢はねーよ」
懲りずに、魔法の発動。
しかしそれは、ヨハネスに向けてではなく、ダンジョンに向けて撃ち放たれたもの。
〝喰尽〟の効果がギリギリ届かない場所からの攻撃によって、崩壊。
彼方此方で天井が落石を始める。
これならば、確かに発散の影響を受けないが、致命傷を与えるには程遠い攻撃だ。
しかし、チェスターからすればこれで良かった。これはあくまで、未だ萎えない敵意を見せつける行為であったから。
「俺チャンにだって、意地があんだ。勝ち目が薄いからって諦めるくれーなら、初めからここにゃいねえし、そんな事をしようものなら、色んなやつに申し訳が立たなくなる」
チェスターを突き動かすのは、過去の無念。
誰より生きたいと願っていた癖に、たった一人の人間の為に、全てを投げ捨てた友達への贖罪。
その為に、全てを捨てた。
ただ、生きたい。
そんな当たり前の願いすら許されず、認められず、たった一人の友すら持つ事を許されなかった人間がいた。
そんな生き方しか、許されなかった人間がいた。
だから、「自由」を求めていた筈なのに、最後の最後で、チェスターを守る為に身を差し出した大馬鹿。
己の無力が彼を────ローゼンクロイツ・ノステレジアを殺した。
だから、己を責めて。責めて。責め続けて。
「自由」を失うと分かっていながら、笑顔で「おれが出会ったのがチェス坊で良かった」と告げながらチェスターの前から去っていったローゼンクロイツの意図がどうしてもチェスターには分からなくて。
他でもない俺チャンのせいで、お前は「自由」を失ったのに────そう責め続けて、抜け殻となっていたチェスターに、力を与えたのがテオドールだった。
こんな世界は、間違っている。
そう口にするテオドールの理想は、チェスターにとって悪くないものだった。
嗚呼その通りだ。
当たり前の幸せすら望めないこんな世界は、間違っている。
そう思ったからこそ、チェスターはテオドールが差し伸べた手を取った。
利用されると分かった上で、手を取った。
無力でしかなかった己が、手段を得られるならばと。
たとえそれが間違っているとしても、己に出来る唯一の贖罪であると信じて、突き進もうと決めた。
だから、ここで負ける訳にはいかない。
「魔法が使えない。確かに相性は最悪だあ。でもよ、俺チャンがいつ、模倣出来るのは魔法だけと言ったよ」
不敵に笑いながら、チェスターは猛り哮る。
「ここからが本番だろうが。さぁて、命のやり取りと行こうかあ!?」
魔法を展開。
補助魔法の重ね掛け。
身体強化を、身体の崩壊が始まるレベルで強制的に付与を行う。
剣士として生きていないチェスターが、技量を模倣出来たからといってヨハネスに勝てる可能性はゼロに等しい。
ならばどうするか。
決まっている。
身体と命を削ってでも、身体能力を強制的に引き上げて同じ次元に持ってくる。
それでも数え切れない経験を持つヨハネスを相手にするのは無理がある。
しかしそれがどうした。
無理でもやる。
それ以外に残された道はねーんだ。
そう己に言い聞かせ、チェスターは大地を強く踏み込んだ。
「…………っ」
極限の敵意。
掻き消えるようにしてその場からいなくなったチェスターの姿は、一瞬でヨハネスの前へ。
そして次の瞬間、得物同士の衝突音が殷々と響き渡った。
飛び散る火花。
剣越しに伝わる強烈な、膂力。
その細腕の何処にそんな力があるよ、と叫びたくなる気持ちを隠し、ヨハネスは無理矢理に弾く。
そのまま身体を旋回。
撃ち放つは、円弧を描くような横薙ぎ一閃。
間違いなく間に合わない一撃。
情け容赦なく繰り出した一撃はしかし、鮮血を散らす事はなく、虚しい鉄の音を響かせた。
「────双剣、か……!!」
強度は二の次の能力が目立つものとは言え、〝喰尽〟は〝古代遺物〟。
その一撃を刃こぼれなく受け止めるなど、同じ〝古代遺物〟以外に考えられない。
恐らくは備え持っていたのだろう。
判断を下し、相手の戦い方を双剣に修正。
一瞬の思考によって生まれたヨハネス隙を見逃さず、背後に回ったチェスターが剣を振り下ろす。
必殺を期した一撃。
だが、
「視えてんだよ」
背中に目がついているのではと思わせる挙動で、ヨハネスは当たり前のように避ける。
そのまま、カウンター。
一瞬遅れて風を斬る音が響いたそれは、チェスターの肌を切り裂き、反射で咄嗟に身を引いたチェスターは蹈鞴を踏みながらも再度肉薄。
二度、三度と重い衝突音が轟いたのち、後方に大きく跳躍し、ヨハネスを睨め付けた。
仕切り直しのつもりなのだろう。
お互いに、息を吐いた。
チェスターは知らない事であるが、ヨハネスの一番強みとは、剣の強さでも、魔法に頼らない戦闘方法でもない。
彼の強みであり、一番警戒すべきは、ヨハネスの目である。
有り体に言うなら、視野が驚く程に広く、そもそも見ている景色が違う。
ヨハネスが視ているのは、筋肉の収縮。
視線の動き。本来ならば追えない得物の軌跡。風の流れ。重心。
それらを、彼は俯瞰的に視る事の出来る特異体質を持っていた。
それがヨハネス・ヴァン・イシュガルの強みであり、そこに〝喰尽〟と、培われた剣技が合わされば、早々負ける事はない。だからこそ、カルラは信を置いていた。
「……身体能力を強制的に上げたか。まあ、この状況で戦うにゃ、そうするしかねえわな」
距離を取ったチェスターは、斬り裂かれた傷を治癒する。
たった一瞬とはいえ、その一撃は骨にまで達していた。身体能力を限界まで上昇させ、無理に剣技を模倣して尚、これだ。
ふざけているにも程があるとチェスターは胸中で毒づいた。
「ただ、どうしたもんか」
チェスターを殺すのはいい。
だが、彼は貴重な情報源でもある。
不安要素が多い今、脅威だからと殺すのはあまりに惜しい。
けれど、彼の覚悟を考えるに、降伏するくらいなら死を選ぶだろう。
現に、あんな戦い方をしていては命が幾らあっても足りやしない。
かといって、殺さない戦い方を貫ける程、圧倒的な実力差も存在しない。
下手を打てば殺される可能性も十分ある。
だからこそ、悩む他なかった。
そして、そんな時だった。
ヨハネス達の足下が、錆切った鉄のように、ぼろりと綻びを見せた。
「────は?」
一瞬、チェスターの仕業かと疑った。
しかし、チェスターもヨハネスと同様にその事実に目を見開いて驚いていた。
戦闘の余波で崩れたならば、まだ分かる。
アレクのようにダンジョンの力を使ってないものの、それならばまだ理解が出来るのだ。
だが、目の前で起きたそれは、一切関係のないように思える。
何より、その綻びは二人の周囲だけではなく、ダンジョンそのものにまで影響を及ぼしていた。
まるで、これまで支えていた何かが失われたかのように、綻んでゆく。
「…………まさ、かッ」
「何が起きてんだ、これは」
この現象に心当たりがあったのか。
脇目も振らず、チェスターはその場を脱して駆け出した。
それを見逃すヨハネスではなく、泳がせるという意味で、追撃こそしなかったものの、彼はチェスターの後を追う。
最中、目に映る景色が明滅を始めるわ、ダンジョンは崩れ落ちてゆくわ。
ここはどんなアトラクションなんだと呆れながらも冷静さを失ったチェスターを追いかける事、十数分。
漸く辿り着いたその場所には、ひび割れた巨大な水晶と、そこに閉じ込められた一人の男がいた。
「…………なんだこれは」
ダンジョンの下に、なんでこんなもんがある。
ヨハネスは必死に思考を巡らせるが、答えらしい答えが見つからない。
だが、チェスターの反応を見る限り、彼はこの存在を知っていたのだろう。
「なんだ。知らなかったのか。カルラ・アンナベルと一緒に俺チャンの事を探していた割に、そんな事も知らねーんだな。簡単な話だ。これが、この国の実態だ」
「……実態、だあ?」
「都市国家メイヤード。この国は、ノステレジアと呼ばれる一族の犠牲によって成り立っている。その、最後の人柱に選ばれた人間こそが、ローゼンクロイツ・ノステレジア。こいつだ」
「……最後?」
「嗚呼。これ以上の人柱は何が何でも造らせねー。だから、最後だ」
滔滔とチェスターは語る。
平然としている理由は、既にこの件について枯れるほどに涙を流し、どう足掻いても過去は戻ってこないと理解してしまったからか。
「本来なら、既にノステレジアの血脈は尽きていた。他でもねー人間の悪意によって。そしてそのせいで、このメイヤードは存亡の危機に晒された。この造られた国は、ノステレジアの力なくして存続は出来ないから」
ヨハネスも、薄々想像は出来た。
そうでもなければ、水晶に閉じ込められる、なんて事にはならないだろうから。
「だから、ある人間は考えやがった。ノステレジアの力が必要ならば、造ってしまおうと。こいつは、生まれたその瞬間から、人柱になる事を定められて生きてきた────いわば、デザイナーベビーだ。残されていたノステレジアの遺伝子を使って、人柱として一番都合が良いように造られた。国の存続とはいえ、あいつらはノステレジアを物か何かかとしか思ってねー」
「…………」
「嘘だと思うだろ? だけどな、これが本当なんだよ。だから俺チャンは許せなかった。だから、俺チャンはテオドールの手を取った。これは、俺チャンなりのケジメだ。この国で育った人間として。変えたいと願った人間として。ロゼに助けられ、友と呼ばれた人間として、この国は、壊さなくちゃいけねー。跡形もなく、もう一度造ろうとする意思すら生まれないぐらいに、何もかも。そうしねーと、ロゼのような犠牲者がずっと生まれ続ける」
だから。
「だから……だからッ俺チャンは────!」
眦を決して言葉を紡ごうとして。
しかし、チェスターが最後まで言葉を口にする事は出来なかった。
遮ったのは、殊更に大きく響いた水晶の割れる音。そして、続くように聞こえたまるでしゃっくりのような、くひひ、という変わった笑い声だった。